マッドの、今にも泣き出しそうな声を聴いて、サンダウンは一瞬言葉に詰まった。
  咄嗟に、言っている意味が理解できなかった所為もあったが、理解してからはマッドが背負わざ
 るを得なかった呪いの重さについて絶句したのだ。
  マッドが呪いを解きたければ自分を殺せと言った時は、何を言っているのかと反発したが、だが
 サンダウンの呪いが解けるという事もまた、マッドの死を意味しているのだ。

 「セイレーンの歌って言うのは、そういうもんなのさ。」

  マッドは風の鳴き声のように囁いた。

 「もともとは生きる為に、備わっていた機構だ。糧を得る為に命を危険に曝すってのは、別に珍し
  い話でもねぇ。それに、植物は呪いを解いてやろうだとか、そういう考えはねぇからむしろセイ
  レーンにとっちゃあ、楽な方法だろうよ。」

  けれども、人間に対しては。
  己の身に危機に曝された時、羽根で逃げるという行為だけでは逃れられない危険が迫った時、セ
 イレーンは歌を歌わざるを得ない。そして、セイレーンをそこまで追い詰める存在というのは人間
 以外にはなくて。
  だが、人間というものは、時に信じられない裏切りをする。
  どれだけ耳元で睦言を囁いても、次の日には全てをなかった事にしてしまうような連中だ。セイ
 レーンの呪いは決して解けない。だが、そんな、平然と物事を裏切る人間はどうだろう。今もとこ
 ろ呪いを食い千切って生きてきた人間はいなかった。しかし、それは本当に確実だろうか。
  サンダウンという例外が現れた時、マッドはその恐怖に曝される事になったのだ。
  もしも、サンダウンの呪いが唐突に途切れてしまえば。
  マッドの事など、どうでも良い存在であると気づいてしまえば。
  それどころか、マッドに危害を加えようとしたら。

    「結局、あんたが死ぬ以外に、俺が呪いから解放される術はねぇのさ。」

  マッドは、これは自分にかけられた呪いなのだと言った。
  サンダウンに呪いをかけた事により、自分も呪いにかかったのだ、と。
  では、マッドの言うように、サンダウンが死ねばマッドは呪いから解放されるのだろうか。サン
 ダウンはマッドの白い顔を覗き込みながら問うた。

 「私が死ねば、本当にそれで終わるのか?」

     サンダウンとて、死にたいわけではない。
  だが、マッドが今にも泣き出しそうに笑っている事が、サンダウンには耐えられなかった。そう
 させているのが、自分であるという事も。
  確かに、サンダウンはマッドの言うように呪われているのかもしれない。しかし自分の感情の発
 露が例え呪いであったとしても、自分がマッドにそんな表情をさせている事は許せなかった。もし
 もサンダウンが死ぬ事で、マッドの中の何かが救われると言うのなら、それを叶えてやりたかった。
  けれども、サンダウンの問いかけに、マッドの顔色は冴えなかった。
  お前が死ぬ事でしか終れないのだと言っていたセイレーンは、けれどもサンダウンの申し出に諸
 手を挙げて喜んだりはしなかった。
  マッドの白い手を取って、サンダウンが真意を問おうと視線を合わせれば、マッドは視線を外し
 てしまう。
  どうしたというのだろうか。
  マッドの喉元が、小さくひくついているのを見て、サンダウンはマッドがまだ全てを話したわけ
 ではないのだ、と思い至った。マッドの中には、まだ何かしら引っ掛かっている事があるのだ。

 「マッド。」

  サンダウンはマッドの手を握ったまま、その名を静かに呼んだ。
  一体何を隠しているのか、と。真意を問う意味の他に、出来うる限りの万感の想いを込めて名を
 呼べば、ようやく黒い眼がサンダウンを中央に映した。
  勝気な光を湛えているはずの瞳は、今は何かに苦しむように震えている。
  安心させるようにサンダウンは、マッドの手の甲を親指の腹で撫でて、マッドの喉の奥に詰まっ
 ている言葉を促す。
  ひくり、とマッドの白い喉元が動いた。
  そして、大きく閊えていた言葉が零れる。

 「あんたが死んでも、俺の歌は戻ってこない。」

  マッドがサンダウンの手元にいる理由。
  マッドは、セイレーンとしての歌声を失っているのだ。故に人間として暮らす為、寄る辺として
 サンダウンの傍にいる。
  だが、一方でマッドは歌声がなくとも人間として生きていける。サンダウンがいなくとも。それ
 はサンダウンも気が付いている事であり、故にサンダウンが不安を帯びている事なのだが。
  けれども、そうではないのか。
  マッドも、歌がない事が――人間として生きる事は不安なのか。
  いや、その前に。
  マッドは、サンダウンの所為で歌から呪いが消えてしまったと言っていなかったか。サンダウン
 にマッドの言葉の意味は分からず、最初はただの当てつけかと思っていたのだが。
  違うのか。
  本当に、マッドの歌が消えた事に、サンダウンが理由として直結しているのか。

 「………どういう事だ?」

  サンダウンは、マッドの白い顔を見下ろした。マッドは答えない。手の甲をなぞっても唇を噛み
 しめるばかりだ。
  血が滲むほど噛みしめられた、形の良い唇が痛々しくて、サンダウンは握っていたマッドの手を
 放すと、その手で今度はマッドの頬を包み込む。触れた頬は、思っていた以上に冷たくなっていた。
 かじかんでいるマッドに、サンダウンはふと憐れみを覚えた。それは見下すような感情ではなく、
 庇護欲に近いものだった。

 「お前の歌に、私が何か、関係しているのか?」

  歌声が消えてしまったという、その理由に。
  マッドは答えない。ただ、追い詰められた獣のような気配がするだけだ。まるで何かに怯えてい
 るような。
  そう。
  今のマッドは、サンダウンの呪いが解けてしまう事に対する怯えと、同じ色をしている。
  何か一つでも現在の状況を壊してしまえば、サンダウンの呪いが解けてしまうと恐れているよう
 だ。

 「マッド。」

  頬を包み込んで、顔を近づけて、出来る限り優しく問い掛ける。
  迷子のように途方に暮れているマッドの様子が、どうしようもなく憐れで、愛おしくて。噛みし
 めた唇に、柔らかく口付た。
  途端に、マッドの黒い眼が零れそうなほど大きく見開かれ、ついで、ころりと大粒の涙が頬の上
 を転がり落ちた。それは、マッドの矜持やら虚勢やらも含めていたらしく、一つが零れると止まら
 なかった。
  音もなく、ころりころりと転がる涙は、ふっと見た瞬間に硬化して、高く澄んだ音を立てて床に
 散らばる。小さな光も逃さずに煌めいては、漣のように散っていく。
  世にも珍しい、セイレーンの涙だった。
  長い睫が瞬く度に零れる涙に、美しいと思うよりも先に、サンダウンはこれほどまでに不安を抱
 えていたのか、と思う。
  ずっと、不安なのは自分だけかと思っていたのだ。マッドがいつか何処かに飛び立ってしまうと。
 怯えているのは自分なのだ、と。
  けれども、マッドも別の意味で怯えていたのだ。サンダウンとは異なり、ひたすらに命に直結す
 る方向で。
  気づいてやれなかったのは、間違いなくサンダウンが独り善がりであった所為だ。

 「すまなかった。」

  お前なしでは生きていけないのだと言いながら、結局はマッドの事など何も考えていなかった事
 に。常にサンダウンなどいなくても生きていけるのだという態度に怯えるばかりで、マッド自身が
 何かに怯えている事など微塵も考えなかった事に。

     マッドからの返事はなかったが、けれども抱き寄せてもマッドは抵抗しなかった。