マッドは、依頼主に分厚い紙の束を渡すと、椅子から腰を持ち上げた。
  昨夜終えたばかりの翻訳を、納めに来たのだ。代わりに代金を受け取れば、この仕事は完全に完
 了となる。
  が、依頼主はマッドの差し出された手に代金を置くなり、マッドの手を握りしめた。
  男の手が自分の手にきつくはないが食い込んだのを見て、マッドは片眉を上げた。まれに、こう
 やって何を勘違いしたのかマッドに媚を売る人間がいる。
  もしかしたらマッドを自分の物にできるかと思い込んでいるのかもしれない。そういう輩はこれ
 までも何度も見てきた。
  マッドは男の脂ぎった手を、無表情で振りほどく。ただし、しっかりと金は掴んで。
  ひらりと鳥のように立ち上がったマッドを見上げた男は、あまりにも未練がましい眼差しをして、
 マッドに問いかけた。

 「何故だ。」

  何がだ。
  マッドは心底面倒臭そうに、男の照りかえった額を見る。別に人間を見た目で判断するつもりは
 ないが、しかしそれでも、身体が時として内面を表す事だってあるだろう。どう考えても、この脂
 ぎった男は、金に物を言わせればなんとでもなると考える類の人間だった。
  そんな人間の仕事など引き受けなくとも良かったのだが、生憎と翻訳する本の内容が気になった
 ので、引き受けたのだ。別にこの男自体には興味はない。
  だが、そうは思わないのが人間の男というものらしい。 
  ガタガタと貧乏ゆすりをしながら、金なら幾らでもあるだとか、不自由はさせないだとか呟いて
 いる。
  マッドは別に何一つとして不自由していない――人間としては、だが――ので、とりあえず眼を
 細めて聞き流しておく。欠伸をしてやろうかとも思った。

 「あの男がいるからか。」

  何一つにも靡かないセイレーンに、男は最後の心当たりを口にする。どうやらマッドと一緒に暮
 らしているサンダウンに行き当ったらしい。まあ、傍目に見れば二人は恋人同士に見えるらしく、
 マッドを恋人扱いしたいサンダウンも、否定の言をしないので、二人の中は公認になりつつあるよ
 うだ。
  実際は、セイレーンとその呪いに罹った人間でしかないのだが。

 「あんな男の何処が。」

  真実を知らない男は、サンダウンの駄目なところをあげつらう。しがない保安官でしかないだと
 か、金も大して持っていないだとか、苦労する事は眼に見えているだとか。
  マッドがサンダウンに常々言っている、無精だとか、身形を整えないだとか、ハンカチを持ち歩
 かないだとか、そのあたりが出てこなかった時点で、マッドには何一つとして響かなかったわけだ
 が。
  それに、少なくとも目の前の男よりも、サンダウンのほうが見た目は良い。もさもさであろうが、
 脂ぎった肉の塊ではない。
  そう思って冷やかに男の、やはり照りかえった額を見ていると、男が視線に気が付いたわけでも
 あるまいにマッドを再び見上げた。

 「あの男がいなくなれば。」

  こちらに来てくれるか。
  非常に、失笑するしかない台詞であった。
  だが、マッドは男の台詞に少しばかり考える。
  周囲の眼に――特にマッドを妄信的に奪おうとしている輩の中には、マッドがサンダウンに閉じ
 込められている鳥のように見えなくはないのかもしれない。マッドは仕事と、サンダウンがいる時
 でもなければ外は滅多に出歩かないし、その様子が鳥籠の中にいる鳥のように見えなくはないのか
 もしれない。
  実際は単に、マッドがあまり外に出歩きたがっていないというだけの話なのだが、しかしある意
 味マッドはサンダウンに閉じ込められている状態ではあった。
  サンダウンを呪いによって絡め取っているのはマッドのほうではあるのだが、その呪いが実は諸
 刃である事は、マッドしか知らない。サンダウンは、よもや自分がマッドに刃を突き付けているの
 だなんて、夢にも思っていないに違いない。 
  そして、マッドがその刃から解放される術と言えば、サンダウンが死ぬ以外に方法はなかった。
  そうすれば。

 「あんたが、あのおっさんを殺してくれるとでも言うのか?」

  マッドは、苦笑と嘲笑を孕んだ声で、てかった男の顔に問いかけた。
  すると、男はそう言われるのを待っていたかのように、勢い込んで頷いた。

 「ああ、ああ!お前がそれを望むのなら。」

  呪いをかけずとも、そこまで言う人間は、滑稽であると共に非常に憐れであった。しかし一方で、
 サンダウンもそうであったなら、と思わずにはいられない。あの時、呪いにかけなければ。だが、
 サンダウンが今も生きている事がマッドには想定外なのだ。呪われた人間は、これまでは皆、腑抜
 けになって海の藻屑となったのだから。
  サンダウンも、そうなっていれば良かった。
  そうすれば。

 「……でも、てめぇには無理だろ。」

  マッドは男のてかった顔から眼を背けた。
  この男の力でサンダウンを殺す事など、絶対に不可能であるからだ。サンダウンが如何にセイレ
 ーンの呪いに罹っていようとも、サンダウンの実力が消え失せるわけではない。こんな脂の乗った
 だけの男など、一瞬で返り討ちに出来るだろう。
  それに、サンダウンが殺されたなら。
  そうすれば。
  いや、そうなったとしても、マッドのセイレーンとしての声が戻ってくる保障は何処にもない。
 むしろ、完全に消え失せてしまう可能性のほうが、高かった。鳥籠から抜け出せても、結局セイレ
 ーンとして生きられないなど、とんでもない笑い話であった。
  そして、結局のところ、マッドはサンダウンの鳥籠から抜け出せずにいた。
  マッドの言葉を真に受けた男は、到底勝ち目のないサンダウンに襲い掛かり、そのまま返り討ち
 に合い、牢屋の中に放り込まれたのだ。
  まさか本当にするのか、と呆れた眼で見ていたマッドの耳にも、男の見苦しい独り善がりの押し
 付けがましい親切の声が聞こえていた。全てはマッドの為に、と叫ぶ男の声に、酷くサンダウンが
 困惑していたのも印象的だった。
  困惑したサンダウンは、夜、マッドのいる部屋に戻ってきて、うろたえた眼差しでマッドを見下
 ろした。揺らめく青い眼は、なんだか曇空だった。

 「なんだよ。」 
 「……お前は。」

  しばし眼を泳がせていたサンダウンは、男の喚き声を呟いた。お前がマッドを閉じ込めているの
 だ、という喚き声。

 「私から逃げ出したくて、あの男を嗾けたのか?」
 「そんな必要がねぇ事は、あんたが一番良くしてるだろうが。」

  マッドの翼はいつでもマッドが取り出せる場所にある。それを身につければ、マッドはいつでも
 サンダウンから逃げ出せる。
  だが。

 「でも、あんたに死んでほしいのも本当だ。」
 「……何故?」

  憤りや怯えや驚きよりも、サンダウンの表情にはやはり困惑の色合いが強い。おそらく、もしも
 マッドが死ね、と言えば、サンダウンは死んでしまえるだろう。ただ、サンダウンは理由を知りた
 がっているのだ。 
  けれどもそれは、セイレーンの最大の弱点を曝す事になる。
  苦く笑ったマッドは、サンダウンから眼を背けた。

 「あの男、呪いもかけなくても、あそこまで俺の為とか騒げたんだな。」 
 「私だって。」

  妙なところで張り合い出したサンダウンに、マッドは今度は笑えなかった。どれだけサンダウン
 が比較をしようとも、サンダウンは呪いに罹っている。だから対象にはなり得ないのだ。 

 「あんたにも、呪いをかける必要なんかなかったのかもな。」 
 「呪いなど、関係ないだろう。呪われていようがなかろうが、私のほうがお前の為になんだってや
  れる。」
 
     不毛だった。
  マッドは首を、ゆっくりと横に振り、自分の手を掴んでいるサンダウンの手を同じくらいゆっく
 りと振りほどく。サンダウンの手はかさついていて、酷く乾いていた。そして、マッドが振りほど
 こうとすると、自分から解けて、ただしマッドの手の上に重ねてきた。

 「呪われていなくても、私はちゃんとお前を見る。」
 「それは悪魔の証明と同じだ。不可能だ。」

  セイレーンの呪いは決して解けない。基本的には。

 「呪いが解けないのに、それを証明する術は何処にもない。」

  基本的には。
  そう、呪いは、基本的には解けないが、例外があるのだ。

 「それとも、あんたは呪いを解いて、証明するってでも言うのか?」

  マッドは、サンダウンの青い眼を見据えて、問うた。