マッドの仕事は順調なようだ。
  古語を翻訳する人間というのは、サンダウンが思っていた以上に重宝されるらしく、マッドが仕
 事を見つけてから、いくつかの本を訳してから数日経った現在、マッドはひっきりなしに幾つもの
 本を抱えて行ったり来たりしている。
  家を空ける事も多くなったし、という事は、サンダウンの知らない何処かでサンダウンの知らな
 い輩に会っている可能性だってある。そして、サンダウンの知らない内に、そちらにばかり入り浸
 るようになる可能性だって。
  だが、サンダウンにはどうする事も出来ない事を、サンダウンは良く知っている。
  マッドがサンダウンから離れていくという事を、サンダウンは圧倒的に止める事が出来ないのだ。
 それはマッドが言うように、マッドの呪いに掛けられているからかどうなのか、サンダウンにはそ
 れも釈然としない。
  ただ、きっとマッドを忘れて生きていく事なんでいうのは出来ないだろうから、サンダウンはマ
 ッドの足元に跪いて、懇願するだけだ。その懇願も、行かないでくれ、というものではない。そん
 な身の程知らずな懇願は出来ない。サンダウンに出来るのは、せめてその時には別れを告げさせて
 くれという消極的な願い事だけだ。
  しかし、マッドは今のところは、何が起きても必ず一日の夕方にはサンダウンの元に帰ってくる。
  マッドの言い分を信じれば、俺がいなきゃあんたは飯も食わねぇ、からだそうだが。それならば、
 この先サンダウンが食事を抜き続ければ、マッドは延々とサンダウンの元に帰ってくるのだろうか、
 と、考えても詮無い事をサンダウンは考える。
  マッドがいれば幸せだ。
  くるりくるりと動き回るマッドを見れば、サンダウンは確かにそう思う。いなければ間違いなく
 だらりと骨のない人形のように垂れ下がるだけの人生だ。
  だが、マッドが手元にいて、しかも一切の期限もなくサンダウンと一緒に寝泊りし、サンダウン
 以外の人間とも面識が出来つつあるのを見れば、幸せに比例するように不安も向上していく。
  あまりにも、矛盾を孕んだ状態だ。
  マッドがいなければ海月よりも人から遠く分け隔てられた存在に成り下がるくせに、長く有り続
 ければ今度は不穏が腹に溜まっていくなんて、整合性など何処にもない状況だ。
  それは、単純に考えればサンダウンはマッドのものだが、マッドはサンダウンのものではないと
 いう事実によるものなのだが、やはりサンダウンにはそれを打開する術がないのが現状であった。
  サンダウンの状況など理解していないのか、それともどうでも良いのか、マッドは全く以ていつ
 も通りだった。
  歌に呪いを込める事が出来ない、人として生きるしかないと悟り、割り切った瞬間から、マッド
 は何一つとして迷っていないようだった。自分で仕事を見つけてきて、食事を作り、最近では市場
 も一人で見に行くようになったセイレーンは、サンダウンの家に暮らしているというだけで、サン
 ダウンを果たして必要としているのかという疑問があった。
  マッドが人の生活に溶け込んでいくという事が、サンダウンにとって猜疑と不安ばかり齎したの
 かと言えば、勿論そうではない。
  時間さえ合えばサンダウンは、勿論マッドと一緒に買い物に行く。マッドも何だかんだ言いつつ
 も、サンダウンが右隣、或いは左隣を歩く事を許している。人目を惹くとはいえ、しかし一方でマ
 ッドと一緒にいる事を他人に見せつける事が出来る格好の機会でもあった。
  二人が恋人同士だという噂が広まるのにも、そう時間は掛からなかったように思う。
  二人の間柄についてそれとなく聞いてくる輩もいれば、単刀直入にマッドとの事を揶揄してくる
 輩もいた。
  サンダウンは否定も肯定もしなかったし、それはマッドも同様だろう。サンダウンにしてみれば、
 誤解が暴走してくれたほうが好都合ではあった。マッドはサンダウンの恋人であると誰もが認識す
 れば、それで良いのだ。
  だが、暴走には弊害がある。
  マッドはサンダウンの恋人であると誰もが認識するのは良いとして、だがその事実の前に無言で
 首を項垂れる輩ばかりがこの世に存在しているわけではない。そしてマッドが美麗である事は、覆
 しようがない。
  つまり、例えば暴走の果てにサンダウンに白い手袋をぶつけてくる輩もいれば、声高にマッドを
 奪ってみせると公言する輩もいるという事だ。
  これらの事実に対してサンダウンは苦々しく思い、けれども打開するのはマッドの、くだらねぇ
 という鼻息一つであった。幸いにしてマッドは誰かの恋人を奪おうなんていう無粋な輩には食指を
 動かされないようだった。
  が、同時にマッドはちやほやされる事が好きでもある。甘えたがりというわけではないが、とに
 かくちやほやされる事に慣れているのだ。
  なので、ここ最近のサンダウンの不安は、マッドがあちこちから夜会やらサロンやらに誘われて、
 それにのこのことついていく事である。

 「だったら、あんたも一緒に来たらいいじゃねぇか。」

  不安に駆られるサンダウンに対するマッドの台詞が、こうである。
  マッドにしてみれば、パンがないならケーキを食べればいいじゃない、くらいの軽いノリで済ま
 される事象であるらしい。
  だが、基本的に夜会だのなんだの、そういう華やかな場所が苦手なサンダウンにしてみれば、そ
 れは苦痛以外の何物でもない。
  辛うじての救いは、何があろうともマッドはサンダウンの家に帰ってきて夕飯を食べる事だ。
  それと、サンダウンがマッドに抱きついても、あまり抵抗しなくなった事。
  抱きつくな、鬱陶しい、とか言いつつも、マッドは完全にはサンダウンを振りほどかない。サン
 ダウンが背後から抱きついても、最近ではサンダウンに身体を凭せ掛けるようになった。
  広がるマッドの行動範囲に反して、二人の距離が短くなりつつある事が希望であった。
  けれども、だからといって、外野の騒がしさは変わりはない。
  マッドを誘う輩も執拗にいるし、マッドを自分の物にすると公言して憚らない連中は、わざわざ
 サンダウンに聞こえるように言っていたりする。
     それら喧噪を弾き飛ばす事が出来るのは、マッドがサンダウンの手元にいるという事実だけだっ
 た。あまりにもか細い事実だったが。
  そしてサンダウンも、その事実がいつ途切れてもおかしくないという事は、理解していた。
  だから、ある晩、マッドが帰ってこなくなることも、想定の範囲内であったはずだ。
  マッドが帰ってこない。
  サンダウンは、ぼってりとテーブルにうつ伏せになっていじけていた。
  如何にマッドに、何かするときは一言告げて欲しいと言っても、それはサンダウンの願望でしか
 なく、マッドが聞き届ける必要はないのだけれども、しかしせめて、と思ってしまう。何か一言で
 も言ってくれたなら、それは別れであると理解できるのに。
  誰もいない、何も照らすもののない向かい側の椅子を見つめていると、酷く気分が落ち込んだ。
  きっと、何処か道草でもしているだけだろう。それは知っている。もしかしたら、誰かに食事で
 も執拗に誘われているのかもしれない。それも想定している。
  だが、腹に不安を抱えたサンダウンが、上手く現実を消化し切れるわけでもない。
  マッドが帰って来るまで、明かりも点けずにテーブルの上にべったりと倒れているサンダウンは、
 自分以外の誰かが明かりを点けて、ようやく身動きした。

 「あんたは何やってんだ。」

  呆れたようなマッドの声に、サンダウンは背筋を伸ばした。
  オレンジ色の光の中に立ったマッドは、いつにもまして影が黒い。やれやれと言わんばかりの表
 情で小脇に抱えた古びた本一式をサンダウンが頭を乗せていた机の上に置いたマッドは、お前は飯
 を食ったのか、と言った。

 「あのな、人としてどうかと思う生活は止めろよ。ちゃんと三食飯食って、働くってのが、人間の
  生活じゃねぇのか。」
 「……お前が帰ってこないから。」

  サンダウンは、ぼそりと呟く。
  半ば独り言のつもりで呟いたのだが、聞き咎めたマッドは手を止めてサンダウンを見ている。黒
 い眼はいつもより、僅かに大きく見開かれているようだった。

 「……そりゃ、何も言わずに帰るのが遅くなった俺への当てつけか?」

  マッドはサンダウンの懇願を忘れていたわけではないようだ。
  ただし、マッドはその懇願を聞き入れる必要は全くない。

 「悪かったって。ただ、今日は誘ってくる奴がしつこくって、撒いてたら時間がかかったんだよ。」

  マッドの謝罪に、サンダウンが眼を丸くする番だった。けれどもサンダウンは眼を丸くする代わ
 りに、マッドの手を掴むと自分の頬にぴたりと寄せる。

   「……撒く必要なんか、ないだろう。」

  此処までついてきたなら、サンダウンが追い払えば良いだけの話なのだから。そう言って、マッ
 ドの腰を引き寄せる。怒るかな、と思ったら、マッドは大人しくサンダウンの腕の中に納まった。

 「マッド?」

  今までにないマッドの反応――というか反応がない――にサンダウンが少し困惑すると、ようや
 くマッドが口を尖らせた。

 「なんだよ。あんたは俺がどんな反応したら満足なんだ。」
 「…………。」

    いや別に、ともごもごと口の中で呟いて、サンダウンは大人しくマッドを抱きしめる事にする。
 マッドも大人しい。

   「なあ、キッド。」

  マッドが、耳元で何事か囁いた。

    「明日、仕事休みだっただろ?どっか出かけようぜ。」
 「……構わないが。何処に行くつもりだ?」
 「何処だって良いだろ。適当にふらついて、その時気に入った店にでも入れば良い。」

  それとも嫌か、と問われて、サンダウンに断る答えなど出来るはずもない。
  頷いて、マッドの身体を膝の上に抱き上げた。