テーブルを挟んで向かい合ったサンダウンとマッドは、夕食の真っ最中だった。マッドは自分の
 為に蜂蜜とクルミ入りのパン、そして色とりどりの果物を籠に置いて、頬杖を突いて翻訳の仕事を
 進めていた。
  マッドの前にいるサンダウンは、マッドが作った香草が塗された舌平目のムニエルと、生ハムの
 サラダを、一心不乱にもぎゅもぎゅと食べている。男らしい食べっぷりは、前々から――サンダウ
 ンがセイレーンの島に乗り込んできた時から、全く変わっていない。もしかしたらマッドが作った
 という事もあって、マッドの呪いが罹っているサンダウンは俄然張り切って食べているのかもしれ
 ないが。
  只管に飲み食いを進めるサンダウンを、マッドは洋梨を齧りつつ翻訳進めている合間合間に顔を
 上げては眺め、そして再び紙にペンを下す。

 「……おい、キッド。」
 「む、美味いぞ。」
 「別に飯の感想を聞こうと思ってるわけじゃねぇよ。」

  勝手に話を自分の好きな方向に進めようとするサンダウンを制し、マッドは前々から気になって
 いた事を聞く。

 「あんた、俺がいない間、飯はどうしてたんだ?」
 「そこら辺にある物を適当に。」

  お前がいないのに、食事なんてとりたいと思うわけがないだろう。
  真っ直ぐな眼で言い放つサンダウンに、マッドは少しだけ聞かなければ良かった、と思った。セ
 イレーンの呪いに罹った人間がどうなるかなんて事は知っていたはずだ。骨抜きになり、呼吸さえ
 覚束なくなるという呪いに罹った人間が、主と化したセイレーンが不在の間、深海の海月よりも理
 性のない存在に成り下がる事など、眼に見えている。

 「人として、完全に駄目だな。」

  べったりと崩れ落ちたサンダウンを想像したマッドは、自分の呪いに罹っている事はさておいて、
 小さく突き放す。
  けれどもサンダウンは気を悪くするふうでもない。

 「お前がいないから。」

  当然だろう、と頷くサンダウンは、己の身に起きている事について、何一つとして釈明を必要と
 していないようだ。マッドがいなければ、生きていく事さえ困難になりつつあるという事象にも。

    「俺がいなくなったら、あんた完全に野垂れ死ぬぜ。」
 「うむ。」

     しかもサンダウンは否定しなかった。

    「だから、もしもお前が此処から出ていく時は、必ず私に一言言ってくれ。」

  髭に千切りキャベツを付けた状態で、サンダウンは真顔で告げる。 
  羽毛を仕舞っているタンスの鍵は、マッドが持っている。だからマッドはサンダウンに黙って出
 ていく事も出来るのだ。
  だが、サンダウンはそうしないで欲しいと言う。
  マッドが此処を出て行ったとしても、サンダウンにはそれを引き止める術など何処にもないのに。
 セイレーンの呪いに罹っている以上、サンダウンはマッドの言いなりだ。

 「お前が此処を出ていくのなら、私も一緒に行く。」
 「あんたがついてきても、俺には何の旨みもねぇよ。」

     本気で言っているのだろうサンダウンに、マッドはけれども適当に返す。その事はサンダウンに
 も分かったのか、本気だぞ、と言っている。  
  本気な事くらい分かっている。呪いをかけられたサンダウンは、マッドの事に関しては、いつだ
 って本気だろう。救いようがない事に。
  そしてマッドは、人として生きる為に、この救いようがない事態を寄る辺としたのだ。

    「そんな事よりも、マッド。」 

  ごくりと魚を飲み込んだサンダウンは、マッドの手元をじぃっと見つめる。

 「一体、その仕事をいつまで続けるつもりだ。」
 「いつまでも何も、始めたばっかりだろうが。」
 「いつでも止めて良いんだ。」

    マッドの言葉を完全に無視したサンダウンは、さっと立ち上がると、マッドの背後に回り込み、
 書き掛けの訳を取り上げてしまった。
  マッドがむっとしてサンダウンを睨み付けようと顔を上げると、サンダウンはマッドの動きより
 も早くマッドを背後から抱きかかえてしまう。そのままひょいと横抱きにして、たった今までマッ
 ドが座っていた椅子に腰を下ろしたサンダウンは、マッドの項に顔をうずめて、すんすんと鼻を鳴
 らしている。

 「何すんだ、あんたは急に!」

  咄嗟に声が出なかったマッドは、身体の動きが停止してからようやく声を上げる事が出来たが、
 サンダウンは返事をせずに、マッドの匂いを嗅いでいる。

 「あんたなあ……。」

  マッドは尚も言い募ろうとしたが、サンダウンはべったりと張り付いて、一向に離れる気配はな
 い。マッドが本気で嫌がれば、サンダウンは一、二もなく離れていくだろうから、マッドも本気で
 サンダウンを引っぺがそうとは考えていないようだ。
  小さく溜め息を吐いて、マッドはサンダウンの腕をぺちぺちと叩く。

 「仕事は止めねぇ。それに、俺の訳は案外評判が良いんだ。」

  これまで、二、三冊の本の訳をした程度だが、マッドの訳は正確で、且つ読みやすいという声を
 受けている。ちらほらと翻訳してくれとの声もかかり始めたのだ。
  が、それはサンダウンにとっては面白くない情報であったらしく、むぎゅっとマッドに抱きつい
 てきた。そんな仕事止めてしまえ、と言わんばかりだ。

 「別に良いだろうが。それに、変な奴には引っ掛からねぇよ。きちんとした所からの仕事じゃなきゃ、
  受けねぇ。」
 「きちんとした所でも、お前に色目を遣うか可能性はゼロではないだろう……。」

  もぞもぞと呟く男は、生憎と本気で言っているのだ。
  マッドが自分の行動については抵抗しないのを良い事に、サンダウンはマッドの耳朶やら米神や
 らに一つずつかさついた唇を押し当てていき、最後はマッドに擦り寄る。マッドの唇にまでは、流
 石に到達してこない。

 「マッド、頼むから……。」

  何とも情けない声で、サンダウンは囁く。
  そんな声で囁かれた懇願は、けれども後に続いたのは、マッドが想像するいずれの形も成してい
 なかった。
  仕事を止めろではなく、他の誰にも会うなでもなく、まして何処にも行くなでもなく。

    「私に、きちんと、話してくれ。」

  立ち去る時、別の仕事を見つけた時、他の誰かと会う時。
  そして。
  例えば、いつか。
  サンダウンを不要とする時。

 「私を、本気で置いていく時は、そうだと言ってくれ。」

  黙って切り落とさないでくれ。
  切実に訴えるサンダウンは、マッドに対して裏切られたという言葉を使う事が出来ない。マッド
 が仮に、サンダウン以外の寄る辺を見つけた時、それはマッドにとっては裏切りでも何でもないか
 らだ。サンダウンも、その事が分かっている。
  ただ、故に、別れの瞬間だけは話してほしいと訴えるのだ。
  以前のように、期限のある逢瀬ではない。期限のない時間に終わりを告げる事が出来るのは、マ
 ッドだけだ。
  マッドには、終わりなど見えていないのに。
  だが、それを知らないサンダウンは、切羽詰った気配で身じろぎもせずにマッドを抱きしめてい
 る。だから、マッドはそれについて頷くしかない。

 「ああ。幕は俺が降ろしてやる。」