サンダウンは幸せそのものだった。
  何せ、二度と帰ってこないと思っていた黒いセイレーンが、時を置かずして自分の手元に戻って
 きたのだ。
  タンスの奥に仕舞い込まれた黒い羽毛を思い、タンスの鍵はマッドに渡さずに自分で持っておい
 て、海にでも投げ込めば良かったかもしれない、とちょっとだけ思う。そうすれば、マッドは再び
 羽ばたけず、少なくとも突然何処かに飛び去ってしまうという事はないだろう。
  だが、マッドが少しでも煩悶するところは見たくないサンダウンは、黒い羽毛を脱いだマッドに、
 タンスの鍵を預けてしまった。マッドがいつでもセイレーンとして生きていけるように。
  それでよいのだ。
  マッドがいる幸せの中に、マッドが再び何処かに行ってしまうという恐怖に怯えながら、サンダ
 ウンはけれどもそれが正しいのだと信じてやまない。
  それは、サンダウンがマッドの呪いに罹っているからに他ならないのだが、自覚のない男は、と
 りあえずマッドが自分の手の届くところにいる事に大いに満足しているのだ。ふりふりのしっぽが
 ない事は少し残念ではあったが。
  残念と言えばもう一つ。
  サンダウンはそんな事する必要はないと言うのに、マッドは職探しに行ってしまった。セイレー
 ンとして生きていけない以上、人間として生きるしかないと言うマッドは、当然の事ながら人間と
 して仕事をすると言うのだ。 
  サンダウンは、マッドは別に働かなくても良いと思っている。サンダウンの給料で、マッドを養
 う事くらい、わけはない。というか、サンダウンはマッドの為に給料を使い果たす事について、全
 くと言っていいほど躊躇いはない。
  なので、職探しを本気で始めたマッドに、何度も何度も、そんな事はしなくても良いと、その辺
 の女が聞けば喜びそうな事を言ってきた。だが、その辺の女ではないマッドには全くと言っていい
 ほどその手の誘惑は効果はなかった。
  サンダウンの嘆願など鼻先で吹き飛ばし、てめぇは俺がそんなにナマケモノに見えるのか、と職
 探しの為にサンダウンを放ったらかして何処かに行ってしまった。
  そんなマッドに、サンダウンは一体どんな職を持ってくるつもりなのかとはらはらしていた。
  サンダウンとしては、マッドにはあまり人目についてほしくない。それはマッドがセイレーンだ
 からとかそういう意味ではなく、単に恋に堕ちた男の醜い嫉妬からである。
  マッドは美人だ。
  セイレーンは一様に美しいと聞いていたが、花咲き乱れるセイレーンの島では別に悉くが美人と
 いうわけではなかったので、やはりマッドはセイレーンの中でも美しい部類に入るのだろう。故に、
 人間の姿となったマッドも、必然的に美しい。
  それ故、前回マッドがサンダウンの家にいた時も、マッドをちらちら見る輩が大勢いた。そいつ
 らを全員縊り殺してやりたい衝動に駆られつつも、何とか自制できたのは、まだマッドが人目につ
 くところに出ようとしなかったからだ。
  が、今回はそうもいかない。人間として暮らす覚悟を持ったマッドは、仕事をするという明らか
 に人目につくような行動をしようとしている。 
  サンダウンは、マッドが一体どんな仕事を選ぶのか、さっぱり見当もつかないが、しかし単純に
 考えればマッドは歌い手なのだから、そういう仕事を選ぶのではないかと、そして歌い手なんて、
 何よりも人目につくどころか、眼だって仕方のない職業だと思い、サンダウンは悶えているのだ。
  見た目麗しいものに手を出したがる輩は多い。社会的地位が上がれば上がるほど、そういった輩
 は増えるのだ。
  もしも、どこぞの貴族に眼を付けられたなら。
  そう考えて悶えるサンダウンを、帰ってきたばかりのマッドが見つけて、非常に微妙な顔をした。

 「……何してんだ、あんた、気持ち悪ぃ……。」

    一人悶えるおっさんは、確かに気持ち悪い以外の何物でもない。だが、サンダウンにとっては、
 そんな事は大事の前の小事であった。
  悶絶するのを止めたサンダウンは、帰ってきたばかりのマッドに素早く擦り寄ると、腕の中にマ
 ッドを囲ってしまう。保安官事務所に誰もいないからといって、やりたい放題である。そんなやり
 たい放題のおっさんから、マッドはするりと逃げてしまう。
  するりとマッドが抜け落ちてしまった腕を残念そうに見下ろしながら、サンダウンはマッドの仕
 事がどうなったのかを聞いてみた。

 「ああ、見つけてきたぜ。」

  あっさりとしたマッドの台詞に、サンダウンは再び悶えたくなった。
  マッドはサンダウンの前で手にしていた古びた本と、何枚もの紙を見せびらかす。しかし、サン
 ダウンはそれが何を意味するところなのか分からない。
  何だそれは、という顔で目の前でちらつく紙媒体を見ていると、マッドもサンダウンにそれで何
 かが通じるとは思っていなかったらしく、すぐに答えを告げた。

 「この本は、古語で書かれててな。それを翻訳するのが俺の仕事だ。」

  つまり、翻訳の仕事を見つけてきたという事か。
  だが、翻訳など出来るのか。いや、出来るから仕事にしたのだろうけれども。

 「馬鹿にするんなよ。俺はあんたが思ってるよりも人間の世界を見てきたし、それに古い土地にも
  行った事がある。古語だって読めるさ。」
 「他のセイレーンも、そうなのか?」
 「さあな。けど、あの島のセイレーンは古語なんか知らねぇみたいだったから、住んでる土地にも
  よるんだろ。」

      そうか、と頷いて、サンダウンは同時に酷く安堵した。
  サンダウンはてっきりマッドが歌い手になるのかとばかり思っていたものだから、訳者という人
 目につかない仕事を選んだ事に安堵している。
  あからさまに溜め息を吐いたサンダウンに、マッドは片眉を上げて、なんなんだ、と言う。

 「俺が訳者になるのが、そんなに意外か、ああ?」

  気を悪くしたようなマッドの声に、サンダウンは慌てて首を振った。

 「……違う。私は、お前がてっきり歌い手にでもなるのかと……。」
 「は、歌えなくてセイレーンでいられない俺が?俺はそんな自虐趣味はねぇぞ。」
 「そういうつもりでは……。それに、別に花を咲かせられなくなっただけで、歌自体は歌えるんじゃ
  ないのか。」

  花を咲かせる事が出来なくなったというマッドに、サンダウンは具体的に一体どういう症状で、そ
 してどうすれば治るのか、といった事は聞いてこなかった。聞いたところでサンダウンにはどうしよ
 うもないし、サンダウンにとってはマッドがいればそれでいいのだし、それに治療法なんてものを聞
 いて治る見込みを具体的数値で示されたら、不安が広がるだけだ。だから、サンダウンは何も聞いて
 こなかった。
  マッドがサンダウンの所為だと言い放った事について気にならないわけではなかったが。

 「歌えるけど、また呪いが戻ってきた時の事を考えれば、そんな目立つ事できるか。あの人間とあの
  セイレーン、似てたわね、なんて話になったらどうするよ。大体、セイレーンの羽根が脱ぎ着出来
  る仕様だって事自体が、そもそも誰にも知られてねぇ事なんだよ。」
 「……私以外はな。」
 「微妙に喜ぶな、ヒゲ。とにかく、俺はそんな目立つ様な事するほど、馬鹿じゃねぇ。てめぇも、俺
  が歌が上手いだとかそんな噂を立てないように。」
 「分かった。」

    マッドとの平穏な生活を守る為である。
  サンダウンは神妙な顔をして頷き、とりあえず、もう一度マッドを腕の中に囲おうと手を伸ばす。
 が、セイレーンはそれをあっさりと躱すと、古本を持ってサンダウンの部屋に戻ろうとしている。

 「……何処に行く。」
 「早速仕事に取り掛かるに決まってんだろ。」
 「……別に、明日からでも。」
 「生憎と、こういうのはやろうって決めた時が大事でね。あんたもさぼってないで、保安官として
  の仕事をしたらどうだ。」
 「……別に今は至って平和だ。」

  誰も保安官事務所に駆け込んでくる事がないのを見る限り、街は至って平和なようだ。
  だが、だからといってマッドの仕事の邪魔をしても良いという言い訳になるはずもなく、サンダ
 ウンはしぶしぶと事務所机に座り込んだ。
  サンダウンが大人しく言う事を聞いたのを見届けてから、マッドもふらふらとサンダウンの部屋
 の扉を開き、

 「安心しろよ、仕事を始めたからって以前みたいにあんたの部屋の片づけをしてやらねぇわけじゃ
  ねぇ。その証拠に、今日の晩飯も作ってやるさ。」

  サンダウンが物凄い勢いでマッドを見るよりも先に、ぱたりと扉が閉じた。