マッドは、薄暗い木の壁の向こう側から響く喧噪に気が付き、眼を覚ました。分厚いカーテンが
 降ろされた窓からは、微かに一条の光が差し込む以外は光らしい光はなく、マッドは一歩間違えれ
 ばまだ夜かと見紛う部屋で、もぞりと動いた。
  むくっと首だけ持ち上げて、身体に掛けられていた毛布を振るい落とすと、きょろきょろと辺り
 を見回す。
  僅かな光源でも分かるのは、その部屋が非常に色気のない上に味気もない、埃っぽくて寝る為だ
 けに存在する場所であるという事だけだった。
  間違っても、あの花咲き乱れる島にある、自分のごちゃごちゃとした、けれども気持ちよく纏ま
 った部屋ではない。
  それを見て、マッドは小さく溜め息を吐いて、のろのろとベッドから足を下した。そしてカーペ
 ットなんてものは微塵も見当たらない床に、げっそりとする。
  此処は自分の部屋ではない。
  自分が呪いをかけて、自分に恋をしているサンダウン・キッドの保安官事務所に隣接する部屋な
 のだ。そして、マッドが潜り込んでいた部屋には、既にサンダウンの姿はなく、保安官事務所とを
 繋ぐ扉の向こう側から、ごそごそと音がする。
  どうやら、あのおっさんは既に活動しているようだ。もしかしたら、マッドの為に朝食を準備し
 ているのかもしれない。
  マッドの呪いに罹っているサンダウンは、その命を最後までマッドに捧げるほどだ。
  その事実を良しとするかどうか、それは今のマッドには判断できない事だった。
  マッドは、歌を失っている。
  正確に言うならば、歌を歌っても、その声は旋律をなぞる事は出来ても呪いをかける事は出来ず、
 花は咲かず人は足を立ち止めもしない。セイレーンならば生まれ持ってあるはずの、呪いの歌声が
 消え失せてしまったのだ。
  セイレーンとしては、致命的な、セイレーンとしての生活にも困る事態。
  呪いを歌に込められぬセイレーンなど、もはやセイレーンではなく、只の人と同レベルの存在で
 しかない。
  むろん同族からは白い眼で、或いは奇異の眼で見られるだろうし、花を咲かせられぬセイレーン
 はセイレーンとしての生活を営む事も出来ない。故に、寄る辺もない人の群れの中にに紛れて生き
 るしかない。
  人として生きたセイレーンが、過去にいないわけでもなかったし、歌声から呪いが失われてしま
 ったセイレーンがいなかったわけではなかった。
  前例のあるそれらは、前者はマッドも一時期人間に紛れていた事があったから馴染みはしたが、
 しかし後者はマッドにしてみれば信じがたい事だった。
  セイレーンから歌が失われる事は、セイレーンの呪いが打ち破られる事くらい、有り得ない事だ
 からだ。
  けれども現に、マッドの歌声からは呪いは失われ、そしてマッドは呪いに罹っているサンダウン
 を寄る辺として、この部屋にやってきた。
  昨夜、突然飛び込んできたマッドを、サンダウンは最初は驚き惚けていたものの、しかしマッド
 がしばらく此処にいると知るや、俄然元気になった。マッドが来るまではどうやらべったりとして
 いたらしかったが、それが嘘のように今は仕事をしている。
  マッドは、ちらりと部屋の片隅に置いてある古ぼけたタンスを見て、そのタンスの一番下の段に
 仕舞い込まれている自分の羽根と、そして自分の手元にあるタンスの鍵を見て、やはりサンダウン
 は呪いに罹っているのだな、と思う。
  人間として暮らす事になったマッドは、当然羽根を脱いでいる。その羽根は、タンスの奥に仕舞
 い込まれているのだが、誰にも盗まれる事のないように、とサンダウンはタンスに鍵をかけた。黒
 い艶やかな羽毛を仕舞い込んだ後、サンダウンは微かに躊躇したものの、タンスの鍵をマッドに渡
 したのだ。
  サンダウンが鍵を持っていれば、マッドが羽ばたいて何処かに行ってしまう事はないというのに。
  それをしなかったのは、やはりサンダウンの骨の髄まで、マッドの呪いが浸食しており、何事に
 もマッドを優先させる為だろう。
  マッドが何一つ言わずに消え去ったとしても、サンダウンはマッドを罵る事も出来ないのだ。
  だから、マッドはサンダウンを人間の世界での寄る辺とした。
  さて、マッドに寄る辺とされたサンダウンはといえば、何やら事務所でもぞもぞしているようだ。
 事務所とサンダウンの家とを繋ぐ扉は閉ざされており、マッドからはサンダウンの姿は見えないが、
 もぞもぞしている事だけは分かる。
  一体何をもぞもぞしているのかと思っていると、サンダウンがもぞもぞしながら扉を開いた。
  カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいるとは言っても、保安官事務所自体はまだ稼働状態で
 はないらしく、人の気配はない。尤も、保安官という職を考えれば、仕事が止まっている時という
 のはないのかもしれないが。
  とりあえず、保安官助手がやって来ていないところを見る限り、事務所は動いていないと考えて
 も差し支えはないだろう。
  訪れる者のない事務所からやって来たサンダウンは、両手に蜂蜜と果物を持っている。普段、食
 事に気を遣っていなさそうな男は、どうやらやはり、マッドの食事の為にもぞもぞしていたようだ。
  と言っても、蜂蜜も果物も、別段特別な仕込みがいるわけでもないものなので、そこはサンダウ
 ンの普段の生活が、如何に荒んでいるかによるものだろう。
  しかし、今のサンダウンは荒んでいた生活など全く忘れてしまったかのように、表情こそ変わら
 ないものの、うきうきとテーブルに蜂蜜の壺やら果物やらを並べている。

 「起きたのか。」

  テーブルに物を並べながら、サンダウンはベッドに腰を下ろしているマッドに声をかける。マッ
 ドが何か一言でも口にしたならば、マッドの足元に跪いて耳を傾けそうな雰囲気を出している男に、
 マッドは特に声を返すでもなく、腰を上げてテーブルの傍へと行く。
  マッドの為にサンダウンが椅子を引くのを見て、マッドはそれを無視するのは流石に憐れなので、
 引かれた椅子に座った。すると、サンダウンは満足したのか、向かいの椅子に自分も腰かける。

   「すまない……昨日の残りくらいしか出す事が出来ない。」
 「かまわねぇよ。急に押しかけたのは俺だからな。」

  マッドとて、昨日の今日でいきなり豪勢な食事を出せなどとは言わない。
  だが、マッドの声を聞いたサンダウンは、なんだか非常に嬉しそうな気配を出した。マッドの手
 が蜂蜜に伸びて、蜂蜜を銀の匙で掬いとるたびに、嬉々とした気配が深まっていく。

 「……それで、昨日も言っていたが、花を咲かせられなくなった、と言うのは。」
 「言葉通りの意味だ。それ以上でもそれ以下でもねぇ。」
 「治らないのか?」
 「分からねぇ。これまでにも何人か、そういう状態になったセイレーンはいるみてぇだが、そいつ
  らの声が元に戻ったっていう話はきかねぇな。」
 「そうか………。」

  ますます嬉しそうだ。理解は出来る。声に呪いが戻らなければ、マッドはこの先セイレーンとし
 て生きる事は出来ない。それは、マッドがサンダウンを寄る辺とする時間が長くなる事を意味して
 いるからだ。

 「だが、原因は……?お前は私の所為だと言っていたが……。」
 「気にすんな、ただの八つ当たりだ。」

  この先、セイレーンとして生きていけない事に対する。   そう告げれば、サンダウンは不思議そうな顔をしながらも、納得したようだった。それを鼻で笑
 いながら、マッドはけれどもサンダウンの喜びは、意外に曖昧模糊としたものであると思っている。
  マッドはこの先、セイレーンとしては生きられない。だが、人間として生きる際に、別にサンダ
 ウンだけを寄る辺とする必要はない。マッドはいつでも翼を纏って、別の土地に行って別の人間を
 寄る辺とする事も出来るのだ。 
  それをしないのは、今はマッドに、そのつもりがないだけの事。
  この先、それが覆る事があるのかどうかは、それはマッドにも分からなかった。それに、覆った
 時は、きっと歌声も元に戻っているだろうという確証がマッドにはあった。
  だが、その確証には口を閉ざし、マッドは別の事を口にする。

 「とにかく、仕事を探さねぇとな。」

  セイレーンを止めて、人として生きる為には。
  途端にサンダウンが焦ったような声を上げた。

 「そんな事をする必要はない。」
 「馬鹿言うなよ。俺はてめぇに養ってもらうなんざ、ごめんだぜ。」
 「そんな。」

  自分が養うのだと言いたげなサンダウンに、マッドはそれはマッドを繋ぎとめる為の策でもある
 のだろうな、と思う。
  マッドが働かずにいれば、サンダウンは金銭的にマッドを繋ぐ事が出来る。
  だが、マッドはそれを許してやるつもりはない。それはサンダウンがどうこうではなく、単にマ
 ッドの性分に合わないだけなのだ。

 「まあ、今日一日は、この部屋を本格的に俺好みの部屋にするとして、明日から職探しだな。」

    そんな事しなくて良いのに、と呟くサンダウンを無視して、マッドはこの街に有りそうな仕事を
 脳裏の奥で閃かせていた。