人生の絶頂期から、どん底に突き落とされた気分だった。
  眼が覚めたサンダウンは、眼の下に隈を作ったまま、最底辺を歩いているような足取りで、保安
 官事務所をうろつき回っていた。サンダウンとしては、保安官の仕事など放り投げて事務所から出
 ていき、そのままベッドにもぐりこんで眠ってしまいたかった。
  何故ならば、今や最愛のマッドはサンダウンの手元にはいないのである。
  しっぽを取り戻したマッドが、サンダウンに別れを告げる事は、前々から重々承知していた。そ
 れは、しっぽを奪われたと憤るマッドが常々言っていた事であるし、そもそもマッドは人間ではな
 くセイレーンであり、この街では生きるつもりがない以上、勿論いつかは帰っていく存在であった。
  しかし、理解していたとはいえ、それが現実となってマッドの姿が何処にもいない日々が続くと
 なると、それは苦痛でしかない。
  サンダウンは、マッドに恋焦がれているのである。
  黒い艶々ふかふかとしたしっぽだけではなく、しっぽのない通常の人間の姿のマッドであっても、
 その爪先一つにさえ跪いて崇めたくなるほど、恋焦がれている。もしもマッドが人間の姿でサンダ
 ウンの傍にいると言ったなら、しっぽなどどうでも良い、サンダウンは諸手を挙げて喜んだだろう。
  マッドはそれはセイレーンの呪いの所為であるというが、それは呪いをかけられているサンダウ
 ン本人には全く意味のない言葉であった。呪いの所為だろうがなんだろうが、恋焦がれている者を
 止める手段などなかろう。
  けれども、マッドを押さえつけてまで手元に置いておこうとするほど、セイレーンの呪いは深く
 はなかった。
  いや、術者の嫌がる事をさせないという事は、むしろ何よりも深い呪いであるのかもしれない。
  サンダウンはセイレーンの望む通りに、その手を離した。
  そして、今やサンダウンは一人きりである。
  助手の物言いたげな眼差しも、鬱陶しい以外の何物でもない。
  サンダウンが望むのは、早く一日が終わり、夜が訪れ、眠りの中に陥る事だけだった。眠りの中
 であれば、例え実体を伴っていなくとも、マッドがふらりと現れてくる事があるからだ。
  夢の中だから、何も考える必要はないし、何かを考えている暇もない。ただ、夢だと理解できた
 瞬間に、出来る事ならこのまま目覚めなければ良いのに、と考える事がある。むろん、そんな望み
 が聞き届けられないのだが。
  きっと、このままこんな事が続けば、とサンダウンは思う。
  恐らく保安官としての任務を解かれるだろう。だが、もしかしたらその方が良いのかもしれない。
 保安官という縛りから抜け出せたなら、何も考えずにマッドに会いに行く事が出来る。その時、マ
 ッドはあの島にはいないかもしれないが、けれども仕事を失った時分には、マッドを捜す為に何も
 かもを捨てても問題ないだろう。
  それは、途方もなく良い考えのような気がしてきた。
  だが、一方でマッドが聞いたら良い顔をしないだろうな、という気もした。マッドにサンダウン
 の思いつきを話せば、顔を顰めて、それも結局は呪いの所為だと言うに決まっているのだ。
  けれど、そんな事を言われても、サンダウンにはどうする事も出来ない。
  もはや、徐々に人間の生活すらどうでも良くなってきて、朝目覚める事さえ辛いのに、それは呪
 いの所為で、その呪いは解けないのだと言われてしまえば、サンダウンには打つ手もない。その上、
 では呪いが命じるままに生きようとすれば、マッドは眉を顰めるのだ。サンダウンに、一体どうし
 ろと言うのか。
  いじけるサンダウンを、口性のない連中は恋人と別れた所為であんなふうになっているのだと、
 冷やかに囁く。そういった連中は基本的に所謂貴族連中で、もしくは成金連中といった有力者達で、
 マッドがサンダウンの手元にいた時にその姿を見て、何か良からぬ事を考えていたのだろう。明日
 辺り、マッドが自分の恋人になったのだと言い出しかねない、そんな品のない連中だった。
  だが、そんな連中を抜きにしても、どうやらサンダウンの様子はおかしく見えるらしく、助手な
 どもサンダウンが恋に破れた人間だと思っている様子が窺える。
  そう言った視線は、やはり煩わしいものでしかなく、例え助手の思いやるような視線であっても、
 苦々しい思いしかサンダウンには齎さなかった。
  というか、放っておいてくれればいいのだ。
  サンダウンが恋に破れただとか噂しようが、それを思いやろうが、サンダウンには鬱陶しい以外
 の何物でもない。そもそも、思いやられてそれがサンダウンに何を残すと言うのか。人々に憐れま
 れたら、マッドが戻ってくるとでも言うのか。そんなわけがないだろう。
  それに、サンダウンを思いやったところで、サンダウンはそれに対して何らかの見返りを与えら
 れるわけでもない。与えるつもりもない。
  鬱々と、周囲の視線を避けながら、サンダウンは事務所の机の前で、とにかく早く時間が過ぎる
 事を願い続けた。とにかく、何の事件も起こらず、時間が来たらさっさと明かりを消して、布団の
 中に潜り込めるように、と。
  そして、サンダウンの願いは叶えられた。
  その日は何事も起こらず、サンダウンの手を煩わせるような事もなく、サンダウンはさっさと事
 務所を閉める事が出来た。
  強いて煩わしい事があったと言えば、助手が妙にサンダウンの世話を焼こうとして、事務所から
 出ていこうとしなかった事か。最終的にはサンダウンの低い苛立った声に怯えて出て行ったが。
  聞き分けのない助手を苦々しく思い、解雇してやろうかと考えつつもベッドに向かい、サンダウ
 ンは夕飯も食べずに布団の中に潜り込む。
  窓の外は日が暮れたばかりで、まだ空は錦が漂っていたが、サンダウンには関係のない事だった。
 サンダウンは、夢の中でマッドに会いたいだけだった。
  布団の中で、マッドの事だけを思い出して、マッドが転がっていたシーツの上をなぞって、しば
 らくの間は大人しく想像に浸っていた。夢が訪れるまで、そうやって静かに過ごすつもりだった。
 眠りがそう簡単には訪れない事は分かっていたし、だからその間の時間はマッドの事を思い出して
 過ごすのだ。その時間は一時間とも、二時間ともつかない。
  ただ、今日はおそらく二時間も経っていなかったに違いない。空はもう暗くなっていたが、街の
 灯りは消えていなかったからだ。
  そしてそんな時刻に、保安官事務所のドアを思い切り叩く音がした。
  勿論、夜に事件が起こる事は珍しい話ではない。酔っ払いの喧嘩から、銃を持ちだす騒ぎに発展
 する事は良くある話だ。
  けれども、今のサンダウンはそんな事で呼び出される気分ではなかった。サンダウンは早く夢の
 中に埋もれてしまいたかったのだ。 
  だから、それを妨げられた瞬間に凄まじく凶悪な思いに囚われたし、出ていくつもりなど毛頭な
 かった。
  が、扉を叩く音はしつこく続いている。
  苛立って、サンダウンは遂に布団を跳ね除けて立ち上がった。そして凶悪犯と間違えられても仕
 方のない形相で足音高く床を踏みつけ、閉じたはずの保安官事務所に入り、そのど真ん中を突っ切
 り、今もけたたましく鳴り続けている扉を、怒りに任せて思いきり押し開いた。
  そして、何か一言怒鳴りつけてやらなくては気がすまず、大きく息を吸い込む。
  しかし、サンダウンが珍しく声を荒げるよりも先に、凄まじい勢いで怒鳴り声が顔面にぶつかっ
 てきた。

 「てめぇ!なんでさっさと出てこねぇんだ!この俺を放置しておくなんざ、いい度胸してやがるじ
  ゃねぇか!」

  そのまま、決闘だ!とでも言いだしかねない口調で、けれども音楽的な響きを湛えた声音に、サ
 ンダウンはその場で固まった。
  固まったサンダウンを、ぎろりと睨みあげる黒い眼差しに、ますますサンダウンは動けなくなる。
 闇の中に浮かび上がる白皙と、それと対比するかのような黒い髪と眼に、呼吸困難に陥りそうだっ
 た。
  それとも、これは夢だろうか。

 「………マッド?」 
 「他に誰がいるってんだ。」

    辛うじて問えば、忌々しそうな声が返ってきた。そして、マッドは当然のようにサンダウンの家
 の中に入って行く。

 「なんであんた明かりもつけてねぇんだ。まさかこんな時間帯から寝てやがったのか。具合が悪い
  わけでもねぇくせに、なんてだらしのねぇおっさんだ。」

     文句を言いながらサンダウンの家に上がりこんだマッドを、サンダウンは慌てて追いかけて、暗
 い家の中に次々と明かりを灯していく。
  明るくなっていく室内の様子に、マッドは少し眩しそうに眼を細めていたが、つかつかとテーブ
 ルに近寄ると、当然のように椅子に座った。その手の中に、ふわふわの黒い羽根がある事に気が付
 いたサンダウンは、羽根を盗まれたわけではないのだ、と思う。
  しかし、それならば一体何故サンダウンの所に来たのか。
  サンダウンは夢見心地でマッドの前に蜂蜜を置きながら、マッドの様子を窺う。ついこの間サン
 ダウンの手元から離れていったセイレーンは、むっつりとした表情で蜂蜜を睨み付けていた。

 「マッド……?」

  蜂蜜がどうかしたのか。
  全く見当違いの事を考えたサンダウンに、マッドは鋭い一瞥をくれると、忌々しげに呟いた。

 「あんたの所為だぞ。」
 「……何がだ?」

  本当に狼狽えた。サンダウンは何もしていない。布団に籠る以外の事は何もしていない。
  狼狽えるサンダウンを余所に、マッドは忌々しい表情のまま続ける。

 「歌が歌えなくなった。」

    言っている意味が分からなかった。
  キョトンとするサンダウンに、マッドは眦を決して怒鳴りつける。

 「歌っても花が咲かなくなったんだよ、馬鹿!」

  セイレーンの歌には魔力がある。人を狂わせるだけではなく、植物に働きかけ花を咲かせる事も
 出来る。そうする事によって、セイレーンは生きる為に必要な花の蜜を年中集めていられるのだ。
  しかし、それが出来なくなったと、マッドは言っているのだ。
  確かに、しっぽがない間はしっぽに魔力があるので歌っても意味がないと言っていた。だが、し
 っぽが戻った今では、ちゃんと魔力も戻っているのではないのか。それとも、取り戻したしっぽは、
 別の誰かのしっぽだったのだろうか。

   「ちげぇよ。別の奴の羽根だったら、付けて飛ぶ事も出来ねぇよ。」

  そう。マッドは確かに黒い翼で羽ばたいてみせた。
  では、どういう事なのだろうか。というか、何がサンダウンの所為なのだろうか。
  サンダウンの疑問に対して、マッドはけれども同じ事を繰り返した。

 「あんたの所為だ。花を咲かせられねぇセイレーンなんか、セイレーンじゃねぇんだぞ。蜜だって
  採れねぇし、何よりも花一つ咲かねぇ庭を誰かに見られたらどうしてくれるんだ。」
 「……しかし、私にも原因が分からないんだが。」
 「とにかく匿え。花を咲かせる事が出来るまで、匿え。今の状態じゃ、俺はセイレーンとして生き
  ていけねぇ。」

  匿え、と騒ぐマッドが何を言っているのか、しばらくの間サンダウンは理解できなかった。いや、
 理解は出来たが夢かと思った。というか、マッドが今こうして目の前にいる事も夢かと疑っている
 のだが。
  が、ぼうっとしているサンダウンの髭を、反応がない事に苛立ったマッドが思い切り引っ張った
 事で、どうやら夢ではないと理解した。
  引っ張られた皮膚が、地味に痛かった。