花咲く島にあるマッドの家は、こじんまりとしている。部屋は小さな寝室とダイニングキッチン、
 そして書斎の三部屋しかない。
  しかし、代わりに庭は広い。
  家の四方をぐるりと取り囲むような庭には、まず門を入って左手側に紫の花弁を散らせる藤棚が
 植わってある。藤棚の下を埋め尽くすのは地面を這う名もなき草であり、それらは分厚く柔らかく
 生い茂っている。春先になれば、分厚い草の層を破っての蓮華が顔を覗かせて、辺り一面をピンク
 色に覆い尽くすのである。
  藤棚のある角を曲がれば、そこは季節構わず花々が所せましと犇めきあっている。水仙、菖蒲、
 アザミ、撫子、アザレア。それらが両脇に垂れ下がる通路を進めば、裏庭に出る。
  裏庭は、クローバーに覆われている。シロツメクサがぽつぽつと咲いているその中央には、マッ
 ドが唯一持ち込んだ薔薇の木が生えていた。
  赤い薔薇を咲かせるその樹は、しかしけれども今は花の盛りを過ぎて、微かに色褪せ始めた花を
 つけている。地面を覆うクローバーの間に見えるシロツメクサも茶色く変色しつつあったし、藤棚
 は花弁を散らし終えている。
  数日間留守にした事によって、草花が萎れ始めている我が家を見て、マッドはげっそりとしたが、
 それを元に戻すよりも先にしなくてはならない事があった。
  両手の中にある苗木。
  これを、何処かに植えてしまわなくては。
  サンダウンから渡されたその苗木は芙蓉で、マッドにとっては珍しい花でもなんでもなかった。
 持ち帰ったところで植える場所に困る事は眼に見えていたし、それならば海に投げ捨ててしまえば
 良かったのだが、草花を糧として生きるセイレーンとしてその行動はどうかと思ったので、こうし
 て持ち帰ったのだが。
  けれども、やはり何処に植えるべきか、と迷う。
  裏庭は駄目だ。そこには薔薇が植えられている。しかし藤棚のすぐ傍に植えても風情がないし、
 花を咲かせている通路に植えたら邪魔になるだけだ。
  そうなると、必然的に門を入って右側――藤棚の対面に当たる庭に植えるしかない。
  日はとっぷりと暮れ、マッドは少し疲れていたが、苗木を放置するわけにもいかず、スコップを
 手に庭の片隅を掘り始める。
  芙蓉の苗木を植えながら、マッドはこの苗木を渡した男の事を思い出す。
  マッドに呪いをかけられて、マッドに恋焦がれる人生を歩まなくてはならなくなった男。
  マッドの羽根については、しっぽしっぽと騒いでいたにも関わらず、マッドの羽根がなくなった
 時には酷い落胆と微かな喜色を見せた男。けれどもマッドの言うとおり、羽根を見つけ出し、マッ
 ドの膝元に返した男。
  どれだけマッドを引き止めようと思っても、あの男にはそれが出来ない。セイレーンの呪いに罹
 った者が、その命をセイレーンの為だけに燃やすように、サンダウンもマッドの為だけに生きるし
 かない。
  そしてマッドは、サンダウンの傍にはいないのだ。
  芙蓉を植え終ったマッドは、けれども疲れていて歌を歌って花を咲かせる気力がなかった。
  数日ぶりの家の中に入り、マッドは少し埃っぽい匂いを嗅いで眉を顰めたが、しかし今から掃除
 をする気にもなれず、寝室にある皺のないベッドシーツの上に寝転がる。
  星明りと、遠く離れた場所にある他のセイレーンの家の灯り以外には光源のない部屋の中で、マ
 ッドは小さく息を潜めた。
  久しぶりに一人で、ベッドの上に転がっている。
  もそもそとすり寄ってくる、むさ苦しい髭面のおっさんは、何処にもいない。
  自分の羽根に包まりながら、マッドはぼんやりと思う。あの男は、今、一人で部屋に閉じ籠って
 いるのだろうか、と。
  マッドのしっぽの事をあれだけ騒いでいたにも関わらず、実際にマッドが羽根を取り返した時、
 それについては一言も口にしなかったのは、やはりそれが別れを告げる合図だったからだろう。
  何を引き換えにしても、覆せない感情の在り処が、確かにサンダウンの中にはあるのだ。それが、
 マッドの呪いによって齎されたものであったとしても。
  しかし、サンダウンにはマッドを引き止める事は出来ず、こうしてマッドは、少し萎びた家に帰
 ってきた。明日からマッドは再びこの家を花咲き乱れる家にすべく、歌を歌って暮らす事になるの
 だ。そこには、人間の入る余地は何処にもない。
  この先マッドがあの町に行く事があるかどうかは分からないし、それにその前にマッドがこの島
 を出ていく可能性だってある。マッドというセイレーンは、基本的には根無し草なのだ。かつて、
 実は人間に紛れて暮らした事があるほどに、マッドは世界中を旅して、あちこちで暮らしている。
  この島には結構長い間滞在しているが、そろそろ出ていっても良い時期かもしれなかった。次に
 何処で暮らすかは全く決めていないが。
  それに、あの男自身も、あの町に居続ける事が出来るかどうかは分からないと言っていた。保安
 官として、別の町に赴任する可能性もあるのだ、と。
  それがあの男にとっては――マッドの呪いに罹っている今では、苦痛でしかないだろう。けれど、
 マッドにはどうする事も出来ない。そしてそれは、サンダウンも知っている。
  だから、あんな苗木を渡すに至ったのだろう。
  先程植えたばかりの、芙蓉の事を思いだし、マッドは小さく溜め息を吐いた。
  あんなものを渡して、それで何がどうなるというのだろうか。マッドが何処かに行ってしまう時、
 一緒に、と囁いていたけれども。だが、マッドがその時に連れて行くのは、やはり薔薇の花だけだ
 ろうと思う。
  芙蓉の花を持っていったところでマッドに何らかの特になるわけでもないし、そもそも芙蓉自体
 が、何に使うべきか迷う花だ。薔薇ならば、蜜だけではなく花弁から香水だの茶葉だのに使えただ
 ろうが、芙蓉となると、とんと使い道を聞いた事がない。
  それに、芙蓉を連れて行ったところで、サンダウンはマッドの傍にいられるわけではないのだか
 ら、全く以てどちらにも意味のない行為だと思う。
  マッドの邪魔になるだけだと、考えなかったのか。
  それとも、そんな事思いもよらないほどに思いつめていたのか。
  一言も、行くなと言う事が許されていない男は、ただただマッドの中に、何か自分の事を残した
 かっただけなのだ。必死になってマッドを甘やかそうとするサンダウンは、マッドに自分の事を覚
 えておいてほしかっただけに違いなかった。
  マッドの手を握るわけでもなく、手を添えてそれ以上の力を込められなかったのは、サンダウン
 の所為ではなく、勿論マッドの呪いによるものだ。

 「ああ、うぜぇ……。」

  マッドは小さく呟いて、寝返りを打った。
  ころころとベッドの上で何度も寝返りを打ち直し、しかしそれでも居心地の良い場所は見つけら
 れず、むくりと起き上がった。疲れていたのは確かだったが、しかし眠気が訪れないため、明日に
 先延ばしにしていた、庭の手入れを始める事にしたのだ。
  手入れといっても何のことはない。セイレーンの魔力のある歌で、木々に花を付けるように促す
 だけだ。
  夜なのに歌なんか歌って、と顔を顰める輩は何処にもいない。そもそもマッドの家は、他の家よ
 りも大分離れた場所にあるので、家の光や音が近隣住民に迷惑をかける事はないのだ。
  もぞもぞと身を起こして、さくさくと音を立てて裏庭に出る。
  広い裏庭では、クローバーが風に微かにそよいでいる間で、シロツメクサもふらふらと丸い頭を
 揺らしていた。
  数日前に咲かせたばかりのシロツメクサは、自然の理に従って、緩やかに枯れへの道を歩もうと
 しているようだった。だが、セイレーンの歌はその枯れを遠ざけて、無理やりにでも絶頂期に戻す
 事が出来る。むろん、やりすぎると植物が痛むので、ある程度までで控えているが。
  だが、今しばらく花の盛りを延ばしてやっても罪にはならない。
  羽根を取り戻すと同時に、セイレーンとしての魔力も取り戻したマッドは、花弁の先が茶色に変
 色し始めたシロツメクサの一輪に手を伸ばし、そっと白い指先で触れた。
  そして喉を震わせて、囁くように歌い始める。低い音程から高い音程へ、特に歌詞を持たないそ
 の歌は、しかしセイレーンが歌えば凄まじい魔力を生み出し、植物に有り得ない生命力を注ぎ込む。
  そのはずだった。
  数日前、確かにこの歌でクローバーを覆い茂らせ、シロツメクサを咲かせたマッドの歌は、しか
 しどういうわけか、全くと言っていいほど如何なる力も生み出さなかった。
  眼を大きく見開くマッドの前で、シロツメクサは茶色くなりかけた頭を小さく揺らすだけだった。
  マッドは狼狽えて、クローバー畑を見渡すが、やはりどのシロツメクサも反応していない。クロ
 ーバーの真ん中に生えている薔薇の木に近寄り、その今にも零れ落ちそうな花弁に囁きかけるが、
 こちらもぴくりとも反応しなかった。
  狼狽え、ぱたぱたと黒い翼をはためかせたりしてみるが、それが何かの解決になるわけではなか
 った。ただ、黒い羽根は間違いなく自分の羽根であり、そうである以上、マッドの魔力は戻ってい
 なければおかしかった。
  しかし庭にある花は全く反応せず、微かに揺れているだけだ。
  愕然とするマッドは、それでも庭のあちこちを動き回り、植物達に歌を囁き続ける。だが、藤棚
 は押し黙ったままで、蓮華達は顔を覗かせない。水仙は顔を俯けたままで菖蒲は眠りについている
 ようだった。
  辛うじて、一つだけマッドの声に小さく反応する木があった。
  それは、さっき植えられたばかりの芙蓉の苗木だった。