セイレーンの住まう島は、花咲き乱れる島である。
  
  その島はしかし、四方を断崖絶壁に囲まれており船が接岸する事は出来ない。それでもどうにか
  
 して登ろうとするものがいれば、その時は容赦なくセイレーン達が襲いかかる。
 
  彼らの歌に惑わされ、そのまま海に沈む者もいれば、その鋭い鉤爪に引っ掛けられ、崖に叩きつ
  
 けられるか、肉を引き裂かれるかして、斃れるのだ。
 
  それ故、花が咲き乱れる島は、その裏側に回れば、犠牲となった人間達の白骨が、うず高く積み
  
 上げられている
 
  そんな伝説が、あちこちに残っている。
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  02:序曲

 













  紺碧の海の中、幾つもの白く泡立つ波頭が見え、風が強い事を示している。それを天高くから見
  
 下ろしながら、黒色のセイレーンは標的を捜した。ほとんど羽根を動かさずに滑空するその姿は、
 
 さながら、獲物を定める隼のようである。
 
  事実、マッド、と狂いの名前で呼ばれる彼は、他のどのセイレーンよりも猛禽めいた鉤爪をその
  
 足に持ち、そして遠くまで見渡せる眼を持っていた。現に、彼の眼に捉えられて逃げおおせた船は
 
 一隻たりともない。その船に乗っていた人間は、皆一様に彼の声に魅了され、骨抜きになって何一
 
 つ出来ぬまま海を放浪するだけだった。運が良ければ偶々通りがかった別の船に助け出され、運が
 
 悪ければ嵐に出会って骨抜きのまま沈んでいく。
 
  そうやって、彼はこの島を人間の略奪から守ってきたのだ。
  
  
  
  そして、今、マッドの黒い眼は一隻の小舟を捕捉している。
 
  今にも波に飲まれてしまいそうなその小舟は、マッドが手を下さなくても転覆して沈んでしまい
  
 そうにも見えたが、しかし万が一という事もあった。何よりも、人間という生物は、非常にしぶと
 
 い。海に沈んでも生き長らえ、浜辺に辿り着く事もあるという。
 
  だから、念には念を入れて、最悪生き延びたとしても、二度と正気に戻れぬよう、完全に骨抜き
  
 にしてしまうのだ。
 
  
  
  カモメに混じって空を滑りながら、マッドは次第に小舟へと近づいていく。小舟に乗っている男
  
 の髪と髭が、砂色である事が分かるくらいに近付いた時、彼は形の良い唇をゆっくりと開いた。そ
 
 して、肺に空気を吸いこんで、喉を震わせる。    
 
  
 
  Lullay, Thou little tiny Child,

  By, by, lully, lullay.

  Lullay, Thou little tiny Child,

  By, by, lully, lullay.


  
  ゆっくりと、端正な旋律がその唇から零れ落ちる。声の高低も、紡がれる音階も、息継ぎの瞬間
  
 瞬間も、そんな事はどうでもよくなるくらい、それは完璧な音だった。風の音も波の音も、何人た
 
 りともその声の響きを妨げる事は叶わない。
 
  辛うじてその声に混じるのは、声と同じくマッドから発せられているマッドの羽ばたきくらいだ。
  
  マッドは、人の鼓膜の内部にまで侵入するような声音で、歌詞を旋律に変化させていく。そして、
  
 その旋律に合わせて旋回しながら、徐々に高度を下げて男の頭上へと移動する。

 

  O sisters too, how may we do,

  For to preserve this day.

  This poor youngling for whom we sing

  By, by, lully, lullay.



  ぽとり、と男の上に影が落ちる。
  
  真っ黒なマッドの影は、遠くから見れば何よりも不吉な色に見えただろう。しかし、その影の中
  
 にいる男には、そんな事を感じる暇もないはずだ。何故なら、マッドの影の中に入った男は、今、
 
 マッドの歌声にその身を毒されて、身動き一つ取れないはずなのだから。
 
  耳から侵入する毒は、一度聞いてしまえば逃れる術はない。口から入る毒と違って、吐き出す事
  
 が出来ないからだ。愚かな人間達は、耳に蜜蝋をしたり栓をするが、セイレーンの中でも本当の歌
 
 い人には、そんな耳栓さえ無駄だ。
 
  そしてマッドは、数少ない本当の歌い人の一人だ。何人もの人間が、マッドに挑みかかっては、
  
 マッドの歌に巻き込まれ、耳栓を自ら外して屈服してきた。だから、この男がどれほどセイレーン
 
 対策を講じていようとも、それは無駄な事だ。
 
  この男も、マッドの前で骨抜きになり、海の藻屑となるだけだ。
  
  
  
  Herod the king, in his raging,

  Charged he hath this day.

  His men of might, in his own sight,

  All young children to slay.



  歌いながらゆっくりと舞い降り、マッドは男の前に嫣然としたその姿を曝す。気だるそうに見え
  
 るほど優雅な仕草で小首を傾げ、両手を伸ばして男の頬を包み込めば、その空色の瞳からは一瞬で
 
 正気が失せた。
 
  その様子にマッドは口角を上げて笑う。焦点の定まらないその眼は、完全にマッドに魅了された
  
 証拠だ。
 
  後は骨抜きになって、延々と海を漂うだけ―――
  
  
 
  転瞬、マッドの視界が反転した。
  
  突如視界が翳ったかと思った瞬間、男を映していた視界は、真っ青な空で染まる。そして背中に
  
 軽い衝撃がかかり、腹から胸に掛けて生温いものが覆い被さっている。頬には、なんか、ふさふさ
 
 したものが。
 
  ぎぎぎ、と音がしそうな様子でふさふさの正体を見極めるべく首を動かしたマッドは、自分の顔
  
 のすぐ横に髭面があるのを見て、状況を理解した。自分は、今、男に抱きつかれているのだ。それ
 
 を理解して、マッドは絶叫した。
 
 
 
 「ふぎゃぁああああっ!」
 
 
 
  思いっきり羽根をばたつかせ、逃げようともがく。が、男はマッドの首筋に顔を埋めて、へばり
  
 ついてくる。べっとりとしたその姿は、まるで鳥もちだ。
 
 
 
 「ぎゃーぎゃー!放せー!ぎゃー!」
 
 
 
  先程までの妖艶な歌声を聞かせていた姿は何処へやら、マッドは鴉の鳴き声のような声を張り上
  
 げ、羽根を掴んで自分を拘束しようとする男から逃げようとする。が、その動きに煽られたのか、
 
 男は更にマッドに張り付く。マッドの下半身に手を差し込んで、羽毛の中をなぞり始める。
 
 
 
 「ぎゃああああっ!」
 
 
 
  マッドは、もこもことした羽毛の中を掻き回されるという、あまりにも変態的な行為――セイレ
  
 ーンにとっては羽毛の中を掻き混ぜるのは非常に不躾な行為だ――に一際高い悲鳴を上げた。
 
  もはや、一体何が原因でこんな事になっているのか分からない。
  
  マッドはいつも通り、歌で人間を魅了しただけだ。そうすれば、人間は立ち所に骨抜きになり、
  
 何もする気が起こらなくなり、呆けて一生を過ごすはずなのに。
 
  眼の前にいる男は、何故、こんな事をしているのか。確かに、マッドの歌はこの男に効いている。
  
 にも拘らず、男は骨抜きどころか素早い動きでマッドの動きを封じていく。
 
 
 
 「やめろー!いやだー!」
 
 
 
  マッドの黒い羽毛に覆われた下半身に顔を埋めようとする髭面のおっさんに、マッドは本気で危
  
 機感を覚えた。このままでは、島の平穏とかそんな事以前に、自分の貞操が危ない。
 
  しまいには、
  
  
 
 「嫁になれ!」
 
 
 
  と叫び始めた男にマッドは、自分が何か歌を間違えたのだろうかと思った。
  
  が、嫁になれと煩いおっさんは、マッドが呆然とする間にも無体を止めようとしない。マッドの
  
 身体をひっくり返して、短い尾羽に頬ずりし始めたあたりで、マッドの心が折れた。
 
 
 
 「止めろ、変態!」
  
  
  
  悲鳴と共に、マッドは鉤爪を振り上げる。
  
  渾身の一撃は、見事に男の顔面を捉えた。そして、顔に綺麗な鳥の足跡をつけて、男は仰向けに
  
 倒れる。その衝撃で小舟が激しく揺れる。その隙に、マッドは半泣きの状態で大きく羽ばたいた。
 
  幸いにして、マッドの蹴りは男の意識を奪うには十分だったらしく、男がマッドの羽根を掴んで
  
 引き摺り降ろしてくるような事はなかった。だが、初めて人間に襲われたマッドにしてみれば、い
 
 つ男が鳥もちを持って追いかけてくるかも分からないという恐怖がある。
 
  わき目もふらずに必死に羽ばたき、小舟から十分離れた後も羽ばたき、ようやく羽根を止めたの
  
 は、自分の家に駆け込んで鍵を掛けた後だった。