サンダウンはその日、朝から忙しくしていた。
  今日の夜、マッドはサンダウンの手元から飛び立ってしまう。
  マッドがサンダウンと共に暮らしたのは、たったの数日で、その間にマッドはサンダウンの部屋
 をマッド好みに作り替え、しばらくはマッドの匂いが残るだろうけれども、逆にサンダウンはマッ
 ドに何かを与えられたかと言えばそうではない。
  言い訳をするならば、仕事が忙しくて、マッドの顔を見る事が出来るのも朝と夜に限られている。
 勿論、セイレーンであるマッドが過ごしやすいように食事などは気を使ったつもりではあったが、
 それ以上の事をしてやれたかといえば、そうではない。
  だから、サンダウンが思うのは、このままマッドと離れてしまえばサンダウンはマッドを忘れる
 事はないだろうが、マッドはサンダウンの事など忘れてしまうだろうという事だった。
  そんな、マッドの中に何一つ残せない事も嫌だったし、何よりもせっかくマッドが――おそらく
 二度とないだろう――サンダウンの元にいるのに、マッドに対して必要以上の気遣いを見せてやれ
 ないのが心残りになる事は間違いなかった。
  なので、サンダウンはマッドがいる寝床から、マッドよりも早く這い出して、いそいそと最後の
 日を迎える準備を始めたのだった。
  毛布に包まっているマッドの旋毛を見下ろしながら、さくさくと着替え、どうするかと考え始め
 る。
  今日一日、とにかくマッドを着飾らせて、甘やかせて、それこそマッドが指一本動かさなくても
 良いように過ごさせて。マッドが欲しいというものは何でも与えて。
  けれどもマッドが欲しがるものと言えば、咲き誇る花と、そこから溢れる蜜くらいのもので。そ
 れらはセイレーンであるマッドの生命維持に欠かせないものであるから、サンダウンは毎日補充し
 ている。
  そして飛ぶ生物であるマッドは、着飾ったとしても、重い宝石を付ける事は好まない。サンダウ
 ンが知る、貴族の女達は、もはや腕を持ち上る事も億劫そうな巨大な石を付けた腕輪や指輪を嵌め
 ていたり、首を動かす事もままならないような何重にも鎖を編み込んだ首飾りをしていたりするも
 のだが、間違いなくマッドはそんなものは好まないだろう。 
  そもそも、装飾品で着飾らねば人目を惹けないような容貌を、マッドはしていない。飾る物を持
 たずとも、マッドは十分に美しかったし、人目を惹いた。
  サンダウンが、今日という最後の一日をどうやって過ごすべきかとうんうんと唸っているうちに、
 マッドがもぞもぞと起き上がり始める。セイレーンの一日は早いのである。
  マッドは身を起こすと、既に身支度を整えているサンダウンを見て、奇妙な表情を浮かべた。寝
 起きだというのに、特に何をしたわけでもないのに、今まで起きていたかのようは表情をしている 
 マッドの視線に、サンダウンは少しばかりたじろいだが、たじろいでいる暇など何処にもない事を
 思い出す。
  もう、時間がないのだ。

 「……何してんだ、あんたは。」

  マッドが音楽のように響く声音で問いかけるのに対し、サンダウンは少し間を置いてから問い返
 した。

 「お前は、何をしたいんだ?」

  サンダウンの問いかけに、マッドの表情が微かに歪んだようだった。マッドも、その問いの意味
 するところを理解しているのだろう。けれどもマッドがしたい事など特にあるわけもない事も、サ
 ンダウンは知っている。

   「特にする事もないのなら。」

  サンダウンは、自分の声がやたらぶっきらぼうにしか響かない事を、少々恨めしく感じた。だが、
 これは持って生まれたものなのだろうから、仕方がない。恋多き貴族ならば蕩けるように囁く事も
 出来るのだろうが、サンダウンはそんなものとは正反対に生きている。

   「市場にでも行くか?」

  といっても、マッドは好奇の眼を嫌がる節がある。そして、マッドのような男がうろつけば、否
 が応にも人目を惹く。 
  なのでサンダウンは、嫌ならばいい、という言葉を忘れずに付け加える必要があった。
  サンダウンのぎこちない誘いは、よほど朴訥な娘でもない限り、或いは田舎者をからかって遊ぼ
 うという意地悪な女でもない限り、魅力的には聞こえない声音であった。
  が、マッドは少し小首を傾げた後、こっくりと頷いた。

 「いいぜ、別に。」

  あっさりと頷いたマッドに、サンダウンのほうが少し慌てた。

 「……本当に良いのか?」
 「あん?誘ったのはあんただろうが。」

  そう言い返すと、さっさと身支度をしたマッドは、でも出かける前に朝ごはん、と要求した。 
  マッドの要求には全て応えるつもりであるサンダウンは、すぐさま蜂蜜とクラッカーを準備し、
 テーブルの上に並べ始めたのだった。


  


     二人きりで街を歩く、というのは実は初めてである。
  そしてこれが最後なのだ。
  マッドはサンダウンが昼間仕事に行っている間に、一人で街に行って、何やら買い込む事はあっ
 たが、サンダウンと一緒に出掛けるという事は、これまでなかった。
  それはやはり一人でも好奇の眼に曝されたからだろうし、サンダウンと一緒なら更なる好奇の眼 
 を集中させる可能性があったからだろう。 
  そういった事を踏まえても、マッドがこうしてサンダウンと連なって出かけるというのは、サン
 ダウンには――誘いはしたものの――想像もつかない事だった。
  しかし現実として、マッドはサンダウンの隣で、市場に並んでいる果物を眺めている。つやつや
 の赤い林檎を眺めるマッドを見て、それを購入して渡せば、マッドは林檎をしゃりしゃりと食べ始
 めた。
  他に欲しいものはないのか、と思いもしたが、セイレーンであるマッドはさほど食事を取らない。
 朝ごはんの蜂蜜とクラッカー、そして先程の林檎で満足したらしく、後はセイレーンとしての本質
 がそうさせるのか、花屋を一軒一軒覗き込んでいるようだった。

 「あの島の植物は。」 

  花屋を覗き込むマッドに、サンダウンは問いかける。

 「誰が、持ち込んだものなんだ?」 

  桜から薔薇から、何から何まで揃っているあの島で、全てが自生していたものではないだろう。
 そう思って聞くと、マッドは沈丁花を見ていた顔を上げ、答えた。

 「俺達が、色んなところから種を持ち込んで、育てるのさ。」

  マッドは花弁をつ、と細い指でなぞって、花弁の上を滴が伝い落ちるのを楽しげに見やっていた。

 「っつっても、あの島にずっと住んでる奴らは、そんなに出回ったりしねぇからな。ちょくちょく、
  旅芸人みたいなのが行商も兼ねてやって来る。その時に、異国の珍しいもんとかと一緒に、種も
  持ってくる事がある。俺が持ち込んだのは、あの薔薇の木だけさ。」

     薔薇の木以外のものは、あの島にあったか、誰かから貰ったかしたものだ。そして、もしもいつ
 かマッドがあの島を出る事があれば、マッドはやはり薔薇を何処かに持ち込むだろう。

    「……島を出ていく事なんてあるのか?」
 「さてね。もともと、俺はあの島の住人じゃねぇから。いつか出ていく事だってあるだろうよ。」 

  尤も、それは今ではない。
  マッドは、いつかサンダウンの知らない間に、あの島から立ち去って、心底サンダウンの知らな
 い場所に行ってしまう事があり得るのだ。
  その想像は決して愉快な物ではなく、サンダウンを深く落ち込ませた。
  だが、落ち込んでいても仕方がなかった。最後の瞬間というのは、刻々と迫っている。その前に、
 サンダウンはマッドの中に何かを残さなくてはならなかった。
    フリージアの鉢植えを眺めているマッドを横目に、サンダウンの視線はちらちらと花の咲いてい
 ない一画をうろつかせていた。





  時間が経つのはあっという間である。
  出来る限り味わう必要がある時間ほど、時と言うのは素早く過ぎ去ってしまう。
  マッドとの最後の一日も、気がつけば既に日は暮れ、太陽の残滓によって明るい僅かの時刻にな
 ってしまった。
  二人でゆらゆらと揺れるように、人気のない海岸線へと行く。
  それは、別れが近づく行程であった。
  歩いている内に、太陽の残滓は静かに消え去っていき、空も赤の錦は消え去って、孔雀色の深い
 青に覆われようとしている。完全に夜の帳が降りるのも、もはや時間の問題であった。
  そして、もうすぐ、マッドが飛び立つ岩だらけの浜辺に到着しようとしていた。
  無言であった二人の間に、不意にマッドが口を開いた。

    「で、あんたはさっきから何を持ってんだ。」
 
     サンダウンが小脇に抱えているものに、別に今気が付いたわけではないだろうが、マッドは問い
 かけた。
  その問いかけに、サンダウンが安堵したのも、そしてそれをどうやってマッドに渡そうかと思い
 あぐねていたのも、マッドにはお見通しであったのかもしれない。
  マッドの問いかけに安堵したサンダウンは、浜辺でその小包――サンダウンの両手にすっぽりと
 収まってしまう苗木を、マッドの手の中に押し込んだ。
  セイレーンであるマッドの邪魔にならず、そしてこれから先もマッドの生活に食い込むであろう
 ものなど、それくらいしか思い浮かばなかったのだ。
    そして薔薇しか持ち込まないというマッドの中に、サンダウンの手渡した苗木も含まれれば良い
 と思っただけだ。
  サンダウンの代わりに。

    「私も、いつまでもこの街にいるわけでもない。」 
  
  マッドがいつかあの島からいなくなってしまうように、サンダウンも永遠にこの町に赴任してい
 るわけでもない。いつかは、別の町に行く事があるだろう。その時、万が一にもマッドがサンダウ
 ンに会いに来ても、サンダウンはいないのだ。だから、その代わりに。サンダウンには、マッドの
 掛けた呪いが、深く突き刺さっているから。
    サンダウンの台詞に、マッドは一瞬大きく眼を見開いた。それは、サンダウンがこの町からいな
 くなるという事が信じられなかったからなのか、それとも苗木に込められたものの意味についてな
 のか、サンダウンには分からなかった。 
  そして、マッドもそれに応えるつもりなどなかったのか、ひらりと黒い羽毛を羽織ると、忽ちの
 うちにセイレーン本来の姿に戻り、別れの言葉さえ残さずに空に舞い上がった。
  両手に、苗木を抱えて。