マッドの羽根を盗んだ密売人達の捕り物は、未明のうちに、且つ秘密裏に行われた。捕り物がい
 つ行われたのか、それはサンダウンの屋根の下に住まわせて貰っているマッドでさえ、サンダウン
 がいつ密売人の所に突入したのか知らないほどだった。
  マッドがその朝目を覚ました時、サンダウンの姿は何処にもなかった。
  鋭敏であるマッドを起こさずにベッドを離れたサンダウンに、何とも奇妙な感慨を覚えつつも、
 当のサンダウン本人が家の中の何処にもいない事に、首を傾げていた。
  しかし保安官事務所のほうが騒がしいので、何事かと扉の隙間から覗いてみれば、もさもさの砂
 色の髪を、いつも以上に酷く乱したサンダウンが、数人の男達の腕を荒縄で縛って、引っ立ててい
 た。男達の向こう側では、何度か見た事のある保安官助手が、巨大な箱を台車に載せて運んでいた。
  蓋が閉じきらない箱の中からは、様々な物がはみ出し、垂れ下がっていた。
  その垂れさがる中に、マッドは見覚えのある黒い羽毛を見つけた。

     俺の羽根!

  心の中でそう叫んだマッドは、今すぐにでも箱の中から黒い羽毛を引きずり出してやりたかった
 が、しかし保安官事務所の周りには、人々のざわめきが分厚い層を作っており、窓という窓から好
 奇に満ちた眼差しが保安官の仕事ぶりを見ようと犇めきあっている。
  そんな中に、もしもマッドが飛び込んでいけば、無意味な憶測を生み出すだけである。マッドと
 てかつて人間の中で暮らした事があるのだ。人間の性は良く知っていた。
  なので、じりじりと心を焦がしながらも、保安官事務所とサンダウンの住んでいる部屋を分け隔
 てる扉の前で、サンダウンが黒い羽毛をマッドの手元に返すのを、待っていた。
  サンダウンの手元に黒い羽根が渡った以上、それは必ずマッドの手元に戻ってくる。
  確かに、サンダウンはマッドに黒い羽根を戻す事を渋るだろう。マッドの歌声によって呪われて、
 マッドに恋焦がれているサンダウンにしてみれば、翼を失くして飛べないマッドが自分の元にいる
 事は歓喜すべき事のはずだ。黒い羽根がマッドの元に戻れば、マッドが飛び去ってしまう事も知っ
 ているサンダウンとしては、黒い羽根をマッドにやすやすと返すとは思えなかった。
  しかし、一方でセイレーンの歌による呪いというものは、基本的に死を以てでしか解く事はでき
 ない。そして、セイレーンの一番の呪いである人の心をいとも容易く奪ってしまう呪いというのは、
 人の心を弄ぶ呪いでもあるのだ。 
  つまり、サンダウンはマッドに恋焦がれ、如何にマッドから離れたくないと思っていても、マッ
 ドが拒めば完全に引き下がる。
  そう。マッドがサンダウンを島から追い出した時のように。
  サンダウンは、無言でマッドに翼を差し出すに違いなかった。
  だから、マッドはサンダウンが黒い羽根を自分の手元に持って来ないなんてことは、全く心配し
 ていない。
  けれども、部屋の中で待つマッドに対して、人間世界の手続きというのは非常に煩雑であった。
  それはサンダウンが如何にマッドに恋焦がれていても、それを飛び越える事は不可能であった。
  保安官であるサンダウンは、保安官としての役割を果たさねばならなかったのだ。つまり、密売
 人の処断だけでも、その調書を書くだけでも数時間かかったし、密売人が非合法に手に入れた物品
 ――マッドの黒い羽根のように、亜人達から盗んだり奪ったりしたものが大半だった――の帳簿も
 つけなくてはならなかったのだ。
  マッドの黒い羽根だけをこっそりと隠し持って、マッドの手元に返す事も出来なくはなかったが、
 保安官事務所の周りには人だかりができていたし、密売人達の前でそれを為す事は出来なかったの
 だろう。
  結局、マッドはサンダウンが保安官事務所に戻って来るまで、ベッドの上に座って待たなくては
 ならなかった。そしてサンダウンが戻ってくるのは、逮捕の手続きである調書や帳簿だけではなく、
 密売人をもっと大きな町で断罪する為に検事やらと連絡を取ったり、その出迎えなどが積り重なり、
 どんどん先延ばしにされていった。
  そんなの後で良いじゃないか、とマッドは思わなくもなかったが、けれども事務所の扉を叩いて
 彼らの間に割り込んで好奇の眼差しを一身に浴びる事は、流石のマッドも耐え難かったので、仕方
 なく、大人しくベッドの白いシーツの皺を意味もなく伸ばしたり、テーブルクロスを無駄に取り替
 えてみたりして、時間を潰す事になった。
  そして、ようやくそれら全ての雑事が終わり、サンダウンが助手を事務所から追い返した後、押
 収した箱の中から黒い羽毛を取り出したのは、太陽が西の空を錦に染め抜いてから、かなり経った 
 後、空が既に藍染されてからだった。
  普通ならば夕飯も既に取っているような時間になってから、サンダウンは黒い羽毛を両手に抱え
 て事務所とマッドのいる部屋を分け隔てる扉を開いた。
  事務所の周りは、流石に昼間のように人垣ができているという事はないが、しかしいつもよりも
 外から聞こえてくる声は多い。聞こえてくる話の内容は、今日の捕り物の話題であるものがほとん
 どであった。
  久々の大きなニュースを囁き合う人々に囲まれる中、マッドは誰もいないと思われている部屋に
 明かりを灯す事は避けていた。サンダウンが事務所にいるのに、サンダウンの部屋に明かりが灯れ
 ば、やはりいらぬ詮索をされる事となる。
  なので、マッドは自分の髪の毛と同じくらい暗い部屋の中で、ぽつりとベッドに腰掛けていた。
  そしてサンダウンは、闇の中にいるマッドを見ても特に驚かなかった。それはマッドがそこにい
 ると知っているからでもあるし、或いはもしかしたら、サンダウンの腕の中に闇色の羽毛が毛先だ
 けを風に震わせて収まっているからかもしれなかった。
  部屋の中の闇と同じ色の羽毛を持ったサンダウンは、部屋の中に入ると、少し立ち止まるとラン
 プに手を伸ばし、器用に片手だけでランプの芯に火を灯した。
  すると、今まで闇の中にあった部屋は、一瞬で黄色い光に満たされる。しかし、光が出来た事で
 マッドの伸びた影はいっそう深い色になった。
  けれども一方で、マッドの黒い眼と髪はきらきらと光を弾いて、宝冠を頂いているように見える。
 サンダウンが腕に抱える羽毛も同じで、真珠の粉を塗したように煌めいていた。
  サンダウンが腕に抱える羽毛を見て、マッドがそれをこちらに持ってくるようにサンダウンに命
 じる。
  が、マッドがそれを命じるよりも早く、サンダウンはマッドの傍に歩み寄ると、その足元に跪い
 て、マッドの膝の上に黒い羽毛を膝掛のように置いた。
  黒い滝のようにマッドの膝を覆う羽毛は、マッドの良く知った肌触りであり、さらさらとして気
 持ちが良い。今すぐにでも裾を通し、そのまま空へと飛び立ってしまいたいほどに、軽やかだ。
  けれどもマッドが思うよりも大人しく、何よりもマッドが命じるよりも先にマッドに羽毛を返し
 たサンダウンは、マッドが飛び立つのを避けようとでも言うのか、マッドの膝に自分の頭を置いて
 マッドの羽毛に頬を埋める。

 「おい。」

    マッドが咎めるような声と共に、その白い手をサンダウンの頭に置こうとすると、頬を羽毛に埋
 めたままの状態でサンダウンはマッドの伸ばされた手を取った。サンダウンの手はかさついていて
 大きく、けれどもマッドの手を酷く丁寧に握り締めた。それは握るというよりも、添えるといった
 ほうが正しかった。
  けれども、そのかさつきが、サンダウンが何を言いたいのかを如実に物語っているような気がし
 た。茨の棘よりも、ずっと控えめな主張であったが。
  きっと、マッドが一言、離せ、とか、離れろ、とか口にすれば、その手はぽってりとマッドから
    離れて落ちるだろう。
  膝の上で羽毛に埋もれるサンダウンの砂色の髪を見ながら、マッドは決して振り払えないわけで
 はないサンダウンの無骨な手の棘を思う。
  その、何にも絡む事のない棘の奥から、サンダウンが小さく呟いた。

 「………明日、行くのか?」

  引き止める言葉を吐く事の出来ない男は、せめてもの願いを掛けようというのか、今日ではなく
 明日と囁く。
  本来ならば、今からでもマッドは飛び立つ事は出来る。夜の闇に紛れて島に戻る事が出来る。そ
 れを、サンダウンは明日に引き延ばそうとしているのだ。
  今日は人が騒がしいから。密売人を捕えた事で人の出入りが激しいから。もしかしたら、マッド
 の姿を見る者がいるかもしれない。
  だから、明日、と。
  そして、その願いの中には、マッドがもしかしたら此処に留まるかもしれないという淡い、本当
 に薄皮一枚もない願いが込められている。サンダウンも、期待していない、報われない願いだ。
  だからマッドも、そんな有り得ない願いは一蹴する。

 「ああ。そうだな。明日の夜、帰る。」

  マッドの言葉に対して、サンダウンは当然、落胆の色も見せなかった。
  ただ、ランプの光の揺れに掻き消されそうな声で、呟いただけだった。

 「……本当は、もっと色々な物を渡したかった。」
 「あん?」

  サンダウンの台詞をマッドが聞き咎めると、ぼそぼそと声が紡がれる。

 「……お前が喜ぶ物を見せたかったし、与えたかった。」

  マッドでさえ見た事のない花束や、異国で細工された宝石や、豪奢な装飾品やら、古びた本やら
 楽譜やら。例えそれはセイレーンにとっては無意味な物であっても、マッドが一時でも楽しめるも
 のであるのなら。
  あの花咲き乱れる島では見る事の叶わないものを、マッドに少しでも、もっともっと与えてやり
 たかった。
  マッドを引き止めるよりも、マッドと共に在れるその時間に、もっとマッドを喜ばせてやれたな
 ら、と。
  サンダウンは小さく呟いているのだ。
  明日には消え去るであろうマッドの膝に頬を埋めて。
  明日には一人取り残される部屋で。