マッドは手に入れた小皿を懐に抱え、急ぎ足で街道から逸れた場所を歩いていた。目的の品は手
 に入ったのだから、この街には用はない。他に手に入れる必要がある物もないのだから、マッドが
 立ち去るのは当然の事だった。
  しかし今は昼。
  マッドが黒の羽根を広げて飛翔するには、まだ時間的には早い。
  人目につかぬように夜に羽ばたきこの街にやってきたマッドは、帰る時も当然、夜に羽ばたくべ
 きだった。
  だが、今のマッドには出来る限り街から離れたいという思惑が犇めいている。
  懐の小皿。
  確かに、こんなものに金貨一枚を放り投げるのは、あまりにも高すぎる。
  しかし、マッドとその他セイレーン一同の平穏を考えれば、人間世界と滞りなく物品の遣り取り
 をするには、金貨一枚はある意味安い。だから、マッドは商人の口のする言葉など端から信用して
 いなかったが、言い値で小皿を買うつもりだった。
  そもそもどうせ、金貨など人間世界でなければ使う事もない。今使わなくてどうするのだ。
  そんな面持でいたのだが。
  まさか、あんな横槍が入るとは思わなかった。
  保安官の助手。
  なんで、あんな場所を意味もなくうろついているのか。というか、保安官の助手なら保安官の助
 手らしく仕事をするべきだ違うのか。市場をうろついて売り方に難癖つけるだけが仕事だと言うの
 なら、税金泥棒と言われても仕方がない。
  ぶつぶつと人間社会の怠慢さを呪いながら、マッドは早々に街を出るしかなかったのだ。
  保安官助手に、その姿を見られたら、一体誰の耳にどんな話が入るか分からない。
  マッドが最も恐れるのは、この街の保安官だという男に、自分が此処にいる事がばれる事だった。
  あの、マッドの尻尾に異様に執着して、おっさん。
  思い出しただけで頭痛がする男の性癖は、きっと未だに治まっていないだろう。何せ、あの男に
 そんな――尻尾に萌えるというのではなく――呪いを掛けたのは、自分だからだ。
  セイレーンの歌は、基本的には決して解けない。
  だから、セイレーンの歌に魅せられた人間は、骨抜きになってそのまま海を彷徨って死ぬしかな
 いのだ。
  だが、尻尾に萌えるおっさんは、何故か完全には骨抜きにはならず、マッドの周りをうろうろし
 ていた。とはいえ、マッドの言いなりになる事に違いはなく、その存在がセイレーンの島にとって
 厄介になると分かった時は、大人しく人間の世界に戻ったのだが。
  けれども、人間の世界に戻っても、マッドの呪いは延々と続いている。
  きっと、未だにマッドの事を想い、死ぬまでそうやって生きていくのだろう。海の藻屑となった
 人間のように。
  だが、海の藻屑になった人間とは違い、あの男にはまだ意志が残っている。
  だから、もしもマッドが傍にいると知られたなら。
  想像するだけでも鬱陶しい。
  さっさとこんな街からは、逃げ出すべきだ。そうすべきだ。
  マッドは自分に言い聞かせ、夜でもない為、すぐには飛び立てないにも拘わらず、いそいそと羽
 根を隠している洞窟に戻ってきていた。
  とにかく、すぐにでも帰れる準備をしておこう。長々とこの街にいたら、あのおっさんに捕まる
 可能性が高くなるだけだ。
  そんなわけで、マッドは羽根を隠している岩場の上を歩いている。そして、自分の黒い羽毛を隠
 している岩陰に手を入れた。
  が。
  手の中にあったのは、ざらついた砂の感触だけだった。
  ない。
  砂だけが零れている自分の掌を見つめて、マッドはただそれだけを思った。
  あまりの事に、咄嗟にそれ以上の事が考えられなかった所為でもある。だが、ゆるゆると状況を
 理解すれば、それが如何にセイレーンにとってまずい事態であるのかが分かるというものだ。
  セイレーンの羽根には、セイレーンの魔力そのものが籠っている。それがなくなったら、セイレ
 ーンはセイレーンではなくなってしまうのだ。他の物では決して補う事は出来ないし、再び新たに
 創り上げる事は出来ない。
  呆然とするマッドは、けれども頭の中で何度も問いかける。
  なくなった?
  何故?
  波にでも攫われたか?
  いや、此処は満潮時でも波が訪れる事はない。
  では、盗まれた?
  誰に?
  人間以外に誰がいる――。
  人間が、セイレーンの羽根を奪う事は、歴史を紐解けば何度でも起こされてきた出来事だった事
 が分かる。例えマッドの黒い羽根がセイレーンの物であると分からずとも、人間とは如何なるもの
 でも拾い集めてしまう種族なのだ。
  呆然とした心が静まれば、次に膨れ上がるのは紛れもない怒りだった。静まった心は一瞬にして
 燃え上る。マッドは元々、慈悲深く落ち着いた性格ではない。火花のように爆ぜるのが、マッドの
 性根だ。
  故に、自分の羽根を勝手に盗んでいった輩を許す事は出来ない。
  恐らく、盗賊はそれほど遠くへ行ってはいないだろう。海を渡る事も出来ないはずだ――セイレ
 ーンの羽根は、所有者以外が持っていると船を沈める事さえ出来るのだ。
  何が何でも、売り捌かれたり、何処かの貴族の敷物になる前に、奪い返さねば。
  マッドがそう決意した瞬間。
  怒りに我を忘れていた所為だろうか。マッドは背後に忍び寄ってくる気配に、限界まで気づかな
 かった。
  はっとして振り返った時には全てが遅かった。
  マッドの視界は、完全に覆い隠されている。

 「ふぎゃ!」
 「マッド!」

  むさ苦しいおっさんに、抱きつかれていた。それはマッドがこの街で、最も恐れていた事だった。
 マッドに抱きついてきたおっさんに、しかしマッドは、はたと疑惑が生じた。

 「てめぇか!この俺の羽根を盗んだのは!」

    有り得る話だった。しっぽしっぽと騒ぐ男が、マッドのしっぽ目当てに羽根を奪う事は、全く以て
 有り得る話だった。
  が、目の前にいるおっさんは、その疑念を一瞬で払拭する台詞を吐いた。

 「マッド!お前、しっぽはどうした!しっぽは!」

    ああ、違うのか。
  しっぽしっぽと煩いおっさんは、どうやらマッドのしっぽ目当てに羽根を盗んだわけではないよう
 だった。
  しかし、では、誰が。
  考え込んだマッドに、おっさんはマッドの身体を離そうとはせずに、むしろぺったりとへばりつい
 てくる。非常に、うざい。いっそこのおっさんが羽根を奪ったのだと言うのなら、この場で蹴り倒し
 てやれたのに。 

 「それで、しっぽはどうした。」

  そして、しっぽしっぽと煩い。
  仕方なく、憮然としてマッドは答える。

 「……盗まれた。」
 「何?!私のしっぽを?誰にだ?」
 「分からねぇ。」

  一番疑わしかったのは目の前の男のわけだが。というか、別にこの男のしっぽではない。マッド
 のしっぽだ。
  このままだと島に戻れない、と肩を落とすマッドに、おっさんは少しばかり嬉しそうな顔を浮か
 べた――しっぽがないので、諸手を挙げて万々歳というわけではないようだが。

 「とりあえず、街に戻ろう。そうすれば、何か手がかりが得られるかもしれん。」
 「……手がかりって何だよ。大体、あんたが一体何の役に立つって言うんだ。」
 「私は保安官だ。誰かが非合法に怪しい物を手に入れたという情報はすぐにでも分かる。それに、
  ずっとこの岩場にいるわけにはいかないだろう?」

  宥めるような口調は、確かに正鵠を射ている。が、額面通り受け取る事が出来ないのは、たぶん
 しっぽの事があるからだろう。
  あと、おっさんがやたら嬉しそうなのも。
  しかし、いくらマッドが他のセイレーンよりも人間慣れしていると言っても、やはり一人で羽根
 を捜し出すのは難しい。此処は一つ、話に乗るべきだろう。

 「分かった………。」

  しぶしぶ頷いたマッドに、男は嬉しそうに笑うと、素早くマッドの米神に口付た。