今日も良く晴れている。
  保安官の助手はそう思ったが、すぐに背後から重苦しい溜め息が聞こえてきたので、晴れ渡った
 気分にはなりきれなかった。
  事の元凶である保安官は、むっつりと押し黙ったまま、木で出来た事務机の上に書類を広げて、
 難しい顔を作っている。その様子を見ると、難題な仕事を抱えているようにも見えるのだが、助手
 が知る限り、今のところ大きな問題は起こっていないはずだった。
  ちらりと入った情報では、亜人の皮を非合法に売買している売人が潜伏しているとの話だったが、
 それも順調に情報を仕入れている為、近々蹴りがつきそうだと聞いている。
  にも拘らず、保安官の表情は激しく不機嫌で、冴えない。
  地の果てまで落ち込みそうな溜め息を繰り返す保安官の様子に、口性のない連中は朴念仁が遂に
 恋に落ちたのだとか、しかし今まで朴念仁だった男にそうそう女神が微笑むわけがないだとか、好
 き勝手に言っている。
  酷い時には、助手に向かって、お前が保安官を振ったのではないのかとまで言い始める始末だっ
 た。むろん、声を大にして否定しておいたが、言った連中は卑下た笑みを浮かべていた。
  しかし、確かに彼らが保安官の態度を口々に言い合いたい気分は分からなくはない。これまで色
 恋沙汰を起こした事のない保安官が、あからさまに恋煩いに見えるような状態に陥っているのだ。
 恋煩いであるという確証はないものの――本人に聞けるはずもない――見た目がそうなのだから、
 口々に囁かれても仕方がないと思う。
  明らかに耳に入るように告げられているそれらの台詞に対して、保安官は特に何も言い返さない。
 だから一部の――正面切って喧嘩を売る事が出来ない――連中が、余計に好い気になって噂を広げ
 立てるのだ。
  だが、傍目重度の恋煩いに罹っている保安官は、恋煩い故か、それとも生来の気質の所為か、そ
 んな噂に等びくともせず、当事者でもないのにびくついている助手に向かって、火薬の補充をして
 おくようにと命じた。恋煩いに見えても仕事はきっちりこなしているのか、保管していた火薬が湿
 気ていたと呟いている。
  その合間合間に再び溜め息を吐き始めるものだから、助手はその音が聞こえないように急いで言
 われた通り火薬を補充する為に、火器を扱う店へと保安官事務所から飛び出した。




  ばたばたと助手が去っていく足音を聞きながら、流石に不自然な命令だったかな、とサンダウン
 は思った。いきなり火薬の補充なんて事を命じたら、誰だっておかしいと思うだろう。実際、火薬
 が湿気ていた部分はごく僅かで、いちいち補充する必要もないくらいなのだが。
  だが、実を言えば他人に傍にいて欲しくなかったというのが一番大きな理由だ。要するに、助手
 を何処かにやってしまいたかったのだ。
  他人の眼など気にしない性分ではあるが、今はとにかく誰の話も聞いていたくない。いや、誰の
 声も聞こえない。
  セイレーンの島から街に戻って、既に数週間経っているが、まるで元に戻らないのだ。サンダウ
 ンの中身が。
  島に行く前まではすっぽりと正確に納まっていたサンダウンの中身は、島に行ってからというも
 の、ずっと掻き乱されている。
  それでも、セイレーンの傍にいた時は、拡販も緩やかだったのだ。セイレーンがちょこまかと動
 き回る様を見て、それだけで満足だった。
  だが、セイレーンがいないこの町では、サンダウンを宥めるものは何処にもいない。
  女達の甘ったるい言葉も、娼婦達の鼻腔を擽る香水も、助手からの賛美も、正直なところ何の意
 味もなさない。辛うじて、サンダウンが此処にこうしている事で、セイレーンの命を守る事が出来
 ているのだという事実だけが、サンダウンを慰めている。それも、完全にサンダウンを治める事は
 出来ないのだけれども。
  今頃、どうしているのだろうか。薔薇の蕾を静かになぞって、その横で香ばしい紅茶でも入れて
 いるのだろうか。それともクローバーを編み込んで、柔らかい敷物でも作っているのだろうか。
  伝承で聞くセイレーンとは、全く異なる生活をしている彼は、ただ唯一、美しいところだけはセ
 イレーンと同じだった。
  無理やり連れて帰る事が出来たなら。
  そう思って、首を振る。
  そんな事、サンダウンに出来るはずがない。黒いセイレーンが首を横に振っただけで、サンダウ
 ンはそれ以上の事は出来ないだろう。
  結局、サンダウンはあの姿を思い描く以外の選択肢はなく、これからもそうやって生きてくしか
 ないのだ。もしも何処かで保安官として不要だと判断され、存在を構われなくなったら、もう一度
 逢いに行く事も出来るかもしれないが。
  そんな夢を見ながら、サンダウンは机の上に広げたままの書類に目を落とした。

  
  
  
    「これが欲しい。」

  人々が雑然とする喧噪の中、恐ろしいほど良く通る声が響いた。その瞬間、程度の差こそあれど
 も、皆がそちらを振り返った。
  視線を一気に引きつけたにも拘わらず、それをした本人は全く気にする素振りを見せなかった。
 まるで貴族然とした冷静さで、好奇の眼を無視して、店の主人に四枚一組の小皿を突き出している。
  目の前に小皿を突き出された店の主人も、一瞬動きを止めて目を丸くしている。 
  それもそのはず、小皿を突き出している男は、身形こそ華美ではないものの、その容姿は端麗で、
 貴族がお忍びでこんな露店にやって来たのではないかと勘違いするほどの、端正な仕草をしていた。 
  そう思ったのは、火薬を買いに来た助手だけではなかったようだ。
  小皿を突き出された店主も、男が貴族か何かだと思ったらしい。目を丸くしたのは僅かな時間。
 すぐににやけた笑みを浮かべて、おもねるような媚びるような声を上げた。

 「これはこれはお眼が高い。この小皿は実はさる貴族の持ち物でしてね。いや簡単に言ってしまえ
  ばその貴族の家に代々伝わるもんでして……。」

  手揉みしながら、値段を吊り上げようと、恐らく大した価値もない皿にさっき作り出したばかり
 の嘘を乗せようとしている。
  その様子に助手が顔を顰め、咎めようと口を開いた時、

 「んな事はどうでも良いんだ。売る気があるのか、ないのか。はっきりしやがれ。」

  恐ろしいほど端正な声音で、同時に酷く乱暴な口調で、店主の口上を叩き切った。

 「俺が欲しいのは小皿であって、貴族の家系だとか伝統だとかじゃねぇ。そういうのは別の人間に
  してやるんだな。」
 
     傲慢で、命令する事に慣れた口調に、店主は眼を白黒させている。
  それでも小金を稼ぎたいという商売根性は折れなかったのか、何とか食い下がろうと口を開いて
 いる。そこへ、ようやく保安官助手は口を開く事が出来た。

 「そういう不当な売りつけは、許されていないぞ!」

  手に大量の火薬を持っていた為、人ごみを潜り抜けるのに時間がかかったが、それでも店主が自
 分の顔を見て顔を強張らせた。しかし、その顔もすぐに諂うようなものに変わったが。

 「これはこれは、保安官の助手殿じゃあありませんか。いやいやアタシは、助手殿に何か言われる
  ような商売はしてませんよ。」

     しらばっくれる店主に、更に食いつこうとしたが、それよりも早く客である男の方が酷く不愉快
 そうな表情を浮かべた。短い黒髪を揺らして、少し唇を尖らせると――そうすると端正な顔が子供
 っぽくなった――面倒臭そうに金貨を一枚、店主に向けて放り投げると、小皿を持ってさっさと立
 ち去ってしまう。
  その仕草に、今度こそその場にいた全員が呆気にとられた。  
  行動が唐突過ぎる所為もあったし、助手がやってきて不快にした所為もあったが、それ以上にた
 かだか小皿に平然と金貨一枚を放り投げた所為だった。その行動はあまりにも一般人の行動からは
 かけ離れており、それ故に咄嗟に皆が、やはりあれは貴族だと思わずにはいられなかった。
  そんな気前の良い客には自分も、と追い縋ろうとする店主が何人もいたが、結局誰も追いつけな
 かった。
  そして、自分の登場に明らかに不愉快な表情をされた保安官の助手は、その場に立ち尽くすしか
 なかった。

 
  
  
     助手が、なにやら奇妙な顔をして帰ってきた。 
  正直どうでも良いが、更にどうでも良い火薬補充なんて仕事を押し付けてしまったので、一応、
 上司として聞いてみる。

 「……何かあったか。」 
 「いえ……変な争いに巻き込まれまして。」
 「……争い?」

  物騒な言葉に怪訝な表情をすると、助手は慌てたように顔の前で手を振った。

 「争いと言っても、そんな大層なものじゃないんです。いえ、争いにもなってなかったっていうか。
  貴族っぽい人が商人に相場よりも高い値段で物を売りつけられそうになってただけで。」
 「……それで、口を挟んだのか。」
 「ええと……そうなんですけど、ただ口を挟んだら、その貴族っぽい人が嫌そうな顔をして金貨一
  枚投げて、さっさと行っちゃって。」
 「……保安官に関わりたくない理由でもあったと?」
 「でも、買ってたのはただの小皿だし。それにいちいち遣り取りするのが面倒だから、お金だけ
  払って蹴りをつけたかっただけかも。たぶん、相手があの人じゃなかったら、あの時の商人の
  売り方なんて誰も気にしないです……。」

  押し売りなんて日常茶飯事だし、と肩を落として呟くと、助手はのろのろと買ってきた火薬を保
 管庫に置きに行く。そうしながら、助手はまだ話し続けている。

 「でもそのお客さん、本当に人目を惹いたんですよ。っていうか、声だけで人が振り返りましたも
  ん。で、実際見てみたら、やっぱり綺麗な人で。」

  そんな事言われても、サンダウンにはどうでも良い。サンダウンにとって、一番綺麗なものは、
 あの遠い沖合にある島にある。
  黒い羽毛に包まれて。

 「黒い髪と眼をして、黒いコートを着てたんですけど。喋り方は乱暴だったんですけど、声は綺麗
  だったなあ。って言っても、男の人なんですけどね。でも、見た目麗しいっていうのは、あの人
  みたいな事を言うんじゃないですかね。」

  自分の中に思い描いている人を、言い当てられたような気がした。