変態じみた行動をする人間のおっさんを追い出して、マッドの日常には平穏が戻ってきた。牛の
 乳搾りをする者がいなくなったのは少々痛いが、それを差し引いても尻尾を狙われないというのは
 非常にありがたい。
  何せあのおっさん、四六時中、マッドの尻尾を狙って常に背後に回ろうとしていたのだ。うざい
 事この上ない。
  そのうざさから解放されたマッドは、晴れ晴れとした気分で庭の手入れをしていた。ゆっくりと
 花開く途中の薔薇の様子を見て、シロツメクサの蕾が天を向いているのを確認し、鼻歌を歌いなが
 ら紅茶の準備を整える。
  セイレーンの作る紅茶は、薫り高く、色も上品だ。自分の作った茶葉に満足しながら、マッドは
 お茶うけをどれにしようかと戸棚を開けた。
  そして、あっと気づく。
  お茶うけに使う小皿に、小さくひびが入っているのだ。
  小皿自体はさほど高価なものでもないし、マッドも特別にお気に入りと思っているわけでもない。
 しかし、なければないで困るものだ。他の皿で代用がきくとはいえ、見栄え的に宜しくないだろう。
  うーむ、と首を捻って、マッドはどうするかと考える。
  はっきりと言っておくが、この島には植物や動物を育てる術はあっても、それ以外の物――宝石
 や鉱石から生み出されるものは、外部から持ち込むしかない。その外部から持ち込まれるものが、 
 渡り鳥の商品であり、鍋やら装飾品やらは、彼らから購入――といっても物々交換だが――するし
 かないのだ。
  だが、ここで悩むのは、渡り鳥達は既に飛び立ってしまっているという事だ。
  人間の男を追い払ったその二日後に、渡り鳥達は大量の食糧を抱え込んで、ふらふらと賑やかし
 気に飛び去ってしまった。
  マッドは、その時に小皿のひびに気づかなかった自分を罵ると同時に、どうするか悩む。
  渡り鳥が次に来るのはどれだけ早くても半年後だろう。普通は一年に一度だ。小皿一つなくても
 問題はないのだが、しかし少しばかり不自由だとも思う。半年、長くて一年、なくても良いと言っ
 てしまえばそれまでなのだが。
  それに、とマッドはぱたりと羽根を動かす。
  セイレーン達は、何処に生きていようと、植物には長けていても鉱物は不得手だ。だから、他種
 族から皿などは貰うしかない。はっきりと言ってしまうなら、人間の住む場所に行って、拾うか買
 うかするしかないのだ。渡り鳥達も、そうやって品物を集めているのだろう。
  むろん、マッドもかつてはそうやって生きてきた事もある。人間の持つ貨幣を得る為に、通りで
 リュートを爪弾きながら、一晩中歌を歌った事もある。だから、人間と交渉したり。貨幣の問題は 
 特にはしていない。 
  ただ、一番の問題は。
  マッドは、米神を押さえる。
  街には、あの男がいる。
  マッドの歌を聞いて、なのに何故か自失しないまま、未だにマッドに恋焦がれている男が。もし
 もマッドが姿を現したなら、ニンフを追いかけるパンのように、人垣を割って突進してくるに違い
 ない。
  それを考えれば、行くべきではない。
  だが、例え男がマッドの行く前に立ち塞がったとしても、マッドが本気で一言、男に命じれば、 
 男はしぶしぶながらも立ち退くであろう事も分かっていた。ちょうど、この島から立ち去って行っ
 たように。
  身の危険がない故に、マッドは男にさえ見つからなければ――見つかったとしても――大きな問
 題はないと思っている。だからこそ、小皿の小さなひびをこれほどまでに気にかけているのだ。本
 当に危険ならば、そんなものには眼を瞑る。
  マッドはひびわれた小皿を庭に持って降り、先だって渡り鳥から買い求めた、ゼラニウムの鉢植
 えの下にそれを敷いた。それから、家の中に戻り、戸棚の奥から黒い革で出来た袋を取り出す。牛
 の皮を鞣して作られたそれは、マッドが人間の中で暮らしていた頃に買った品で、ひっくり返すと
 じゃらじゃらと音を立てて、少し黒ずんだ銀貨が出てきた。これだけあれば、小皿の一つや二つく
 らい買えるだろう。
  買ったら、すぐに帰ってこよう。
  マッドは黒革の財布をコートの隠しに入れながら、改めて意思表明する。今回は小皿を買うだけ
 なのだから、そんなに時間はかからないはずだ。もちろん、気に入る小皿がすぐに見つからない可
 能性だってあるわけだが、けれども二日、三日と長く時間を費やすわけもない。
  もしも、人間の中で暮らしている時分であるならば、または人間達の道具を本気で購入するとか 
 いう目標があるのならば、生活の糧を稼ぐ為に人間達の中で働かねばならず、何日も費やすのだが、
 幸いにして昔稼いだ金が残っている以上、わざわざ小皿一枚買う為に、人間達の中で歌を歌ったり
 する必要はないのである。 
  とは言っても、散歩のように、すぐに行ってすぐに帰る事が出来るわけではない。 
  何せ、セイレーンは人間のように船を漕ぐ事はない。普通に飛んで、島から島へと渡るのだ。そ
 の姿を見られるのは、むろん好ましくない。例え人里離れた海岸線に舞い降りるのだとしても、何
 処で誰が見ているのか分からないのだ。無防備に羽根を広げるなど、出来ない。
  故に、セイレーンが自らの領域以外で空を飛ぶのは、夜だけだ。
  夜に島を飛び立ち、夜に海岸線の白い砂丘に降り立つのだ。その姿は、遥か昔は何処ででも見ら
 れたと言うけれど、その時代をマッドは知らないし、マッドも夜以外に浜辺に降り立った事はない。

  

   
     夜が来た。
  マッドは家に灯るランプの光を次々と消していき、最後に庭の薔薇が開こうとしている蕾のまま
 で眠っているのを確認してから、大きく翼を広げる。手には黒革の財布と、小さな荷物袋を持って
 いる。
  そして、軽く屈むと、そのまま大きく羽根を一度羽ばたかせた。その、一度の羽ばたきで、マッ
 ドの身体は勢いよく宙に浮き上がる。二度、三度と羽ばたく度に、マッドの身体は地面から遠ざか
 っていく。
  羽ばたきによる前進を開始すれば、すぐに眼下は海だけとなった。黒いインクを流し込んだよう
 に見える夜の海は、眼を凝らしても空と見分けがつかないほどだ。街の近くになれば、むろん、黒
 いインクに黄色や赤のインクを溶かし込んだように、街の灯を浴びているのだが。
  しかし、それがなければ全く分からぬほど、今宵は闇夜だった。
  セイレーンは別に鳥目ではない。むしろ、通常の人間よりは視力は良い方で、光源が薄くとも、
 ある程度は闇に慣れずとも物を見る事が出来る。そんなセイレーンが、夜の海を昏いと言うのだか
 ら、今夜はやはり昏いのだ。
  人間が船を出したら、迷うかもしれない。
  星一つ見えない空を背負いながら、マッドは思う。闇の中で、波に流されるだけの恐怖を、マッ
 ドは知らない。だが、人間が闇を恐れるならば闇夜での遭難は恐ろしいものであろうし、ならば恐
 れを消してただただ腑抜けにして海の藻屑とするセイレーンは、まだ優しいものだろうと思う。
  そもそも、人間の魂を手懐ける歌を歌う事は、セイレーンにとっても命がけなのだ。命がけで、
 しかし死の瞬間の恐怖を消し去ってやるなど、優しい以外のなんだと言うのだろうか。亜人の中に
 は、もっと凶悪な輩だっているだろう。
  例えばセイレーンに良く似た、しかし醜いハルピュイアイなど。人間を騙し、人間の成した財を
 全て根こそぎ奪っていくのだ。その汚名が時にセイレーンにまで及ぶのは、似た容貌の所為だろう
 が、いくらなんでもないだろう、と思う。セイレーンは、ハルピュイアイなどよりも、遥かに美し
 い。
  それに、根っからの臆病である奴らは、群れない限り夜の闇を飛ぶ事さえできないのだ。
  だから奴らは、マッドのように白い砂浜に降り立つ事もない。
  さくり、と音を立てて砂浜に降り立ったマッドは、黒い眼を瞬かせるとくるりと辺りを見回す。
 夜の、砂浜と海と空の境界線が分からぬほどに昏いそこには、人はおろか、何者の気配もない。打
 ち寄せる波の音以外に聞こえるものはない。
  だが、マッドは警戒を怠るような愚か者ではなかった。
  周囲に気を配りながら、そろそろとごつごつとした岩場へと脚を進め、小さな洞穴を見つけ出す。
 ふじつぼがびっしりと表面に付着した岩場は、しばらくの間誰かが来たという形跡はない。
  マッドはそこでもう一度辺りを見回すと、ふるりと身を震わせるや、羽根に手を伸ばすとそのま
 ま毟り取った。
  それは毟り取るというよりも、まるで羽織っているマントを脱ぎ去るような素振りだった。する
 と、なんの痛みも音も血も出さずに、するりと黒い翼はマッドの背中から離れていた。それだけで
 はなく、下半身を覆っていたはずの、ふわふわの羽毛も取り払われている。
  これだけは、人間も、その他の亜人も知らぬセイレーンの実態だ。
  セイレーンの皮膚は、二枚あるのだ。普通の人間のような肌と、鳥のような羽毛と。鳥のような
 羽毛は、セイレーン本人の手によってのみ、文字通り脱ぎ着する事が出来る。しかしだからと言っ
 て、では脱いだ羽毛は仮の姿なのかと言われれば、それは全く違う。
  セイレーンの本来の姿は、紛れもなく羽毛を身に着けている時の姿だ。羽毛を脱ぎ去ったセイレ
 ーンは、歌の良し悪しは奪われないものの、魔力は全く帯びていない。
  故に、羽毛を脱いだセイレーンは何の力も全く持たぬ、只人と同じだ。
  過去に、羽毛を奪われて死んでいったセイレーンもいると言うが。
  マッドは、自分だけはそんな眼には合わぬようにと、脱いだ羽毛を岩陰にそっと隠す。そして、
 夜が明けるのをひっそりと待った。