男を留守番にして、マッドは三人の渡り鳥に逢いに行く。
  おっさん一人を家に残していく事は、勝手にマッドの下着を漁ったりするんじゃないだろうかと
 いう意味での心配があったが、しかしおっさんも最近は落ち着いていると自分に言い聞かせ、マッ
 ドは男に留守を任せる事にした。
  そういえば食事を与えていなかったような気もするが、まあ死にはしないだろう。どうせ、勝手
 に漁って何か食べているだろう。
  生命に関する心配は特にせずに、マッドはぱたぱたと男を置き去りにして空へと舞い上がった。
 その直後、尻に何か視線を感じたような気がしたが、きっと気の所為だ。多分。
  如何わしいとしか言いようのない視線を振り切り、ひとまず空に舞い上がって、ぱったぱったと
 羽根を動かして、三人の渡り鳥の姿を捜す。
  この島は大きくはないので、少し上空に舞い上がれば、何処で誰が何をしているかは一目瞭然だ。
 首を巡らせれば、アニーがフライパンを持って何処からか入り込んできたらしい鼠を追いかけてい
 るのが見えるし、少し視線をずらせばビリーが羽ばたきの練習をしているのが見える。
  緩やかに波打つ地平線は、今日も穏やかだ。嵐はしばらく来ないだろう。そんな緩やかに渦巻く
 白波の中で、この島は小さく咲き誇っている。
  一通り視線を巡らせたマッドは、島の外れのほうで何やら賑やかしく慌ただしい空気が流れてい
 る。別に慌てる事は何もないのだろうが、相変わらずの騒々しさを伴う渡り鳥達に、マッドは静か
 に微苦笑した。
  念の為に言っておくが、『渡り鳥』とはセイレーンの一種だ。別にマッド達と何か身体的特徴が
 違っているわけではないので、一種、という言い方はおかしいか。ただ、彼らは定住するこの島の
 セイレーン達とは違い、転々とセイレーンの住む場所から場所へと移動しているのだ。
  それは、人間で言うところの旅芸人、もしくは行商人。
  渡り鳥達はまさにその両方を兼ね備えていると言っていい。旅芸人が持っているような奇妙な動
 物を引き連れる事もあるし、遠い異国の品物を持ってくる事もある。そして時にはこの世界の情勢
 も。
  人間に紛れ込む事さえある彼らは、人間の細やかな情報さえ持ってくる事がある。かくいうマッ
 ドもこの島に来るまでは『渡り鳥』めいた生き方をしていたのだが。むろん、人間に紛れ込んだ事
 もある。
  しかし、毎年この時期にやって来る渡り鳥は、そんな人間の奥深くまでは入り込まないだろう。
 そこまでの機微はないだろうし、仮に入り込めたとしても人目を引いてしまい、セイレーンとして
 の生活に支障をきたす事は間違いがないからだ。
  だが、それでも人間の動向くらいならば情報として持っているだろう。
  マッドとしてはそれくらいの軽いノリのつもりで、渡り鳥に話しかけに行ったのだが。

 「よお、久しぶりじゃねぇか。何か面白い種でも持ってきたか?」

  ばさりと羽音を立てて黒い翼を閉じ、マッドは茶色い三人のセイレーンに話しかける。それぞれ
 が楽器を背負った三人は、楽器以外にも幾つもの荷物を持っていて、それらを売って生活の足しに
 しているのだ。
  さて茶色の雁のような羽根をした彼らは、マッドの姿を見ると、騒がしかった――主に楽器の音
 が――のを止めて、マッドに向き直った。それでも、未だにマラカスっぽい音がしている事には、
 マッドは眼を瞑っておいた。
  マッドの黒い羽根を認めた渡り鳥達は、黙り込んだのは一瞬の事、再びわあわあと騒ぎ始めた。

 「大変、大変ね!」
 「のんびり、花なんか咲かしてる場合じゃないね!」
 「そうねそうね!」

  独特の喋り方をする彼らは、けたたましい、正に鳥のように、口々に言い合う。口々に言い合い
 すぎて、何を言っているのか分からない。そこに羽ばたきの音も混ざっているから、尚更だ。
  マッドは米神に手を当てて眼を閉じ、あー、と呻く。

 「分かった。大変なのは分かった。分かったから何がどう大変なんだ。取り敢えず、交代に言って
  みろ。」

  此処で適当に、言ってみろ、とだけ言ってはいけない。そんな事をしたら再び口々に言い始めて、
 また何を言っているのか分からなくなるだけだ。だから、マッドは交代に状況を説明しろと言った
 のだ。
  そう指示された渡り鳥達は、言われた通りに交代に口を開く。

    「人間達が騒いでるね!」
 「そうねそうね!」
 「なんでも保安官が町からいなくなったって!」
 「それで騒いでるね!」
 「そうねそうね!」
 「セイレーンに連れ去られたんじゃないかって騒いで!」
 「この島に攻め込もうかって話をしてるね!」
 「そうねそうね!」

  交代に話せとは言ったが、やはり煩い事に変わりはない。特にマラカス。
  いや、しかしそれ以上に。
  マッドは渡り鳥の言葉に大いに引っ掛かる――むしろ心当たりがあった。いなくなった街の保安
 官など、そうそう該当する者はいないだろう。というか、保安官がそうもちょくちょく行方知れず
 になっていたら、それこそ大問題だ。

  ―そういえばあいつ、もう二週間近くこの島にいるぞ。

  この島では牛の乳搾りを仕事としている、現在留守番中のおっさんについて、マッドは顔を顰め
 て色々と思い出した。。  
  自分は保安官なのだから、その自分に何をしたらどうなるか分かっているのか、とマッドに脅し
 めいた事を言っていたおっさんは、一週間程度ならば留守にしてもなんら問題ないと言っていた。
  しかし、男は既に一週間の期限を越えてこの島にいる。
  その結果、人間どもが大騒ぎしているのだ。
  結局のところ、大騒ぎの種となったおっさんの、あの時の脅しに屈した自分が恨めしい。どうせ
 騒ぎになるのなら、あの時無理やりにでも海の藻屑にでもしてしまえば良かった。
  ふつふつと、そんな考えと共にマッドの身体から殺気めいたものが立ち昇っていたのだろうか。
 先程から渡り鳥達が、遂にマラカスの音さえも閉ざして、ぶるぶると震えている。しかしマッドは
 渡り鳥達の様子になど気づいていない。
  見事な鴉の濡れ場色の羽根を唐突に一つ羽ばたかせると、そのまま垂直に浮かび上がった。その
 表情は唇を硬く引き結んで、酷く不愉快そうだった。そして、浮かび上がった瞬間に反転して、風
 を巻き込んで、渡り鳥達を置き去りに飛び去っていく。
  瞬間、数枚の黒い羽根が空から舞い散ったが、そんな多少の事になど、マッドは気にかけない。
  マッドは腹の底から、現在留守番をしている男に対して、言いようのない苛立ちを感じていたの
 だ。
  あのおっさんは、結局のところ、一週間しかこの島の平穏を約束しなかったのだ。
  確かに、そこに切り込まなかった自分も悪いが、脅しを手に取り、しかし結局のところその脅し
 の代償が一週間の平穏でしかないなど、やはり腹が立つ。
  なので、牛乳瓶を抱えて、マッドの帰りを待っている男に、マッドは容赦なく滑空速度のままで
 飛び蹴りを喰らわした。もちろん、男の顔に。
  おっさんの顔にくっきりと残る、爪痕。

    「なるほど、もう二週間も経っていたのか。」

  マッドの二度目の飛び蹴りを喰らう前に、何事かという問いかけをした男は、マッドの喚く声か
 ら事情を察したのか、感慨深げに頷いた。

   「お前と一緒にいると時間を忘れるな……。」
 「日にちを数えられんほど惚けたか、おっさん。」

    下手をすればこの島に人間が大挙してくるかもしれないという事態を引き起こそうとしている元
 凶は、何やら呆けた事を言っている。その顔に、もう一度飛び蹴りを喰らわしてやりたいと思うの
 は、間違っていないだろう。

 「分かってんのか!てめぇが行方不明になっている所為で、この島に人間どもが押し寄せて来るか
  もしれねぇんだぞ!そうなったら、どうなるのか分かってんのか!」
 「む……お前は誰にも渡さん。」
 「違う!ついでに言うと、俺はてめぇのもんじゃねぇ!」
 「そうだな……むしろ私がお前のものだからな……。」
 「てめぇ、本気でいっぺん海の藻屑になってこい!」

  まるきりぶれていないのだが、間違いなく現状の打破にはならぬ事ばかりほざくおっさんに、マ
 ッドは吠えた。
  非常事態なのに、非常事態に見えないこの状況が、何よりも悔しい。

    「とにかく、てめぇ、責任をとれ!」
 「勿論だ。」
 「じゃあ、さっさと出ていけ!」
 「何故だ!」
 「何故だじゃねぇ!てめぇさっき責任を取るっつったばかりだろうが!」
 「責任を取るというのは、認知とかそういう事ではないのか。」
 「何の話だ、何の!」

    何故だろうか、全く話が噛み合わない。
  下手をしたら人間どもが攻め込んできて、この島は焼打ちにあい、セイレーンは皆、見世物か奴
 隷として捕えられてしまうかもしれない状況だというのに、何故か、事態の改善が望めそうにない。
 この男一人がどうにかなれば良いだけの話なのに。
  それが、何故か同じ言語を操っているはずの男に、全く伝わらない。
  あれか、言葉が通じても意味がないというのは、こういう事か。そしてそれは、自分の術の所為
 だというのか。
  それとも、どれだけ術をかけようとも、人間は人間でしかなく、最終的には人間の我に全ては覆
 されるという事だろうか。どれだけマッドの事を想わせようとも、結局はこの男は自分の事しか考
 えていないではないか。
  人間の業と欲の深さに、マッドが喉を震わせて、二の句を告げずにいると、男は流石にマッドの
 様子を異変に思ったのかマッドの顔を覗き込んできた。

 「……マッド?」
 「人間風情が気安く名前を呼ぶんじゃねぇ……。」
 「人間であっても、私はお前の事が。」
 「うるせぇよ。」

  人間と関わったセイレーンがどうなるかも考えられないくらい、おめでたい頭をしているくせに。
 人間が此処に攻め込んで来たらどうなるか、そんな事くらい知っていたから、あんな脅しをかけて
 きたはずなのに。 
  それとも、最初からそれが目的だったとでも言うのか。男が術に罹っている事は疑いようがない。
 ならば、術に罹ればマッドの言う事には逆らえないと、それさえも分かった上で、自分以外の人間
 が攻め入ると踏んで、術に罹ったのか。術に罹っていればマッドが安心すると思って。

 「それは違う。」

  マッドの疑いを聞いた途端、はっきりと男が声を上げた。それは、疑われた事に対して悲痛を感
 じた者の声だった。

 「私は、そんな企てなど何も持っていない。何も持たずに、ただ、お前に逢いに来ただけだ。」
 「は、その癖に、てめぇが俺達の命を脅かすのか。」

    お前の所為で人間どもが、攻めてくる。
  そう言った瞬間に、男は何か硬い物でも飲み込んだかのような表情をした。マッドに伸ばそうと
 していた手も途中で止まる。
  そんな男に、マッドは更に言い募った。

 「結局てめぇは、自分が良けりゃ、俺の事なんかどうだって良いんだろうが。俺が死体になっても、
  俺を手元に置いといたら満足なんだろ。」
 「そんな事は、」

    酷く傷ついた表情で、男はそれでもマッドの言葉を掴み取って、そこに自分の言葉を重ねようと
 している。

   「だったら、出ていけよ。」
 「……そんなに、私が嫌か?」
 「嫌とか、そういう問題じゃねぇだろうが。てめぇが此処にいたら、此処にいるセイレーンはお前
  の仲間に何されるか分からねぇんだよ。」

  マッドが殺されたり、捕えられたりする事はないだろう。だが、他のセイレーンはどうなるか分
 からない。そしてその事態を招いたのは、間違いなくマッドだ。それを抱えたまま飄々とするには、
 マッドはそこまで冷徹にはなりきれない。

    マッドの黒い羽根が震えるのを見て、男は何を思ったのだろうか。
  マッドに向けた手を下したり上げたりしながら、しかし遂にはだらりと垂れ下げ、途方に暮れた
 ようにマッドを見た。 
  分かっている。いっそ完全に呆けてしまっていたなら、マッドの夢だけを見て海月のように揺蕩
 いながら彷徨い続けられただろう。だが、この目の前の男には、何故か奇妙に意志が残ってしまっ
 た。だから、決して覚める事がない恋に焦がれている相手と引き離されてしまう事は、苦痛以外の
 何物でもないだろう。
  だが、マッドはそれに同情する事は出来ない。マッドはセイレーンであり、人間に心を傾ける存
 在ではないのだ。
  そして、そんなマッドに不毛な想いをこの先抱かねばならない男は、苦痛を帯びながらも、マッ
 ドの言うとおりに動くだろう。   果たして、男は苦渋に満ちた目でマッドを見ていたが、やがてこっくりと頷いた。

 「……分かった。私は、此処を出ていく。」
 「言っとくが、俺は一緒に行かねぇからな。」
 「……分かってる。」

    ただ、と小さく呟いた。
  そして次の瞬間、男の両手がマッドに伸び、頬をかさついた手で挟み込んできた。そして、その
 まま顔が近づいてくる。
  逃げる暇もなかった。
  唇の端に、掠めるように口付けられて、マッドは思わず眼を瞬いた。
  だが、それを突き飛ばすよりも早く、男はマッドから離れてしまう。それっきり、男は口を噤ん
 だ。


 

    その日の夕刻、橙に染まった海の上に、小さな船が浮かび上がった。