セイレーン。
  
  背中に鳥に似た羽根を持ち、上半身は人間、下半身は鳥の羽毛に覆われた魔物。
  
  元は女神に使えるニンフとも、或いは死と歌を司る神とも言われる。
  
  その声には魔力が宿っており、その歌は聞く者を惑わせる。
  
  セイレーンの美醜は歌の上手さで決まり、惑わそうとした人間が歌に魅了されなかった場合、石
  
 となってしまう。
 
  花の咲き乱れる島に住んでおり、彼らが暮らす島のある海域は、魔の海域と言われている。
  
  近年、様々な魔物が見世物として捕えられる中、最も捕えるのが困難な魔物と言われている。
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  前奏曲
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  港町には数多くの輸入品・輸出品が集まる。珍しい石や酒、遠い地方の物語を纏めた本などが、
  
 積荷としてあちこちに並べられ、それに買値をつける商人や貴族でごった返す。また、珍しい物を
 
 一目見ようと、一般市民や子供達が訪れる事も少なくない。
 
  だが、輸入・輸出が盛んという事は、同時に犯罪も入ってきやすいと言う事だ。非合法の薬物や、
  
 武器、不法入国者が、積荷に紛れて目的地に向かおうとする事は、珍しい話ではない。
 
  そして、それらを取り締まるのも、町の治安を一手に引き受けている保安官の仕事である。積荷
  
 に紛れた武器や薬物を応酬し、取引を使用としていた商人を逮捕する。不法入国者も同様だ。これ
 
 らは見逃せば、新しい犯罪の芽となる。それ故に水際でこれらを食い止めるのは、非常に重要な事
 
 だった。
 
 
 
  しかし、今、保安官達はある問題に頭を悩ませていた。
  
  それは、この港町の治安を任されたサンダウン・キッドも例外ではない。
  
  彼は、青い瞳に杞憂の色を浮かべて、非合法な取引をしようとしていた商人の倉庫の片隅に置か
  
 れた檻を見つめる。薄汚れた檻の中には、三つほどの小さな塊が、身を寄せ合うようにして蹲って
 
 いた。手足から人とは異なる体毛が覗いている事と、人には有り得ない器官が付いている事から、
 
 それらが人間とは異なる種族である事が分かる。
 
  亜人、もしくは獣人、もっと悪い言い方をすれば魔物と呼ばれる彼らは、かつては畏怖の対象で
  
 あり、時には対峙するべき存在として脅かされる事もあった。しかし、少しずつ自然に対する畏敬
 
 が失われつつある今では、彼らは珍しい動物として捕えられ、見世物にされるのだ。
 
  最近ではそうした取引を取り締まる動きも見せているが、しかしこういった取引には、裏で貴族
  
 や成金などの権力者が手を引いている事が多い。珍しい物を手に入れる事で、自分の権力を誇示し
 
 ようとする者は、何時の時代何処にでもいるものだ。そのため、どれだけ取り締まっても、不法な
 
 取引をする輩が、後から後から湧いてくるのが現状だ。
 
  仮に、こうして売り飛ばされる前に救いだせたとしても、その後は保護施設に連れていくしかな
  
 い。保護施設に入れられた後、彼らがもといた場所に戻る事が出来るのか、それはサンダウンには
 
 分からないし、そこまで責任も権限も及ばない。
 
  小耳に挟んだところによると、子供のうちに連れて来られた場合は親を殺されている可能性が非
  
 常に高く、結局施設で一生を過ごす事が多いのだという。
 
  そして、今、サンダウンの眼の前にある檻の中で蹲る亜人は、どう考えても子供だ。サンダウン
  
 は暗澹たる気分になりながら、保護施設の職員を呼んで、亜人を受け渡す手配を整える。職員達は
 
 彼らを引き取るのを渋りつつ――最近この手の摘発が多く、施設も満杯だと言う――しかしそれで
 
 も彼らに行くところがないのだという事を理解しているのか、獣のような子供達を馬車に乗せて連
 
 れて帰った。
 
 
 
  馬車の音を見送った後、その後にもまだ気分の乗らない仕事が待っている事を思い出し、サンダ
  
 ウンは溜め息を吐く。
 
  保安官というのは確かに余り喜ばしい仕事は多くないが、しかし貴族共が絡むとどうしてもその
  
 割合が高くなる。
 
  のろのろとボートの準備をしながら、でっぷりと太った貴族が言い放った、どう考えても裏にあ
  
 るのは趣味の悪い虚栄を満たす為の、治安を名目にした見回りの内容を思い出す。
 
  ごてごてと指に幾つもの宝石をつけたその貴族は、まことしやかに、この港の近くにある魔の海
  
 域について口にしたのだ。
 
  港から漕ぎだして一時間ほど進んだ先に、一年中花が咲き乱れる島がある。そんな世にも珍しい
  
 場所は、本当ならば貴族達の餌食になっていそうなものなのだが、しかし魔の海域と呼ばれる海に
 
 周囲を囲まれ、手つかずのまま残っているのだ。
 
  そして魔の海域が、魔の海域と呼ばれる由縁。それは、そこに差しかかった船は難破するか遭難
  
 するか、はたまた乗組員全員が骨抜きにあったように記憶を錯乱して戻ってくるからだ。彼らの曖
 
 昧な記憶から、辛うじて聞き出せたのは、えも言われぬ歌声を聞いたという事だけ。
 
  しかし、それだけで十分だった。船乗り達を狂わせる歌など、一つしかない。花咲き乱れるあの
  
 島には、セイレーンが住んでいるのだ。
 
  だが、それがどうした、とサンダウンは思う。
  
  サンダウンが知る限り、セイレーンから人間に危害を加えたと言う話は聞かない。聞くのは、魔
  
 の海域、つまりセイレーンの縄張りを荒らした船が遭難したという話である。つまり、魔の海域に
 
 さえ近付かなければ、問題ないのだ。大体あの辺りは、別に特に魚が捕れるわけでもない。だから、
 
 行かなかったとしても漁業に影響はないはずだ。
 
  にも拘らず、サンダウンにあの海域周辺を見回ってこいと命令が来たのは、あの太った貴族の我
  
 儘を言った所為だろう。まことしやかに魔の海域を放置しておくなど危険ではないかと言った貴族
 
 は、もしもサンダウンが無事だったなら、魔の海域に攻め込んで、あわよくばセイレーンを生け捕
 
 りにするつもりに違いないのだ。
 
  ふざけている、と思う。
  
  しかし、町の有力者達もそれに追従するものだから、仕方なくサンダウンは、形だけでも見回り
  
 をする事になったのだ。
 
  帰ってきたら、適当な事を言って誰も近付かないようにしよう、と思いながら、サンダウンはき
  
 こきことボートを漕いで、海原に出ていった。
  
  
 
  
 
  
 
  
  
  シロツメクサとクローバーが絨毯のように生い茂り、並木である桜は既に満開。桜の両脇に植わ
  
 っている花海棠と花梨もピンクの花を広げている。並木の間には道のように山吹が連なっており、
 
 花の道は枝分かれするたびに、別の花へと移り変わる。
 
  山吹の黄色から、色とりどりのチューリップへと変化した道を辿れば、そこには一件の小屋が建
  
 っていた。木造の小屋は、その周辺をライラックで囲い、小屋を覆うように藤棚が枝を伸ばしてい
 
 る。藤棚の下には、季節問わず様々な種類の花が咲き誇る庭があり、その中でも緑色の苔が敷き詰
 
 められてある一画で、一人のセイレーンが寝転がっていた。
 
  藤の花弁に埋もれながら、彼はシャツの第一ボタンを外して、寛いだ様子で側に置いたティーカ
  
 ップを引き寄せると、上品な色した赤い紅茶を傾ける。
 
  先程、薔薇の剪定をし終えた彼は、非常に上機嫌で、仕事の後の一時の休息に安らいでいた。時
  
 折鼻歌を歌えば、その甘い音程に呼応するかのように、周囲の植物は再び蕾をつけて花を開かせる。
 
 花盛りの島が、季節を問わず花が咲き誇っているのは、こうしてセイレーン達が歌を歌っているか
 
 らだという事を、人間達は知らないだろう。
 
  歌を歌い、花を咲かせ、その花から蜜を絞り、その蜜を食べる。これがセイレーン達の基本的な
  
 生活だった。
 
  
  
  少し冷えてきた、と彼は苔の上で身を起こす。その拍子に、黒い髪から藤の花弁が何枚も舞い落
  
 ちた。下半身は、まだ花弁の中に埋もれており、藤がどれだけ彼の為に花弁を舞い落したのかが分
 
 かる。
 
  そんな、藤の主人であるセイレーンに遠慮するかのように、何匹かの熊蜂が藤の蜜を吸い取って
  
 いた。それを鷹揚に眺めながら、彼は髪の色と同じ黒い羽根をそっと動かす。すると、一際大きく
 
 藤の花が舞い散った。ティーカップの中にも、花弁が積もる。
 
  そろそろ家の中に入ろうかと考えていると、ぱたぱたと軽い音が聞こえてきた。
  
  
  
 「兄ちゃん!」
 
 
 
  茶色い髪と、それと同じ茶色い羽根。そして下半身は柔らかそうな茶色の羽毛で覆われている。
  
 まるで雀のような色彩に、足の先は鉤爪とまではいかないが、鱗に覆われた鳥の脚だ。その脚が、
 
 ぱたぱたと柔らかい音を立てている。
 
  少年の声で呼ばれて、彼は黒い眼を庭の入口に向けた。そして、笑い含みの声で答えた。
  
  
 
 「……ビリー、お前、まだ飛べねぇのか。」
 
 「放っといてよ!」
 
 
 
  小さな羽根を動かさずに走ってきた少年は、未だに空に飛べない事を気にしていた。それをから
  
 かい混じりに言われて、むきになる。
 
  それを笑って軽くいなし、彼は苔の上に立ち上がった。途端に、黒い羽毛で覆われた下半身から
  
 花弁が舞い落ち、正しく鉤爪が露わになる。
 
 
 
 「で、俺に何か用があったんじゃねぇのか?」
 
 「あ、そうだ。」
 
 
 
  思い出したように、少年は慌てて口を開く。
  
  
  
 「あのね、船が近付いているみたいなんだ!また、人間が来たんじゃないのかな?」
 
 「またかよ。」
 
 
 
  軽い舌打ちをして、彼は苔に脚を埋める。
  
  最近、島の周りに船が近づく事が多い。噂では人間の間で亜人を売り買いしているとも事だが、
  
 それをまさか自分達にも当て嵌めようとしているのだろうか。
 
  だとしたら、そろそろ本気で手立てを考えなくてはならない。
  
  
  
 「いっそ、町ごと沈めてやろうか。」
 
 
 
  そう呟いて、大きく翼を広げて天高く舞い上がった。