顔が痛い。
  サンダウンは鉤爪の痕が残る額を撫でながら、傷がそう深くない事を確かめる。鋭い蹴りの割に
 は出血は大したものではなかった。きっと治ってしまえば痕さえ残らないだろう。
  そう思い、ふぅ、と溜め息を吐く。
  痕が残らないなんて寂しい。
  人間に害を与えるのではないかと疑われ――ついでに好事家達にとってはコレクションに加えた
 いと思われている――セイレーンに、ものの見事に蹴りを加えられて、明らかに害を成された男は、
 蹴られた額を一撫ですると、もう一度溜め息を吐いた。
  せっかく会えたのに、これで終わりだなんて。
  蹴りを入れられた後、昏倒して気が付いたら船ごと浜辺に打ち上げられていた。もちろん、蹴り
 を入れたセイレーンは何処にもいない。サンダウンに残されたものと言えば、額の爪痕くらいなも
 のである。
  羽根の一枚も残っていなかった。
  そういえば黒い羽根だったな、とサンダウンは思い出す。縦縞のシャツを纏った背中から、黒い
 巨大な羽が広がっていた。そして下半身は鳥の羽毛に覆われていた。その羽毛もやはり黒で。そし
 て尻尾は短かった。アヒルやペンギンのように。触るとひくひく動いた。
  可愛かったな、と思って、捕まえれば良かった、せめて羽根の一枚でも毟れば良かった、残り香
 が爪痕だけなんて悲しすぎる、とか色々と腹の中で考えている髭面のおっさんは、完全にセイレー
 ンの歌声にやられてしまっていた。
  はっきり言っておくが、サンダウンは色事に疎い。というか、そこまでがっついたりしない。
  むろん年齢が年齢なだけに、女を抱いた事くらいはあるし、家庭的なものを持つ一歩手前まで行
 った事はある。
  しかし、性格的なものが大いに災いしているのかどうなのかは知らないが、サンダウンは現段階
 で独り身である。それほどまでに女を物色したり、惚れっぽかったりするわけではないが、しかし
 一人の女を愛し続けるだとか大切にするだとか、そういうわけでもない。
  とにかく淡泊なのだ。
  なので、もちろん、一目惚れなんて事も今までした事がない。
  にも拘らず、一人の黒いセイレーンに、今現在絶賛一目惚れ中である。普段のサンダウンからは
 想像もできない言葉が、ぽんぽんと頭の中から湧き上がっては腹の中に降り積もっていく。伝える
 べき相手がいないので、それは溜まっていく一方だ。
  せめてもう一目。
  そんな事を思うなど、この男の人生では一度もなかった事である。今までいた数人の恋人と呼ば
 れる女達の中には、心根の優しい者もいれば見た目麗しい者もいたが、もう一度会いたいと思える
 ほどの存在はいなかった。別れる時もそうなるべくして別れたのだろうと思っていたし、わざわざ
 別れたくないと足掻くのも面倒だった。
  なのに、今、一人のセイレーンにはどうにかして、もう一度会いたいと思っている。
  逢ったばかりだ。
  しかも、顔に蹴りを入れられた。
  なのに逢いたい。
  サンダウンという淡泊を地で行く男に此処まで思わせるとは、恐るべし、セイレーン。
  サンダウンも冷静に考えれば、自分がこんな思考回路に陥っているというのは、セイレーンの歌
 声の所為であると分かるはずなのだが、恋は盲目とは良く言ったものである。残念ながら、サンダ
 ウンはセイレーンの歌声に関しては、心とろかすような歌声だったもう一度聞きたい、としか思っ
 ていない。
  心とろかすというの確かには当たってはいるのだが。
  しかし、完全に蕩けきっている男は、自分がセイレーンの術中に嵌っているとは全く思っていな
 いのである。
  しかも、一番の問題は、セイレーンに惑わされているサンダウンが、そのまま野放しになってい
 るという事実であろう。
  セイレーンの歌声の虜になった人間は、そのまま惑い狂い、セイレーンに何もかもを捧げて海の
 藻屑となるのが末路である。もしもセイレーンに気に入られたのなら、死ぬまでその身体をセイレ
 ーンに捧げて、何をされても快感しか感じないままに死んでいくだろう。
  が、サンダウンにはそれらの末路は容易されていなかった。サンダウンに用意されていたのは、
 飛び蹴りと放置プレイだけだった。
  それは、術にかかったサンダウンが、普通の人間のように身を捧げたり腑抜けになったりするの
 ではなく、セイレーンに抱きつくという――ある意味身体を捧げているような気もするが――暴挙
 に及んだ所為である。
  その所為で、人間に抱きつかれた事など、まして自分の術にかかっている人間に抱きつかれる事
 などないセイレーンは、サンダウンを変態認定して飛び去ってしまったのだ。
  が、サンダウンには何故そうなったのかが分からない。サンダウンは至って真面目に――非常に
 真面目に、セイレーンの術に罹ったのである。本人には術に罹っているという自覚はないのであれ
 だが。
  しかし、術に罹っている自覚がないという事を抜きにして、普通に考えれば、セイレーンであろ
 うが人間であろうが、初対面の人物に抱きつくというのは、やはり非常に常軌を逸している行動で
 ある。
  が、セイレーンの術というのは、そういった常識さえも吹き飛ばすものであるらしく、恋に堕ち
 たサンダウンの頭からはすっぽりとそうした事は抜け落ちている。もしくは、普段真面目な人間が
 羽目を外すと簡単には元には戻らないという事か。
  いずれにせよ、サンダウンからは常識というものは消え失せている。今、サンダウンの頭の中に
 あるのは、如何にしてもう一度あのセイレーンに逢う事が出来るか、である。
  できればその後のあれやこれやも妄想したいが、今はとにかくもう一度出会う事が先決であった。
 それにサンダウンは、自分が妄想で満足できないくらい恋焦がれているという自覚があった。術に
 罹っているという自覚はないくせに。
  あの黒い羽根をもふもふするのは出会った後ですべき事だ。
  逸る心を押さえつけて、サンダウンはもう一度セイレーンに逢いに行く算段を練り始める。
  あの、花咲き乱れる島は、船で近づけても周りを切り立った崖に囲まれて上陸する事は出来ない
 だろう。だからこそこれまで人間を近寄らせず、ありのままを保っていたのだろうが。つまり、セ
 イレーンに今すぐに近づく不届き者は、すぐにはいないという事だ。
  その事実に、今からセイレーンに近づこうとしている不届き者であるサンダウンは安堵する。
  だが、もちろん油断は出来ない。いつ何時、あのセイレーンを手にしようという輩がいるとも分
 からないのだ。あの黒いセイレーンは美人だった。誰に奪われてもおかしくない。
  あれは自分のものだ。
  サンダウンは、既にセイレーンに誘惑されているという事実を凌駕している事態に陥っている。
 だが、これを止めるものは誰もいない。
  何一つとして邪魔する者がいない中、サンダウンはいそいそとセイレーンの住まう花咲く島へ上
 陸する方法を練り始めた。