ひくひくと蠢く喉を抱えて、これ以上此処にはいられないと、マッドはぼやけた視界の中、どう
 にかして出口を探す。この部屋を出て、それからはサンダウンが望むとおり何処か遠い場所に行こ
 う。海の眩しいカリフォルニアか、それとも森の深いウェストヴァージニアか。とにかく、この
 身がサンダウンの眼に付かない場所なら、何処でも良い。
  長年追い続けた賞金首をこんな形で諦める事になるなんて、と思わないわけではなかったけれど、
 それらは全てマッドの咎であり、マッドの責任である以上マッドがそれを刈り取らねばならない。
  幸いにして、部屋の中はちらかっておらず、マッドは部屋を訪れた時のままの状態で放り出され
 ている自分の荷物袋を抱き締めて、滲む景色の中で見つけた扉に手を伸ばす事ができた。
  しかし、マッドの細い指が扉に掛かる事は、遂になかった。

 「ひっ………!」

  扉に向けて伸ばした手に、大きくかさついた鎖が絡みついた。五本の武骨な指を持ったそれは、
 マッドの手首を軋みそうなくらいの力で鷲掴みにする。その様子に――そしてその指の持ち主が誰
 なのかという事実に――マッドは喉の奥から引き攣ったような声を上げた。
  か細く高いその音に、しかし背後から伸びてきた鎖が緩む事はない。それどころか、更にもう一
 本が伸びてきて、マッドの腰に巻き付く。

 「放せっ……!」

  背後からサンダウンに抱え込まれている状態である事に気付いたマッドは、何故こんな事態にな
 っているのか理解できずに、闇雲に身を捩った。
  サンダウンは自分を想うマッドを薄気味悪く思っているはずだ。それなのに、こうして、まるで
 引き止めるかのように触れてくるその意図が分からない。ともすれば期待してしまいそうな行為に、
 マッドはそんな淡い期待を打ち払うべく暴れる。
  だが、マッドが暴れれば暴れるほど、サンダウンの拘束は強固になっていく。そしてサンダウン
 がマッドを強く抱き締めれば抱き締めるほど、マッドは恐慌状態に陥っていく。
  頑ななサンダウンの腕に、いっそ恐怖さえ覚える。もしかしたら、マッドを薄気味悪く思うどこ
 ろか、目障りで唾棄すべき存在だと思い、何らかの形で処刑しようと思っているんじゃないだろう
 か。その場合、間違いなく銃殺なんて方法は取ってくれない。こういったマイノリティは、リンチ
 されるのが普通だ。フォビアの中に放り出されてもおかしくない。
  けれど、それがサンダウンの望みだというのなら、マッドはそれに従うしかない。それに、もし
 かしたら、そこまで酷く扱われたなら、死の間際にはこの想いは冷めるかもしれない。
  そう思って、マッドは暴れていた手脚を止め、自分の喉元をサンダウンに曝す。そもそも、サン
 ダウンにマッドが叶うはずがないのだから、マッドがその身を委ねてしまえば後はサンダウンの思
 うがままだ。
  固く眼を閉じて、サンダウンから齎されるであろう苦痛を待っていると、サンダウンの手は澱み
 なく動いて、サンダウンに背を向けていたマッドをくるりと反転させて向い合せになるようにする。
 そして、肩を抱いて胸元にマッドを引き寄せると、まるで仔馬を宥めるかのように、ぽんぽんと軽
 く頭を叩いた。

 「………落ち着いたか?」

  耳元で聞こえた低い声は、硬さを伴っておらず、マッドは不思議に思う。いや、それよりも、ど
 うしてこんなふうに強く抱き締めるのか。
  けれども顔を上げる勇気はなく、マッドはサンダウンの腕の中で身を強張らせる。
  縮こまった様子のマッドに、サンダウンは溜め息を吐く。そこに硬さはないけれど、しかし呆れ
 を多分に含んだ音に、マッドはますます萎縮する。

 「マッド。」

  萎縮したマッドの背を優しく撫でながら、サンダウンはけれど有無を言わせぬ口調で問うた。

 「先程の言葉は、本当か?本気で、私を………?」
 「……………うるせぇ。」

  マッドにとっては拷問に等しい言葉を、サンダウンは確証を得る為に執拗に聞いてくる。マッド
 としては、一度吐き捨てただけでも十分に罪深い言葉を、サンダウンは更にマッドを貶めようとし
 てか、何度も聞いてくる。

 「マッド。もう一度、言ってくれ。」
 「別に、どうだって良いだろ。もう、あんたの前には現れねぇから。それでも駄目だって言うんな
  ら、あんたの気が済むまで何をしたって良いから。」

  殴られても、足蹴にされても、その末に殺されても仕方がない。それまマッドの咎で、それを償
 う為なら何だってしよう。
  その台詞に、サンダウンの纏う空気が微かに変わった。何かを決めたような、そんな気配の漂う
 空気に、マッドは断罪の方法が決まったのだと観念する。強く強く眼を閉じて、断頭台が落ちかか
 るその時を待つ。

  そんなマッドの様子を見たサンダウンが、微かに笑ったような気配がした。
  それが、嘲笑だったのか、苦笑だったのか、失笑だったのか、マッドには分からない。しかし、
 それを見定める前にサンダウンの手が頬に触れた。
  そして、

 「そんなに怯えるな……。」

  顔のすぐ傍に、葉巻の匂いのする呼気がかかった。そして、眦に、柔らかな感触が。マッドの睫
 毛に積もっている涙を啄ばんで、そのまま涙の後を追うように、その感触は頬へと滑っていく。

 「マッド………。」

  声がするたびに、顔に吐息がかかる。そしてそれに合わせて柔らかな感触も蠢く。それは徐々に
 下がっていき、そしてマッドの頤を撫で上げる。

 「んっ………!」

  くすぐったいような感触に、マッドが身を竦ませて恐る恐る眼を見開くと、同時にそれは唇へと
 降り注いだ。開いた眼の真正面では、ラピスラズリよりも深く強い青がマッドを見下ろしている。
  しかしそれにマッドが眼を奪われるよりも先に、呼吸を吸い尽くされて奪われる。

 「んっ、んんっ………!」

  何もかもを奪い尽くすような口付けに――そう、これは口付けだ――マッドは身を捩り、しかし、
 すぐさま引き寄せられる。息苦しいその行為に、マッドは身を震わせてサンダウンのシャツに縋り
 ついた。
  戦慄くマッドに気が付いたサンダウンは、すぐに口付けを解き、忙しなく動くマッドの肩を優し
 く抱きとめる。

 「………大丈夫か?」
 「っ……なんで……っ!」
 「何をしても良いと言ったのはお前だろう?」
 「そうじゃねぇよ……!」

  サンダウンの行動に、打ち消したはずの淡い期待が擡げるよりも先に、激しい混乱が噴き上げる。
 混乱するに任せて、真っ赤になって怒鳴ると、今度は触れ合うだけの口付けを落とされた。それに
 かっとなるよりも先に、サンダウンの腕がマッドの身体を包み込む。

 「…………マッド、私も、お前が欲しい。」

  そして、耳元で囁かれた。
  ぎょっとしてサンダウンを見上げれば、そこにあったのは穏やかに凪いだ青い眼で、そしてもう
 一度、口付けられる。それを振り解くと、サンダウンはあからさまに顔を顰めた。その顔に、マッ
 ドは声を荒げて叩きつける。

 「っ……下手な嘘ついてんじゃねぇよ!」
 「嘘じゃない………。」
 「嘘に決まってんだろうが!あんたが俺の事を嫌ってる事は知ってんだ!」

  そう怒鳴れば、サンダウンはますます眉間に皺を寄せる。

 「誰だ……そんな事をお前に言ったのは………。」
 「誰って……そんなの、みんなそう言ってんだよ!」
 「だから、その、みんなと言うのは、誰だ。」

  今にも人類皆殺しに出来そうな気配を湛えた男に、マッドは更に混乱が深まる。まるで、マッド
 がサンダウンに嫌われていると思っている事を、嫌がっているようだ。

 「な、なんだよ。あんたが俺を好きだと思わせて、それでからかおうったってそうはいかねぇぞ!」
 「何故、私がお前をからかう必要がある。」
 「それは………!」

  マッドをからかっても、サンダウンには何の旨みもない。というか、サンダウンにそんな嗜好が
 あるとは考えにくい。
  ぱくぱくと口を開閉させて黙りこんだマッドを見て、サンダウンは深く溜め息を吐く。その溜め
 息にマッドは再び身を縮める。

 「………マッド。」

  怯えるな。
  そう囁いて、サンダウンはマッドの頬を手で包み込むと、親指で撫でる。

 「……私を好きだと言った癖に、そういう反応をしているお前こそ、嘘を吐いているんじゃないの
  か?」
 「なっ……!俺は嘘なんか……!」
 「私も嘘は吐いていない。」

  そして、再び口付けられる。

 「……お前が誰かを想って、ジャケットやら宝石やらを買っているのを見て、腹が立った。」
 「べ、別にあんたに迷惑はかけてねぇだろ!別にジャケットは渡すつもりはなかったし、宝石はあ
  あ言ったけど自分の為に買ったんだし……!」
 「……分からないのか?」

  支離滅裂な事を言っている事に気付かないマッドに、サンダウンはやれやれと首を竦め、もう一
 度口付けてから、

 「お前に想われて、物を与えて貰う事が出来る人間に、嫉妬したと言っている。」

  その台詞に、マッドはぽかんとする。

 「し、嫉妬って、あれはあんたに渡そうと思って……。」
 「ああ、全く、道化も良いところだ。お前が想いを告げる時間を引き延ばそうと、ジャケットを奪
  ったり、宝石を隠したり、茶番以外の何物でもない。」
 「でも、でも、あんたは俺がやったジャケットを結局着なかったじゃねぇか。」
 「当たり前だ。他人の為に買ったと思っている物を、着れると思うのか。」

  尤も私の為に買ったというのなら話は別だが、と呟いて、サンダウンは腕の中にいるマッドを見
 下ろす。

 「それに、宝石もどうして自分で身につける為に買ったと言わなかった?誰かの為に買ったなど、
  腹が立つ嘘を、何故吐いた?」

  おかげでお前からの告白を聞けたわけだが。
  そう言うサンダウンに、マッドは身を竦ませたまま、ふるふると震える。
  さっきからのサンダウンの台詞は、確かに『お前が欲しい』というサンダウンの言葉を肯定する
 ようなものばかりだ。けれど、それの何処かに落とし穴が潜んでいるとも限らない。繰り返される
 口付けも、何処に毒を孕んでいるのか分からない。
  ぎゅっと唇を噛み締めたマッドに、サンダウンは幾度目ともつかない溜め息を吐いた。

 「マッド、私が、信じられないか?」 

  眼を硬く閉じて頷くと、再び、溜め息。

 「……お前は、もう少し、自分に自信を持ったほうが良い。」

  お前に想いを告げられて、受け止めない人間などいないのに。
  微かに聞こえてきた声は、何か途方に暮れたようで、けれどそれが甘い罠とも限らない事を知っ
 ているマッドは眼を開かない。
  頑ななマッドに、サンダウンは閉ざされた瞼に口付けながら、仕方ないと呟く。

 「それなら、せめて、これだけは答えろ。何故、宝石を他人に贈るなどと嘘を吐いた?」

  真っ青な、石。
  その石に込められた想いを誤魔化す為に吐かれた嘘の意味を問われ、マッドは息を詰める。だが、
 逃げようにもサンダウンの腕はマッドを捕えており、それを口にするまで話してくれそうにない。
  ぐっと息を呑んで、今更だと腹の底で歯を食いしばった。好きだと告げてしまった以上、嘘の意
 図をばらす事の一つや二つ、大した事ではない。
  しかし、口にする時の羞恥は並大抵のものではなかった。そもそも、理由が理由だ。女子供のよ
 うな理由は、顔から火を噴くには十分だ。

 「……っ、あんたの、眼の色に似てたからだよ、っ……。」

  そんな理由で買ったなんて、知られたくなかった。
  だから、嘘を吐いた。

  真っ赤になりながら吐き捨てると、次の瞬間、息が止まるくらいの強さで抱き締められた。優し
 く身体を撫でる指先は喜色に染まって、顔中に口付けが降ってくる。
  まるで、最愛の情を傾けるような仕草に、マッドはぽかんとする。
  そんなマッドの顎をとり、サンダウンはマッドの唇を食みながら、うっとりと囁いた。

 「………ならば、そんな石、必要ないと思わせてやろう。」
 「え………?」

  うろたえていると、濃紺の瞳にマッドが映り込む。

 「代わりの存在など、必要ないほど、傍にいてやる………。」

  そして、もう一度口付けられた。