眼が腫れぼったい。
  眼を覚ましたマッドは、妙に熱を持った瞼を感じて、そう思った。
  ごしごしと腫れぼったい眼を擦りながら、知らないうちに白いシーツの上に移動している自分に
 首を傾げる。宿を取った記憶も、ベッドに潜り込んだ記憶もないのだが。
  そう思ってシーツに肘を突いて身を起こし、周囲を見渡せば、安宿の部屋のある一点を見て硬直
 した。
  叩けば吹き飛んでしまんじゃないかというくらい薄っぺらい壁に囲まれたその隅っこには、粗末
 でぐらぐらと揺れそうな丸テーブルと椅子が添え付けられている。その椅子に凭れかかるように、
 一人の男が眼を閉じて座っている。
  伸びるに任せて整えられてもいない髪と髭。閉じた瞼を縁取る瞼も砂色。
  心底焦がれすぎて、見間違えようもない――いや、例え姿が違っていたとしても気配で誰だか分
 かる――姿を視界に入れて、マッドは心臓が一拍打った後、がばりと毛布の中に潜り込んだ。

  な、なんで、此処に!

  喉も腹も痛くなるくらいに脈打つ心臓を抱え、マッドは毛布の中で、すぐそこにいる現在自分の
 感情の起伏の大半の原因である男の存在を、誰にというわけでもなく問い掛ける。
  そして思い出した。
  見ず知らずの男に襲われていたところを助けられ、そのまま宥めるように抱き締められて、その
 行為が嬉しくて感情が一気に溢れだして泣いてしまった事を。眼が腫れぼったいのはその所為か。

 「あううううう。」

  なんて事をしてしまったのか、自分は。
  サンダウンの腕に抱き締められて泣いて、そしてそのまま眠りに落ちるまでサンダウンにしがみ
 ついていた。それら一連の自分を、サンダウンに見られてしまっている。それらは全て、思い返せ
 ば恥ずかしい以外の何物でもない。
  サンダウンの眼の色に似た石を買っただけでも十分に恥ずかしいのに。
  毛布に包まってぐりぐりとシーツに顔を押し付けていると、はっと思い出した。
  そう言えば、あの石は何処に行ったのだろう。サンダウンに抱き締められているうちに、完全に
 頭からすっ飛んでしまっていたけれど。
  もぞもぞと毛布から顔だけを出し、きょろきょろとシーツの上や床の上を、蒼穹のような石ころ
 を捜して見渡す。しかし、真ん丸な、まるで地球のような石は何処にも見当たらない。のそのそと
 動いてベッドの下を覗き込むが、やはりない。
  なくしたのだろうか。
  あの時、一度に色んな事があったから、あの路地裏に落としてしまったのかもしれない。
  そう思って、マッドは溜め息を吐く。同時に思い出したのは、あの石を売っていた宝石商の言葉
 だ。

  あんたには、その石は似合わないと思うよ。

  あの石に酷い思いを抱いていたマッドにしてみれば、存分に心を抉る言葉だ。そしてあの石がな
 くなった今、その言葉は石の喪失を納得させる形でマッドの中に納まった。
  似合わないからこそ、蒼穹のような石はマッドから離れていったのだろう。それはただの思い込
 みだろうが、思い込みだと言い聞かせるには『似合わない』という言葉は十分にマッドの中でしこ
 りになっている。

  手の中から転がり落ちた石を思って、もう一度溜め息を吐いていると、頭上から声が掛かった。

 「眼が覚めたのか?」
 「ひあっ!?」

  降りかかってきた声は、普段の声からすれば幾分か柔らかいものを湛えていたが、しかしあまり
 にも唐突で、その柔らかさに気付くよりも背中に氷を滑り込まされたような驚愕のほうが先に来た。
 いつの間にか起きて椅子からベッドまで移動していたサンダウンに、マッドは文字通り飛び上がる。

 「な、なななな、何だよ!急に話しかけるんじゃねぇよ!」

  びっくりするだろ、と毛布から顔を出しただけの状態で叫べは、微かにサンダウンの顔が顰めら
 れた。その表情の変化に、マッドはびくりと肩を強張らせる。
  今のマッドは、サンダウンの柔らかさよりも、こうした固い部分のほうに敏感に反応してしまう。
 いつ何時、サンダウンの機嫌を損ねるのか、嫌悪の対象として侮蔑の対象として見られるのかと怯
 えている。
  そんなマッドの様子に気付いたのか、サンダウンは少し硬くしていた表情を緩める。そして、ゆ
 っくりと大きくて武骨な手を伸ばし、マッドの黒い頭をくるくると撫でる。

 「落ち着いたか………?」

  何の事だ、と言おうとして、眠りに落ちる前、自分がしゃくり上げるように泣いていた事をマッ
 ドは思い出し、顔を赤くした。そんなマッドの頭を、武骨な手はあくまで優しく撫でる。

 「べ、別にあんな男、俺一人でもなんとか出来たんだ。あんたがいなくても、俺は……。」

  赤くなった顔を見られないようにとマッドは少し顔を俯けて、ぶつぶつと言うと、そうだな、と
 低い声が穏やかな声音で耳朶を打つ。
  ようやくサンダウンの声が、いつも聞いている声よりもずっと柔らかい事に気付いたマッドは、
 恐る恐る顔を上げ、次の瞬間、物凄い勢いで顔を俯けた。
  顔を上げた先にあったのは、真昼の凪いだ空のように青い瞳だった。いつもの荒野のきつく鋭い
 光ではなく、窓から差し込む光の帯のような眼差しを注がれ、マッドは耳まで真っ赤にしてそれか
 ら顔を背ける。いっそ、頭から湯気が出そうだ。もしかしたら、頭を撫でているサンダウンには、
 マッドが頭のてっぺんまで熱を持っている事が知れているかもしれない。そう思えばさらに体温が
 上がる。

 「マッド……?」

  案の定、サンダウンの声に訝しむような色が混ざる。
  それをなんとか誤魔化そうと、マッドは視線を床のあちこちに彷徨わせて、どうでも良い事を口
 走る。

 「あ、あんたさ、青い石見てねぇか?その、あの、なくしちまったみたいなんだよ。あの、あの時
  に。」

  口籠りながら呟けば、ぴたり、と頭を撫でていたサンダウンの手が止まる。だが、マッドにはそ
 れを不審に思う余裕は、欠片もない。とにかく、赤くなって湯気が出そうな自分を誤魔化そうと必
 死だ。

 「あれ、買ったばかりなんだよな。だから、ちょっと、勿体ねぇかなって思ったり思わなかったり。」
 「………何故、買った?」
 「なんでって……その、あの……そうだ、あの石を欲しがってた奴がいて、そう、それで。」

  まさか、あんたの眼の色に似ているから買ったとは口が裂けても言えない。
  わたわたと、どうにかしてそれっぽい事を口にしているマッドは、サンダウンの手が止まった事
 に気付かない。サンダウンの手はマッドの後頭部に置かれ、今少しでもサンダウンが力を入れたな
 ら、マッドを胸に引き寄せる事が出来る。

 「マッド。」

  柔らかさを消した低い声に、マッドははっとして顔を上げる。そこでぶつかったのは、硬さはな
 いが、柔らかさもない、何かを耐えるように全てを消した瞳だった。

 「済まないが、知らない。」

  ゆっくりと、サンダウンはマッドにそう告げ、そっと手をマッドから離す。離れる時、掠めるよ
 うにマッドの頬に触れていく。
  そして、椅子に掛けていたポンチョと帽子を取ると、振り返りもせずに薄い壁の部屋にマッドを
 残して立ち去っていった。




  サンダウンの手の中には、小さな青い石がある。
  男に襲われ怯えていたマッドの手の中から転げ落ちたそれは、マッドが露天商の前でじっと見つ
 めて、そして購入していた石だ。

  傷つけるようにして別れた後も、マッドの今にも泣き出しそうな表情が気になって、こっそりと
 その姿の後を付けていたのだ。そして悩むマッドが小さな石を買ったのを見て、再び小さな焦りが
 湧き上がってきた。
  サンダウンはマッドが買った石の名前など知らない。ただ、マッドが大切そうに手にしていたと
 いう事実だけで十分だ。
  大切そうに宝石を握り締めるマッドの後を追い――追ったところでどうする事も出来ない事は知
 っていたが――そしてあの現場に遭遇した。いつもなら溜め息しか出そうにない自分の行為だが、
 この時ばかりは、惨めったらしくマッドの様子を窺う自分に感謝した。でなければ、襲われるマッ
 ドを助ける事も出来なかっただろう。
  しかし同時に、怯えるマッドを抱き締めながらも、このまま腕の中に転がり落ちてくれないだろ
 うかと醜い事を考えた。誰を想っているのか知らないが、マッドが危機に陥っても救いもしない男
 よりも、こうして助ける自分に傾かないかと打算が働いた。取り乱した様子のマッドを宥めながら、
 このまま口付けても良いのではないかと思いもした。
  それを押さえ込んで、眠らせて、けれども立ち去り難くそのまま傍にいたのだが。
  しかし押さえ込んでいた欲望を煽るように、マッドはサンダウンを見て頬を赤くした。取り乱し
 た姿を見られた事に動揺したのだろう。    
  取り乱した事を恥じて顔を赤くして俯く姿に、再び、その肩を引き寄せて抱き締めて口付けたい
 衝動に駆られた。
  だが、そんなサンダウンを見透かすように、マッドは心の中にあるのは別の人間だと告げた。
  今、サンダウンの手の中にある石。
  それは、他の誰かが欲しがっていたから買ったのだと告げたマッドに、それをマッドが購入して
 いるのを見た時に感じた焦りが間違いではなかったのだと思った。
  マッドは誰の為に買おうとしたのかまでは口にしなかった。けれど、思い煩う彼が、誰かの為に
 と物を買えば、必然的に贈る相手は絞られる。
  だから、男に襲われて取り乱したマッドの手の中から転がり落ちたそれを、マッドに返す気には
 なれなかった。マッドが誰かの為に奉仕する姿など、見たくもない。
  不透明な、青い石を握り締め、この事が知れたら、きっとマッドは怒るだろうな、と思う。
  あの黒い眼に傷ついたような色を灯し、そしてサンダウンを睨みつけるだろう。今のところ、マ
 ッドはサンダウンを信用しているようだが、しかし実はあの男と同じように不純なものを抱いてい
 ると分かれば、きっと裏切られたと思い、サンダウンから離れていくだろう。
  その時、自分はどうするだろうか。
  あの、荒れ狂う暴力的な命そのもののような男が、背を向けたら。