ぐずぐずと鼻を啜りながら、これで良かったんだとマッドは自分に言い聞かせる。
  サンダウンが、マッドの感情など対して気に掛けていない事が分かっただけでも十分だ。いや、
 むしろ男を想っている事で軽蔑されなかっただけ良かったと言える。そして、本人に思っている事
 が、ばれなかった事も幸いだ。
  当分の間は、まだぐずぐずと燻り続けるだろうけれど、いつかまた、ちゃんと追いかけられるよ
 うになった時は、きっと普通の関係に戻っているだろう。
  そう、自分のねじ曲がった想いが消えて、もとの鞘にもどるだけの話。それは、マッドとしても
 願ってもない事だ。
  くすん、と鼻を啜って、マッドはごしごしと眼を擦る。
  潤んだ眼と涙の跡を消す為に洗面所に行って顔を洗えば、眼元はまだ赤いものの、人前に出ても
 おかしくない程度の顔つきにはなった。
  しかし、気分はなかなか晴れてくれそうにない。
  気晴らしに何か、と考えても何も思い浮かばない。酒を飲む気にもならないし、女に逢いに行く
 気にもならない。このまま部屋に閉じ籠っていても、くさくさするだけだという事は分かっている
 のだが、心は鉛を溶かしこんだように沈み込んでいる。まだ、喉の奥には、サンダウンに切り捨て
 られた瞬間に膨れ上がった、硬いものがへばりついているようだ。何度唾を呑み込んでも痛みしか
 生み出さないそれに、再び涙が盛り上がりそうになり、マッドは慌てて首を振る。
  やっぱり、こんなふうに部屋に閉じ籠っているから駄目なんだ。気分が盛り上がらなくても、外
 に行けば何か変わるかもしれない。
  そう思って、マッドは大きく息を吐いて気合を入れ、溜め息ばかり吐いて湿っぽくなった部屋を
 後にした。




  しかし、気合を入れて外に出たものの、特に行きたい場所があるわけではない。いつもならサル
 ーンに足を向けるところだが、やはり今日はそんな気分にはならない。
  そこで、マッドは露店が犇き合う通りをぶらついていた。
  乾いた荒野では、野菜や花はほとんど育たない。その為、遠く離れた地から、馬車を率いて行商
 人達が荒野には咲かない花や、植物、野菜、果物を持ってきては並べ立てるのだ。その様子は、露
 店と言うよりは市場の風景に近い。
  むろん、露店に並ぶ物が食料品だけではない。鍋やフライパン、食器などの生活必需品から、異
 国から届いたという色鮮やかな織物も並んでいる。娯楽の少ない荒野の為に、新聞や本を取り扱っ
 ている商人も少なくない。
  それに混じるようにして、効くのかどうかも分からない怪しい薬を取り扱う者もいる。彼らが売
 るのは東の国から取り寄せたという苦味のある薬草や、或いは阿片などの手を出すにはやや危険な
 代物だ。
  様々な物が無秩序に犇き合う中、その中でも一際眼を惹く露店があった。
  普段は、色鮮やかで新鮮な果実や野菜が眼を惹くのだが、今日は違う。赤い布を敷いたその露店
 の台の上には、日差しを浴びてちかちかと瞬く金銀が乗せられており、その輝きは行く人々の視線
 を奪っている。
  どうやら、今日は宝石商人もやってきているらしい。
  金銀の装飾品だけでなく、宝石も所狭しと並べらている台には、若い女だけでなく子供も男達も
 皆眼を向けている。
  金の台座に赤い石を嵌めこんだ指輪やら、細工の付いた金の櫛。花が中に閉じ込められた琥珀の
 ブローチや、銀にダイヤモンドを埋め込んだ耳飾り。
  燦々と輝くそれらに、マッドも何か面白い物はないかと覗き込む。と言っても、こういったもの
 で身に付ける物といえば、せいぜいタイピンくらいなのだが。何処かの成金のように、ごてごてと
 指輪をつけるのも性に合わないし、首飾りなんてするのも妙な話だ。
  だから、マッド自身はこういったものに興味はないのだが。

 「あ…………。」

  しかし、燦然とする中にある一つの宝石を見た時に、思わず声が零れた。
  それは、つるりと研磨されただけの丸い石だ。だが、その色は何よりも深く強い青。例えばサフ
 ァイアのように透き通っているわけではないが、しかしサファイアよりも遥かに青味は強く、そし
 てその青の中に、雲のように白い模様が渦巻いているところもあれば、星屑のように銀色の点が散
 っている部分もある。

 「おや、お眼が高いねぇ。」

  その石に見入っているマッドに、宝石商が声を掛けた。

 「それはラピスラズリ。インドやアラビアのほうじゃ、天の欠片って言われているくらい、青の美
  しい宝石でね。白い模様や銀の点が表面にあるだろう?それがまた空の模様みたいで人気がある
  のさ。」
 「あ、ああ………。」

  図らずしも、その青を空の色、引いては想う相手の眼の色のようだと思っていたところに、それ
 を肯定するような事を言われて、マッドはうろたえる。
  しかし宝石商人はそんなマッドの様子に気付かずに、でも、と横にあった指輪を摘まみ上げる。

 「あんたには、その石は似合わないと思うよ。」
 「…………っ。」
 「確かにラピスラズリは良い石なんだけどね、あんたにはもっと派手なのが似合うと思うよ。赤と
  かね。ほら、この指輪なんかどうだい?」

  そう言って、ルビーの周りに小さな緑色の石が幾つもあしらわれた指輪を差し出す。
  だが、マッドとしては、青い石が似合わないと言われた事が微かな動揺を産んでおり、差し出さ
 れた指輪に手を出す気にはならない。普段ならば、単に配色の意味合いだけだと理解できただろう
 けれど、なまじサンダウンを想い浮かべていた石であるが故に、そこまで頭が回らない。

 「こいつでいい………。」

  青い石に手を伸ばし、辛うじてそれだけ言えたのは、マッドの中にある精一杯の反抗だった。

 「おや、そうかい?でも、それならそんな研磨しただけの丸い石じゃなくて、ちゃんとした装飾品
  もあるよ。」
 「いや、こいつでいい。」

  商人がブローチやら何やらを出すのに首を振り、マッドは丸いだけの石を手の中に収める。それ
 を見た商人は首を傾げ、そうかい、と頷いた。

 「でも、なくさないように気をつけるんだよ。なんなら、何処かの職人に頼んで器を作って貰った
  ほうが良い。」
 「ああ………。」

  商人の言葉に頷いて、マッドは天蓋と同じ様子をした石をそっと握り締めた。
  小さな重みのある青い石は、透明でない為、日に透かしたところで色合いが変化したりはしない。
 しかし、やはり白い雲のような模様や、銀を散りばめたその様子は、サファイアやアクアマリンよ
 りも遥かに空に近い色をしている。同じ透明でないトルコ石よりも青味も深い。
  それに、と頭の片隅で思う。
  透明なサファイアやアクアマリンよりも、模様のあるこの石のほうが、ずっとあの男の眼に似て
 いる。あの男の眼も、決して澄み切っているわけではない。荒野の空と同じくらい強い青だが、決
 して澄み渡ってはいない。むしろ、何よりも混沌として、とぐろを巻いた暗雲や砂埃で濁っている
 事のほうが多い。それを思ったから、こうして模様を描くこの石を見て、すぐにサンダウンを思い
 浮かべたのだ。

 「………何やってんだか。」

  マッドは、手の中にある青い石を見つめて自嘲気味に溜め息を吐く。
  当分は燻り続けるとは思っていたけれども、これはまだ諦めきれていない証拠だ。何かを見て、
 すぐにあの男に繋げるなんて。

 「女々しいにも、程がある。」

  大体、こんな事をしても何にもならないのに。
  そう思いながら、マッドは青い石を唇に近付ける。ひんやりとした感触が広がり、マッドはもう
 一度溜め息を吐く。
  その時、身体に軽い衝撃が走った。

 「おっと、申し訳ない。」

  はっとして前を見ると、そこには上品な服装をした茶色い髪の壮年の男が立っていた。男の水色
 の眼が自分を見下ろしている事で、マッドはいつの間にか自分が露店から離れた路地裏に迷い込み、
 男にぶつかったのだという事に気が付く。

 「あ、ああ、こっちも悪かった。ちょっとぼうっとしててな。」

  言いながら、石を落とさなかった事に安堵する。
  そっと丁寧に石を手の中にもう一度収めていると、それを見ていた男が声を掛けた。

 「お節介かもしれないが、その石をそういう状態で持ち運ぶのは良くない。いつ落とすかも分から
  ないだろう?」
 「分かってるよ………。」

  ぎゅっと石を握り締めて答えると、男の水色の瞳が僅かに細められた。サンダウンよりも薄い青
 味の瞳が、ゆっくりと近付く。

 「私はこう見えても装飾職人なのだが、どうだろう?それにあった器を用意しようか?何、ぶつか
  ってしまったお詫びだ。」
 「お詫びって……ぶつかったのは俺だろ?」
 「そうなんだが、私としても君のような美しい相手と話がしたいものでね。こういった職業はね、
  出来る限り美しい物を見ておかねば、行き詰る事が多いんだ。」
 「……………。」

  男の目的がお詫びではなく、マッド自身にあると告げられ、マッドは表情を固くする。これまで
 もこうした目つきで見られる事は多かった。だから、慣れていると言えば慣れているのだけれど。
  でも、こうした目つきで見られている事が、もしもマッドのほうが男を誘っているのだというふ
 うに見られていたら?
  サンダウンにも、マッドは男を誘っているのだと思われているのだとしたら。普段から、男を想
 っているような人間だと思われていたら。例えその事に偏見はなくとも、自分もいつかそういった
 眼で見られると考えて、マッドとの距離の取り方を変えるんじゃないだろうか。例えマッドが以前
 のように振舞えるようになっても、サンダウンは違っているかもしれない。
  元に戻そうとしていた関係が、元には戻らないかもしれない事があるかもしれないと、マッドは
 頭を殴られたような気分になった。手の中にある青い石の冷たさが、マッドを拒絶しているようだ。  

 「あっ………。」

  男の手がマッドの腰に回る。そのまま引き寄せられそうになって、マッドは思わず身を捩った。

 「放せっ………!」

  だが、思いのほか男の力は強い。

 「職人と一口に言っても、自分で石を採りに行ったりもしているのでね。それなりに身体は鍛えて
  いるんだよ。」

  逃げようと身を捩るマッドを楽しそうに見下ろし、男は歌うようにそう告げる。しかし、マッド
 としては冗談ではない。マッドには男に抱かれる趣味も男を抱く趣味もないのだ。ただ、一人の男
 に間違った想いを抱いてしまっているだけで。

 「くそ、放せって言ってんだろっ……!」

  石を握っていない方の手で腰に帯びた銃を探るが、ちょうどホルスターは反対側にあり引き抜き
 にくい事もあって、あっさりと腕を掴まれてしまう。

 「細い腕だな………。力を込めると折れそうだ。」
 「止めろ、嫌だ!」

  男が身を寄せてくる。その気配にマッドは悪寒が走る。だが、確かに銃の腕なら誰にも負けない
 が、こうして接近戦に持ち込まれてしまうとマッドの細い体では圧倒的に不利だ。
  その身体を甚振るように、男の空色の眼が近付いて、マッドの首筋に顔を埋める。

 「ひ………!」

  ねっとりとした感触に、マッドは嫌悪感から身震いする。サンダウンに触れられた時は感じた事
 のなかった吐き気が、喉の奥からせり上がる。その事が、如何に自分があの男の事を想っているの
 かを再確認させ、マッドを打ちのめす。
  これがサンダウンだったら、と思っている時点で、もう、おかしい。
  自分の現状と、浅ましい想いにマッドは絶望的な気分になる。手の中に握り締めた石は、何の役
 にも立たない。

 「嫌、だ………!」

  吐き出した声は、声になっていただろうか。単に悲痛な音にしかならなかったかもしれない。だ
 が、それに応じるようにして、男の身体がマッドから離れた。まるで、何かに跳ね飛ばされるよう
 に。

 「ぶわっ!」

  男の情けない声にマッドが眼を瞬かせていると、ぐいと再び何かに引き寄せられる。ぼすっと、
 頬が葉巻とアルコールと砂の匂いがする何かに埋もれる。その匂いにはっとするよりも先に、頬を
 埋もれさせたままの視界の先に、見慣れた真鍮の銃が背を向けていた。銃口は、真直ぐに尻もちを
 突いた男を向いている。

 「…………失せろ。」

  耳元で風のように吹き荒んだ低い声に、マッドは身を竦ませた。そして、その声を投げつけられ
 た男は、じたばたとしばらく地面の上で手足を掻いていた後、そのまま這うようにして姿を消す。
 その姿が路地を曲がって消え去るまで、真鍮の銃口はひたりと動かない。
  マッドは銃から眼を離し、恐る恐る視線だけを動かし、自分の顔に当たっているものを見る。
  最初に視界に入ったのは砂色の髭だ。そして同じ色をした髪。その向こう側に、埋もれるように
 して青い瞳が前を睨み据えている。今、自分の手の中にある石と同じくらい深い青をした瞳は、し
 かし今ははっきりと怒りによってか激しい光を湛えている。

 「………………。」

  マッドの視線に気付いたのか、その青い瞳がマッドを映した。
  咄嗟に身を捩って逃げようとすれば、肩に回されていた腕に力が籠り、引き寄せられる。

 「いや、だ………!」

  眼の前に、とにかくどうにかして想いを消そうとしていた男がいる事に、何よりもその男にあん
 な状態でいるところを見られた事に、マッドは心臓を掴まれたような気分だった。だから、なんと
 かして距離をとろうと身を捩るが、男の腕がそれを許さない。

 「マッド。」
 「放せ………!」
 「マッド、落ち着け。」

  いつだったかのように顎を掴まれ、視線を合わす事を強要させられる。

 「………私だ。だから、逃げなくても良い。」

  何が逃げなくても良いのか。
  相手がサンダウンだと言うだけで、マッドには逃げるに十分な理由だ。
  だが、サンダウンの手はマッドを逃そうとしない。むしろ、マッドの後頭部に優しく手を当てる
 と、そのまま肩口に顔を引き寄せる。

 「………大丈夫だ。誰も、お前に、何もしない。」

  怯えた子供を宥めるように、何度も頭と背中を撫でる。どうやら、サンダウンはマッドが男に襲
 われて怯えていると思っているようだ。
  確かに、それもある。
  けれど、それだけではないのに。
  だが、そんな事――サンダウンと距離をとろうと思っていた事だとか、サンダウンに気持ちが悪
 いと思われたくないだとか――がどうでも良くなるほど、抱き締められている事が、心地良い。な
 んでそんなふうに触れてくるんだ、と思ったが、それさえどうでも良い。
  ゆっくりと身体をなぞる大きな手が、何よりも嬉しい。嬉しくて、泣きたい。

 「ふぇ…………。」

  喉の奥から、情けない音が漏れる。
  それと同時に、ぼろりと涙が零れた。