サンダウンは、目の前で今にも開花しそうな、その寸前で恥らっている薔薇の蕾が、ふらふらと
 揺れているのを眺めていた。
  この薔薇が枯れるまで。
  そうサンダウンはマッドに訴えた。
  この薔薇が枯れるまでに帰ってきてほしい、と。
  本音を口にしたら、マッドを何処かにやってしまう事など嫌で堪らないのだ。だが、サンダウン
 にも、マッドを拘束しているという自覚はある。そして、束縛された時に感じるのは、愛情ではな
 く苦味である事も。
  そして、マッドが間違いなくその苦渋に浸っている事も、サンダウンは良く理解していた。
  普段なら――或いは、サンダウンを目の前にしていない時は、と言うべきか――マッドは皮肉な
 笑みを口元に湛えて、その綺麗な形の唇から、酷く乱暴な言葉を笑い含みに叩きつけるのだ。相手
 が誰であろうとマッドには関係ないし、膝を折る事も頭を垂れる事も知らないような、傲岸な表情
 で世界を謳歌する。
  だが、それがサンダウンの前では一気に崩れ落ちるのだ。
  以前はそうではなかった。が、いつからかマッドはそんなふうになった。酷くよそよそしく見え
 た瞬間が、瓦解したのは、サンダウンがマッドの心打ちを言い当てた時だったか。
  それはサンダウンにとっては喜ぶべき事で、決して忌むべき事ではなかった。一人荒野を彷徨う
 男が、唯一その手を離さずに地獄の果てまでついてきてくれるという人間に惹かれ、その存在に喜
 ぶのは当然の事。
  だが、マッドの中ではそうではなかったらしい。
  もしくは、サンダウンがそんなふうに思っている事など、まるで考えていなかったのか。
  ふらふらと揺れる、夜露に濡れた薔薇の花弁が、マッドの黒い眼と重なる。マッドに良く似合う
 赤い薔薇は、ひとたびマッドの手の中にいた事があった所為で、その花弁の揺れ一つでさえもマッ
 ドを想起させる。
  潤んだマッドの黒い眼。
  サンダウンは小さく溜め息を吐いた。
  ここ最近、サンダウンはマッドの笑っているところを見た事がない。サンダウンが見るマッドの
 顔は、いつも狼狽えているか、強張っているか、潤んでいるかだ。
  それらが疎ましいとは思わない。
  以前ならば決して見る事の叶わない、そして他の人間には決して見る事が出来ない、マッドのそ
 んな表情一つ一つを、サンダウンは大事に記憶の小箱にしまっている。
  もしもこの先、サンダウンはそんな事を起こす気は全くないが、マッドがサンダウンの前から消
 え去ってしまっても、きっとその小箱があれば、サンダウンはひっそりと生きていけるだろう。マ
 ッドの表情をしる数少ない人間の一人として。

  けれども、同時にサンダウンはマッドにそんな表情をさせたいわけではない。
  狼狽えた顔、強張った顔、潤んだ顔。
  サンダウンの動作一つ一つに、酷く敏感に反応し、時には怯えたような表情さえするマッドには、
 荒野の賞金稼ぎとしての面影は何処にもない。ひたすらに何も知らない、家族と引き離されてしま
 った子供のようだ。
  そして、サンダウンはここ最近、ずっとそんなマッドの表情ばかりを見ている。
  そんな顔が嫌いなわけではない。
  だが、サンダウンとしてはやはり、笑っている顔も見たい。
  自分の所為でマッドが一喜一憂しているというのは、非常に優越感を擽られるものではあるが、
 ずっと一憂ばかりな気がする。
  サンダウンがいない事に怯え、サンダウンがいつか離れるんじゃないかと怯え、そもそもサンダ
 ウンがマッドを欲しがっている事さえも嘘ではないのかと怯え。
  どれだけサンダウンが、そんなはずがないだろうと言い聞かせても、マッドの憂鬱の森は深く、
 サンダウンの手では払えない。
  だから、マッドの憂鬱の一因がサンダウンにあるというのなら、少しだけ距離をとってみようか
 と考えたのだ。
  以前から、マッドはサンダウンが傍にいる所為で、考えも纏まらない事が多いようだった。それ
 は恐らくサンダウンの事を考えていたのだろうが、サンダウンはそれを考えなくても良いと言って、
 その時間を奪っていた。
  正直なところ、考える必要はないと思っている事に変わりはない。
  サンダウンとしては、マッドはかつてそうであったように、自信満々に、そして傲岸不遜にサン
 ダウンに抱き締められていれば良いのだ。乱暴な魅力的な口調と声で、サンダウンに抱く事を強要
 したり、甘やかすように命じれば良いのだ。
  そうすればサンダウンは命じられた通り、マッドを抱きしめるし好きなだけ甘やかすだろう。
  マッドが寒いと言えば温めるし、腹が減ったと言えばマッドの口に合うものを探しだすだろう。
  そうやって、マッドは王様のように振る舞っていれば良いのだ。
  なのにマッドは、あの唯我独尊状態の不遜さは何処へやら、サンダウンの前ではまるで喋る事も
 分からない子供のように狼狽えるのだ。狼狽して、酷く悲しい、悲観的な事ばかり考えているよう
 だった。
  我儘であった時のほうが、サンダウンはずっと上手くマッドと向き合えただろう。そう思ってサ
 ンダウンは苦笑する。サンダウンとしては、マッドが此処まで恋愛に怯える事が予想外だったのだ。 
 もっと、慣れた手つきでサンダウンを招くのかと思っていたのに。もしくは、男同士だという事も
 あるから、拒まれるかと。
  だが、マッドが取った行動は、酷く怯えて今にも逃げ出そうとするものだった。
  ふるふると怯えて、大粒の涙を零していたのを思い出し、サンダウンはもう一度ゆっくりと溜め
 息を吐いた。
  泣かせたいわけではない。 
  ただ、サンダウンに怯えた素振りを見せるマッドの琴線は、思う以上に敏感で、すぐに追い詰め
 られてしまうものだった。
  だから、一度マッドには、ゆっくりと考えさせる機会が必要だったのだろうと思い、抱き締める
 腕を緩めたのだ。
  薔薇が枯れるまで、という期限付きで。
  その期限について、マッドはどう思っているだろうか。
  短いと思っているだろうか、それとも長いと思っているだろうか。
  或いは、そんな期限をつけるなんて、サンダウンがマッドの事を信用していないと落ち込んでい
 るだろうか。
  落ち込むマッド、という、以前ならば少しも想像できなかったマッドの様子が、あっさりと思い
 浮かんだ事に対してサンダウンは小さく苦笑する。そしてそれほどまでにマッドの表情を見てきた
 のだと、微かな感慨を覚えた。
  そして、落ち込んでいるかもしれないマッドに対して、すぐにでも囁いてやりたくなった。
  サンダウンが勝手に取り付けた期限は、サンダウンがマッドが戻ってくる事を待ち侘びる為の時
 間なのだ、と。
  マッドを信用していないわけではない。
  もしも例えマッドが期限までに帰ってこなかったとしても、その時はサンダウンが迎えに行けば
 良いだけの話だ。そう言ってしまえば、薔薇が枯れるまでという曖昧な期限には、約束ほどの拘束
   力はない。
    だからこれは、マッドを拘束する為と言うよりも、むしろサンダウンを拘束する為に取り付けた
 ものだ。
  サンダウンが、マッドを待ち侘びる為に。帰ってくる時を今か今かと待ち侘びる為の時間だ。サ
 ンダウンがマッドの事だけを考える為の期間だった。
  マッドがサンダウンの事をゆっくりと考える間、サンダウンもマッドの事を考えて、待ち侘びる。
  マッドは、きちんと分かってくれているだろうか?
  薔薇が枯れるまでという期限を越えた時の事を。
  薔薇が枯れるまでに帰らなかったら、サンダウンがマッドを待つ事を止めるとだけ思っているの
 だろうか。サンダウンがマッドを待つ事を止め、マッドを置いて何処かに行ってしまうとでも、落
 ち込んだ表情で思っているのではないだろうか。
  あの、黒い眼を潤ませながら。
  そうではないのだ、と囁くべきだっただろうか。
  薔薇が枯れてしまったら、サンダウンはマッドを待ち侘びるのを止め、マッドを捜しに行く、と。
 そう伝えてやるべきだったかもしれない。
  帰ってきたら、すぐにでも抱き締めるつもりだ、と。
  捜し出したら、すぐにでも抱き締めるつもりだ、と。
  本当なら、今すぐにでも捜し出して抱きしめたいのだ、と。
  サンダウンは、マッドの頬のように微かに震えている薔薇の花弁にそっと触れる。瑞々しく艶や
 かなそれは、枯れるには程遠い。早く枯れれば良い、と、普通ならば思わない事をサンダウンは思
 う。
  枯れたならマッドが帰ってくる。マッドを捜しに行ける。
  仮に、例え枯れなかったとしても、花弁が落ちてしまったら、その時はサンダウンを拘束するも
 のは何もない。最後の一枚が落ちる前に、マッドを捜しに行こう。
  きっと、今頃眼を潤ませて震えているであろうマッドの事を想いながら、サンダウンは赤い薔薇
 の花弁を、千切れるか否かの力加減で引っ張った。