久しぶりに入った酒場は、相変わらずアルコールと葉巻の匂いで、むっとしていた。
  その匂いに、マッドはまるで今まで一度も酒場に入った事のない青二才のように顔を顰め、慌て
 て慣れてないわけじゃない、と自分で自分に言い聞かせる。
  だが、あまりにも久しぶりすぎて、酒場全体にこもった匂いが気になるのはどうしても抑えられ
 ない。出ていく間際に嗅いだ薔薇の匂いが、あまりにも薫り高かった所為もあるかもしれない。
  薔薇。
  それを思い出して、マッドはあやうくその向こう側にいる人物まで思い出しそうになり、急いで
 それ以上の思考をするのを止めた。
  その思考が再び浮上するのを食い止める為にも、近くのテーブルに着いて、急くように葉巻と酒
 を頼む。
  注文してから、ようやくマッドは落ち着いて辺りを見回せるようになった.
  木材で出来た壁と床は、ヤニや零れ落ちたアルコールで酷く汚れており、天井もなんだか薄暗い。
 ぶら下がっている明かりも、くすんでいるような色合いだった。だがそれでも店内はごった返して
 おり、娼婦であろう女達の黄色い声や、ポーカーに興じる男達の笑い声や罵り合いが聞こえてくる。
  良く知った、酒場の喧噪だ。
  此処に一つでも争いの火種を放り込めば、きっとあっという間に着火して、弾け飛ぶだろう。
 そして、マッドはそんな雰囲気が嫌いではなかった。
 荒野の混沌とした情勢を、そのまま縮小したような喧騒と、強いアルコールの匂いと、そしてけ
ぶるような葉巻の煙。
  かつて西部の世界に飛び込んだ当初から、マッドはその色合いが決して嫌いではなかった。
  そしてそれは、今でも同じであるはずだ。
  だが、何故か微妙に楽しくない。以前は、派手なドレスに身を包んだ娼婦のレースの裾が視界を
 翻るのに笑みを浮かべ、テーブルの向こうで聞こえる男達の怒鳴り合いをいつ喧嘩に発展するのか
 と楽しみにして待っていたのに。

  ……あのおっさんの所為だ。

  マッドはテーブルに頬杖を突いて、溜め息を吐いた。
  その物憂げな様子は、あからさまに周囲の眼を惹いて、サンダウンがこの場にいたらすぐさまそ
 の手を取って引き摺ってでもこの場から連れ出したであろうけれど、生憎と今のマッドは他者の視
 線が何処に向いているかなど一向に気にしていない。だから、自分が他人に物欲しげに見られてい
 るなど、これっぽっちも気づいていなかった。
  今のマッドは、自分がこの場をあまり楽しんでない事について、酷く憂鬱な気分になっていたの
 だ。
  せっかく、ようやく一人になって、サンダウン以外の人と付き合って喋ったりする事が許された
 のに、それが楽しくないだなんて、どう考えてもおかしい。無駄な事をしているようにしか思えな
 い。
  何よりも一番恐ろしいのは、その原因がサンダウンの所為であると分かっている事だ。
  久しぶりに、サンダウンと離れて一人で街にやってきた。以前ならばそれは当然の事であり、一
 人の気ままさと、人の輪に入る悦びを十分に楽しんでいた。一人で荒野を駆けて、酒場では適当に
 数人を引っ掛けて、夜は女と過ごす事も少なくない。
  なのに、その生活は既に一変した。
  サンダウンの所為で。
  いや、ほとんどは自分の所為か。

  でも、あのおっさんにだって責任はあるぞ。

  最初に恋に堕ちたのは確かにマッドだ。マッドにはあるまじき事に、非常にぎこちなく何も考え
 ずにプレゼントなんてものを買い、マッドには本当にあるまじき事に、プレゼントを渡す事さえ躊
 躇ったのだ。
  だが、マッドの想いがばれてからというもの、サンダウンはマッドを一人にしてくれなかった。
 マッドを拘束し続けて、サンダウンもマッドの事が好きだとかなんだとか。そんな事ばかり言って、
 マッドを掻き乱し続けた。
  おかげで、この様だ。
  わっと、酒場の隅で歓声が上がった。続いて罵声が。どうやら誰かが一人勝ちをして、それに対
 して怒鳴りつけた奴がいるらしい。酒場ではお馴染みの光景だ。そして本当ならば、そこにマッド
 も混ざっているはずなのに。
  マッドはそんな歓声を聞きつつ、しょんぼりと肩を落とした。
  何せ、あの輪の中に、本気で入りたいと思っている自分がいない事が大問題なのだ。それどころ
 か、サンダウンが今何をしているのかが、ずっと頭の隅で気になっている。目の前に出された酒の
 味も、ソーセージの味も、良く分からない。
  やがて、けたたましい足音を立てて、金を巻き上げられた男達が荒々しく立ち去っていく。酒場
 の、むわっとする空気を掻き混ぜて、乱暴にドアを開け閉めする音に、マッドは少し辟易した。慣
 れているはずの光景が、妙に神経を逆撫でした。
  手にしたフォークを折れそうなほど握り締め、マッドは込み上げる吐き気を堪える。まだ昼時な
 のに、サンダウンと一緒にいた小屋を出て、二時間ほどしか経っていないのに、もうあの場所に戻
 りたくなっている。そんな自分の情けなさに、泣きたくなってくる。
  歯を食い縛り、マッドはテーブルを睨み付ける。
  そんなマッドの傍らに、いっそう葉巻の甘ったるいきつい香りが立ち昇った。マッドも良く嗜む
 ものと同じ匂い。だが、それを心地良いとはマッドは思わない。だが、そんなマッドの心境を、誰
 かに分かって貰おうなどとは虫が良すぎる。いや、それ以前に全く関係のない第三者にこの事を知
 られたら、それだけでマッドは憤死する。
  だから、すぐ傍に何も知らずに立ち上った男に、マッドは怒鳴り散らす事も出来ずに我慢するし
 かない。
  視線だけを動かして、カードゲームに勝ち越し、先程出て行った男共を追い散らした、どうやら
 同業者らしき男のすらりとした立ち姿を認めた。

 「……なんか用か。」

  見た事はない。
  だが、向こうはマッドの事を知っているようだ。
  当然といえば当然だ。賞金稼ぎマッド・ドッグは、この荒野では一番有名な賞金稼ぎなのだから。
 こうやって見ず知らずの男に声を掛けられる事も決して少ない事ではない。

 「あんた、賞金稼ぎのマッド・ドッグだろう?」

  歳の頃はマッドとそう変わらない。だが、マッドよりも微かに高い声が、マッドよりもまだ若い
 事を示している。かなり強い南部訛が残っている事から、南部の農民の出身か、もしくは身の回り
 に南部出身の人間がいたか。
  身体つきはマッドと同じで細身だが、ちょっと足が短い。肌の色が少し浅黒いから、ラテンの血
 が入っているのかもしれない。
  男の出で立ちを見ながら、うつらうつらとそんな事を考えていると、マッドの様子に何を思った
 のか、若い男は髭を生やした口の端に、にたりと笑みを浮かべた。

 「珍しい事もあるもんだな。あんたみたいなのが、一人で酒を飲んでるなんて。」
 「俺が一人でいようが、誰かと一緒にいようが、俺の勝手だ。てめぇ如きに指図される謂れはねぇ
  な。」

  殊更単調な、ただし低めの声で言い放つ。聞く者が聞けば、それは微かに警告音が混じっている
 事に気づいたはずだ。
  だが、マッドの脇に勝手に立っている男は、マッドが出す警告に気づいているのかいないのか、
 へらへらとした笑いを消さずに、何処かに立ち去ろうともしない。

 「いやいや、俺如きがあんたの行動に口出せやしねぇさ。でも、一人なら、ちょっとは俺の相手を
  してくれるかもって期待するだろ?まして娼婦一人侍らせてねぇとなると。」
 「娼婦一人も侍らせてねぇんなら、むしろ誰の相手もしたくねぇんだろうよ。」

    男の勝手な期待を、鼻先で一蹴する。
  だが、男は何故か立ち去ろうとしない。諦めが悪いのか、空気が読めないのか。或いはマッドを
 怒らせたいのか。
  マッドが何も籠らない眼で男を見ると、男はにたにたを止めずに、声もにたにたとさせて言った。

 「だが、そんな事言っても、あの男が来たらそっちの相手をするんだろ?」

  誰の事を言っているのかは明白だった。
  紛れもなく、マッドが今現在大絶賛片想い中――サンダウンもマッドの事を好きだとは言ってい
 るが、そのあたりの事は完全に信用していないので差し引いておく――の賞金首サンダウン・キッ
 ドの事を言っているのだ。

 「あの賞金首の相手は、どんなに機嫌が悪くてもするってんなら、俺の相手をしてくれても良いん
  じゃねぇのか?」
 「てめぇが、あのおっさんよりも銃の腕が立つとは思えねぇな。」

  マッドは、目の前の男を眺め回すまでもなく、切って捨てた。
  もしもこの男が、サンダウン程の銃の腕前の持ち主なら、マッドはその姿形そして名前を知って
 いるはずだった。だが知らないとなれば、決して大層な輩ではないという事だろう。
  しかし、やはり男はにたにたと笑っている。

    「別に、銃の腕が全てってわけじゃあねぇだろう?この荒野を制するのはさあ。あんただって良く
  知ってるだろ?賄賂に根回し、騙し討ち。それらを万遍なく使いこなせば、銃の腕なんかなくっ
  たって、五千ドルの賞金首くらい撃ち取れるんだぜ?」

    現に、俺はあの男の肩を撃ち抜いた事があるんだぜ?
  にやけた口調で囁いた男は、どうやら本気でマッドを怒らせたいらしかった。男の口にしている
 事は、紛れもなく嘘だし、それはマッド自身が良く分かっている。恐らく、マッドの動揺を誘う為
 に、嘘八百を並べ立てているのだろう。それとも、この男はマッドがそんな嘘を信じるとでも思っ
 ているのだろうか。

 「あんたは最近表に出てきてなかったようだから知らねぇだろうけどな。あんたが水に潜ってる間
  に、何人もの賞金稼ぎがあの男を狙ってたんだぜ?あんたがいないのを良い事にな。ま、それ自
  体は悪い事じゃねぇだろ?その果てに、俺があの賞金首を撃ち取ったって。完全には仕留められ
  なかったが、あの血の量じゃ、何処かで死んでるかもなぁ?」
 「それを信じる必要が、何処にあるってんだ?」
 「ああ、信じなくたってかまやしねぇぜ?でも、そういう可能性だって、あるって事さ。」
 
     本当に、只管にマッドの動揺を誘いたいためだけに吐かれている言葉だ。これで、この男はどう
 したいのだろう。マッドがそれで、この男から更に情報を引き出すとでも思っているのだろうか。
 その為に、何らかの見返りを得ようとしているのか。
  だとしたら、本当に馬鹿だ。
  そして、今後そんな馬鹿が次々と出てくるかもしれないのか。
  そう思って、マッドは本当に苛々した。サンダウンとの事が何一つとして終わっていないのに、
 ガタガタと煩い外野がいる事に。サンダウンの事をゆっくりと考える事も出来ないのか。

 「残念だが、てめぇの言い分を信じる事は、これっぽっちも出来ねぇな。」 

  マッドは出来る限り優雅な手つきで、葉巻を咥え、そっと火をつけた。途端に湧き上がるのは、
 マッドが好む、上品な甘い香りではない。煙っぽい、安っぽい、強いて言うならばサンダウンが良
 く咥えている、本当に安い葉巻の匂いだ。
  なんでそんな安い葉巻を選んだのかなんて、考えたくもない。
  マッドは自分の事など何も考えずに、ただひたすらに、目の前にいる不快な男を切り捨てる為だ
 けに、真実を吐き捨てた。

 「あのおっさん、ここ最近はずっと俺の塒で寝泊りしてたからな。昨日も一緒だった。」