マッドは、もじもじとしながら身支度を整える。
  今日はマッドは出かけるのだ。一人で。
  つい最近までマッドから離れず、マッドが何処かに行こうものなら必ずついてきたサンダウンは、
 昨日自らマッドの傍から離れた。尤も、夕方にはマッドの元に戻ってきて、夜は一つのベッドに収
 まったわけだが。
  とにかく、サンダウンの束縛は、徐々に緩やかなものに変化しつつある。それは、ふるふると震
 えているマッドを慮っての事なのかもしれないが、それをもう自分に飽きたんじゃないんだろうか
 と穿って見るのがマッドである。
  別に、マッドとていつもそんな自虐的な事を考えているわけではない。しかし、サンダウンが絡
 む事になると、とにかく普段あれほど漲っている自信が、忽ちのうちにぐらつくのだ。
  そう。
  サンダウンが自分の事を好きだと言う事も、まだ完全に信じ切れたわけではない。だから、サン
 ダウンがマッドから少しでも離れると、飽きたんじゃないのだろうか、最初からそんなつもりはな
 かったんじゃないだろうかと不安になるのだ。 
  だが。
  マッドはちらりと視線を動かして、テーブルの上に乗っている水差しを見る。そこには、両手で
 抱えきれないほどの赤い薔薇が活けられている。まだ蕾であるにも拘わらず、深紅の花弁は眼に残
 像を押し付けるほどに鮮やかだ。
  昨日の夕方、うじうじとベッドに丸まっているマッドに、サンダウンが埋もれさせるように捧げ
 た薔薇だ。事実、ベッドの上に被せられた薔薇の花束は、マッドの腹から首までを覆い隠してしま
 った。
  噎せ返るような薔薇の香りにマッドが溺れかけていると、その耳元でサンダウンは嬉しそうに囁
 いたのだ。
  お前には赤が良く似合うな。
  そこまで思い出して、マッドは再びベッドに戻りたくなった。
  耳に吹き込まれたサンダウンの吐息の熱さまで思い出して、耳がじんわりと熱くなる。なんであ
 の男は、あんな恥ずかしい台詞を平気で言えるのだろう。
  勿論マッドだって、女に赤い薔薇を贈った事もあれば、サンダウンがマッドに言ったような台詞
 を吐いた事だってある。
  けれどもそれは女に対してであって、男に対してではない。それに女も基本は娼婦で、一夜限り
 の、所謂遊び相手だ。むろん、これは相手も承知している。だからマッドがその場で吐く言葉は嘘
 ではないが、けっして特別な思いがあって口にされているわけではない。一種の言葉遊びのような
 ものだ。
  だが、サンダウンがマッドを同じ台詞を吐いたとなればそれは全く意味が違う。サンダウンは元
 々そんなに喋るほうでもないし、必要最低限の言葉で事を済ませようとする。娼婦を買う時だって、
 甘ったるい言葉を吐くなんて事しないだろう。それが、わざわざ薔薇を買ってきて、あんな言葉ま
 で口にするなんて。
  言っておくが、薔薇の花束――まして腕に抱えきれないほどの花束なんて、決して安いものでは
 ない。
  基本的に無精な男がそんな事をしたとなれば、嫌でも期待が付いてくる。
  だが、それに溺れきるほどマッドは恋に現を抜かす性格でもない。
  そうだ、大体、赤が似合うなんて別に初めて言われた事でもない。色んな人間から、マッドは赤
 が似合うと言われてきたではないか。だから、別にサンダウンに言われた今、わざわざ頬を染める
 必要もない。
  しかし、それを昨日照れ隠しにうっかり言ってしまったら、サンダウンにお前にそんな台詞を言
 ったのは何処の誰だと詰め寄られてしまった。自分よりも先にその台詞を言って、薔薇の花束を渡
 した人間がいるのかと言って。
  薔薇の花束なんか貰った事はないとマッドが言った事で、その場は治まったが。
  尤も、その後は一晩中抱きしめられていたわけだから、別に治まってはいなかったのかもしれな
 い。
  そのまま脳味噌が沸騰してしまいそうな事を思い出して、マッド一人、身支度を整えかけた状態
 で硬直していた。
  そして、はっと我に返り、このままではいかんと首を振る。
  サンダウンと離れたら、そのままうじうじと不安な世界に突入するのは分かっている。しかし、
 このままべったりとサンダウンに抱き締められて離れない状態でいるのも、マッドの神経には良く
 ない。夜毎抱き締められて、普段のサンダウンからは想像もつかない台詞を耳元で囁かれ続けたら、
 どうにかなってしまう。
  ただえさえ、マッドはサンダウンを完全には信じ切れていない状態だ。金のかかる赤い薔薇の花
 束で身体を埋められても、それも何かの罠ではないかと疑ってしまう。疑っていないと、いざ本当
 にサンダウンがそっぽを向いた時に、耐えられない。
  このまま放っておいたら、マッド自身が引き裂かれてしまう。
  なので、マッドは一度サンダウンと少し距離を持とうと考えたのだ。サンダウンから少しでも離
 れてしまう事に、マッドが耐えられるのかどうかは別として、ひとまず一度離れてみる事が肝心だ。
 幸いにして、サンダウンの拘束は穏やかになっている。昨日、サンダウンの方から離れていった事
 を考えても、マッドが一人で出かける事を頭ごなしに否定する事はないだろう。
  そう思いつつ、もぞもぞと身支度を――時折顔を赤らめたりしているのであまり捗ってはいない
 が――整えていると、ぬっと黒い影が入ってきた。
  マッドよりも早く起きて、マッドよりも早く活動していた、件のサンダウンが何の合図もなしに
 入ってきたのだ。

 「マッド。」
 「きゃあ!」

  唐突の出現と声掛けに、マッドは悲鳴を上げる。まして、たった今までサンダウンその人の事を
 考えて赤面していたのだ。驚かないはずがない。 
  しかし、突然悲鳴を上げたマッドに、サンダウンも少し驚いたようだ。

 「………どうした?」
 「なんでもねぇよ!」

  身支度を整えている最中のみっともない姿を見られた事もあって、マッドは少々上擦った声で答
 えた。もしかしたらサンダウンにおかしいと思われるかもしれないが、しかしマッドが一人でぐる
 ぐると考えている以外は、至って正常なのでなんでもないというのは正しい。
  サンダウンも、マッドが身支度を整えている最中であるという事以外特に問題が見当たらない事
 と、やや頬が赤い事を見てとって納得したようだ。

 「また、何か考えていたのか?」
 「何も考えてねぇ!俺はただ、今から出かけるから、出かけた先でどうするか考えてただけだ!別
  にあんたの事なんか考えてねぇんだからな!」
 「そうか……。」

  とりあえず、サンダウンは納得した。誰が何と言おうと、納得して頷いている。
  しかし、マッドがその事に安心するよりも早く、サンダウンはつかつかとマッドに近づいてくる。
  マッドは何でもないと言って、サンダウンもその事に納得したはずなのに、なんで。
  近づいてくる男臭いおっさんを前に、マッドが逃げ場を探してわたわたとしているうちに、男臭
 いサンダウンはマッドの眼前まで近づくと、がしっと腰を掴んだ。腰を掴まれて引き寄せられるマ
 ッドは、先程とは違う声にならない悲鳴を上げる。
  きゃーきゃーと心の中で騒いでいるマッドを余所に、サンダウンはつと葉巻の匂いの染みついた
 顔をマッドの白い顔に寄せる。

 「いつ、帰ってくるんだ?」

    睫を食まれるようにして、囁かれた。
  その感触をくすぐったいとか思うよりも先に、マッドは近づきすぎたサンダウンの青い眼に魂を
 吸い取られてしまいそうだ。少し赤かった頬が、転がり落ちるように赤みを増していく。頭から煙
 を噴出して、血液が沸騰してしまいそうだ。

    「い、いつだって良いだろ!そんなの俺の勝手だろ!」
 
  頬を赤らめつつも何とかそう言い放つ。言い放ってほっとすると、今度はサンダウンはついて来
 ると言わないんだな、という事に思い至った。その事実はマッドを安堵させると同時に、やっぱり
 何か寂しいというか不安のようなものを引き起こさせる。
  いや、別についてきて欲しいわけじゃないんだぞ、とマッドは今の自分の心境を確かめるように
 心の中で自分に言って聞かせる。このまま流されて、またサンダウンの腕の中で一日を過ごすよう
 な事があってはならない。そんな事になってしまえば、また同じ事の繰り返しだ。
  とにかく、サンダウンから一度離れる事は大切なのだ。
  それに、もしかしたらサンダウンから離れる事で、サンダウンがマッドをからかっているだけな
 のかという事も分かろうというものだ。もしくは、マッドなど別にいなくても良いと思い出すか。
  思って、うるっとし始めた時、サンダウンがマッドの頬骨に口付た。
  一瞬、何が起きたのか分からず、気が付いてからうるっとした事も忘れて頬を更に赤くした。完
 全に茹蛸である。
  そんなマッドを無視して――それとも分かってやっているのか――サンダウンはマッドの頬骨に
 口付たまま囁く。

 「……何処に行っても良いが、あの薔薇が枯れるまでに帰ってきてくれるか?」

    一体何処でそんな台詞を覚えてきたのか。マッドだって言った事のない言葉を平気で吐いた男は、
 約束してくれ、と口付たまま。しかも顔は冗談を言っているような顔ではない――サンダウンが冗
 談を言うという事自体があり得ないが。

 「……約束してくれるな?」
 「な、なんで俺があんたとなんか。」
 「一人で約束なんてものが出来るわけがないだろう。」

  約束するには片割れが必要だとにべもなく言い放ち、約束を迫る男に、マッドがそっぽを向いて
 いると、焦れたのかマッドの腰に回していた腕を肩に回してがっちりと包み込む。

 「約束できないのなら、放す気はない。」

  抱擁の強さがサンダウンの本気度を示している。背骨が軋みそうなほど包み込まれたマッドは、
 このまま抱き締め続けられたら冗談抜きで血液が沸騰して死んでしまうと感じ、慌てて何度も頷い
 た。
  すると、あれほど強かった抱擁はあっさりと外れ、サンダウンはすっと離れてしまう。
  ただ、去り際にサンダウンはもう一度マッドの赤い頬に口付た。

 「……待っている。」

  お前が帰ってくるのを。