マッドは、サンダウンが良く分からなくなってきた。
  前から何を考えているのか良く分からなかったけれど、今はもっと良く分からない。
  マッドの事を好きだと言う男は、無理強いはしないと言いながら、愛を告白するように指輪をマ
 ッドの首に掛け、暗に性的な事を匂わすような触れ方をしたと思ったら、今度は全くそんな触れ方
 をしなくなり、代わりにマッドの胸に耳を押し当てるようにして眠るようになった。
  俺の事が抱きたいんじゃないのかと問えば頷き、けれども我慢してみせると言いのけて、実際に
 それをやって見せる。
  そんな男の様子に、マッドはぐるんぐるんと混乱している。
  混乱するマッドに対して男が投げかける言葉と言えば、大人しく自分のものになれば良いだとか
 どうしようもないものばかりで、なのにマッドがふるふると怯えているとそれ以上は強引な事はし
 ないのだ。
  そして、今日も胸にサンダウンがいる状態で眼を覚ます。
  鋭敏な男の事だ。きっと、マッドが眼を覚ます前から起きていた可能性は高い。だが、マッドが
 起きるまでサンダウンは大人しくマッドの胸に顔をひっつけている。何が楽しいのか。しかしそれ
 を問えば、明らかに赤面ものの答えが返ってくる事は分かっているので――しかもサンダウンは真
 顔でそれを言ってのけるから困る――口にしない。大体、想像の中のサンダウンの答えだけでマッ
 ドは顔を赤くしてしまうのだから、聞かないに越した事はない。
  もはや赤面する事がデフォルトとなったマッドは、マッドから少し顔を離して、マッドの顔を覗
 き込んでいるサンダウンから眼を逸らし、むくりと起き上がる。何故朝っぱらから赤面しなくては
 ならないのか、マッドには全く分からない。しかも赤面したマッドの頬を、サンダウンは平気で指
 で撫でてくる。
  マッドの心の揺らめきを更に激しくしようとするかのようなそれに、マッドはやっぱりサンダウ
 ンは自分をからかっているだけなんじゃないだろうかと思う。混乱するマッドを見て、楽しんでい
 るだけじゃないだろうか、と。
  けれども、慌ててその考えを打ち消す。聡いサンダウンは、マッドがこういう事を考えていると
 すぐに気が付いて不機嫌になる。不機嫌になったサンダウンは、マッドが震えてしまうほど怖い。

 「マッド。」

  顔を赤くしたまま俯いたマッドに、サンダウンが低く囁く。今日はどうするのだ、と。まるで、
 一緒に暮らし始めたばかりの恋人のように、今日は何をして一緒に過ごすのかと問い掛ける。
  仕事に行くと言えば、この前行ったばかりだろうと言われるだろう。街に行くと言えば、渋々な
 がらも許してくれるだろう。小屋の中で丸まっていると言えば、腕の中に閉じ込められてしまうだ
 ろう。
  どれが良いのかなんて、マッドにも分からない。
  どれを選んでも、サンダウンはマッドから離れてはくれないのだ。それが、決して本気で嫌では
 ないというのが、恐らくマッドの業だろう。

 「………本でも読む。」

  この前、買った本があるから。
  そう呟けば、サンダウンが小さく笑んだのが分かった。




  ぱらぱらとフランス語で書かれた本を捲っていく。この前交易所で買った、ヨーロッパから取り
 寄せたらしい本は、数十年前にフランスで書かれた小説らしい。ノートルダム寺院で繰り広げられ
 る愛憎劇だ。誰が悪で誰が正義とも言い切れないこの物語は、甘ったるい恋愛小説とは違って、妙
 にしっくりと胸に納まる。
  しっくりと胸に納まるのだが、逆に納まらないのは、さっきからじっとこちらを見ている男の視
 線である。
  マッドがページを捲るその一瞬一瞬でさえ逃すまいとするかのように、サンダウンはマッドを眺
 めている。何が楽しいのか、全く視線を逸らそうとしない。
  此処で、なんだよ、と口にでもしようものなら、サンダウンはまた赤面するような言葉を口にす
 るはずだから、何も言わないけれど。けれども、ずっと眺められたら、嫌でも顔は赤くなるという
 ものだ。
  マッドがそんなふうになる事くらい、サンダウンだって分かっているだろうに。
  恨めしげに思い、やっぱりサンダウンは自分をからかっているんじゃないだろうか、と思う。抱
 きたいと言いながら何もしなかったり、かと思えば隙を見ては口付けてきたり。慌てふためくマッ
 ドを見て、楽しんでいるんじゃないのか。

 「マッド。」

  不意にサンダウンの手が伸びてきて、マッドの頬をなぞる。ひえっと思うマッドを余所に、サン
 ダウンはマッドの頬をひとしきりなぞった後、本を手にしているマッドの手を引いて、自分のほう
 へ寄せようとする。

 「キッド!」

  突然の行動には全く慣れる事が出来ない。マッドが声を上げても、止めようとしない事にも。無
 理強いはしないと言いながらも、所々でサンダウンは強引なのだ。そんなに強引ならば、カッコつ
 けてないで、さっさと抱いてしまえば良いのに。そうしたら、マッドも少しは楽になる。サンダウ
 ンがマッドを抱いて、そのまま捨ててしまったなら、きっと嘆くだろうけれども、こんなふうに悩
 んだりする必要もない。そのほうが、ずっと楽じゃないか。
  今までずっと、サンダウンに嫌われて離れられてしまう事は怖いと思っていたけれども、でも、
 こんなふうに苦しく悩むくらいなら、いっそ切り裂かれてしまったほうが良いんじゃないだろうか。
 サンダウンは信じろと言うけれど、そんなのどうしたって無理だ。マッドが女だったなら、サンダ
 ウンに抱かれて残るものがあるかもしれないけれど、マッドは生憎と男で子供だのなんだの、形と
 しては絶対に残らない。心なんていう不安定極まりないものに縋れなんて言われても、出来るわけ
 がない。
  サンダウンに問答無用で引き寄せられたマッドは、サンダウンがマッドを抱き込んで、髪を緩く
 掻き混ぜられるがままになっている。マッドの髪に指を差し込んで撫でていくキッドは、なんだか
 満足そうだ。
  何が一体、満足なのか。以前口にしていた望みのように、マッドを組み敷けたわけでもないのに。
 やっぱり、赤面するマッドを見て、楽しんでいるだけじゃないのか。
  生きているだけで十分だなんて。
  マッドの胸に顔を押しつけながら囁くサンダウンの言葉を思い出し、マッドは顔を歪めた。サン
 ダウンが良く口にする赤面ものの台詞。冷静になって考えれば、そんな、聖人君子みたいな言い分、
 信じられるものか。その言葉を保証するだけの証拠なんて、何処にもない。
  サンダウンはマッドを欲しいと言うけれど。その証拠としてマッドからぺたりと引っ付いて離れ
 ないけれど、指輪を渡すけれど。それら全てが、マッドを貶める為の壮大な計画じゃないと誰が言
 い切れる。
  そんな途方もない馬鹿げた計画ではないとしても、サンダウンが勘違いをしている可能性という
 のは捨てきれないのだ。荒野を一人彷徨っているサンダウンが、偶々近くにいたマッドに人肌を求
 める事は、おかしな話ではない。
  これまでずっとしてきた疑念を辿り直し、結局少しも払拭されていない事に気付いて、マッドは
 愕然とする。きっと、永遠にこの疑念は消えない。だから、永遠にマッドはこのまま苦しんで焦が
 れるしかないのだ。その事実を、サンダウンはもしかすると嘲笑って、或いは何も思わずに見てい
 るのかもしれない。
  それが、脈々と続くなんて。

 「……放せよ。」

  ぴったりと張り付くサンダウンを、胸に手を突いて引き剥がそうとする。その声が、幾分か尖っ
 ていた事に、マッド自身も気付いた。聡いサンダウンが気付かないはずがない。
  先程まで楽しそうにマッドの髪を梳いていたサンダウンの手が、マッドの手を掴む。

 「……マッド。また、何か考えているのか。」

  お前は何も考えなくても良い。
  サンダウンはそう言うけれど、そんなわけにはいかないのだ。こんなふうに掻き回されたマッド
 にしてみれば、この先の事を考えずにいるわけにはいかない。サンダウンがどんな結末を思い描い
 ているのかは分からないけれど、マッドは出来る限り自分が苦しまないように着地する方法を考え
 るしかない。
  いっそ、早く切り裂いてしまえ。
  こんなものは求めていないと、これではない間違えたと、或いは無様な姿を見せたと嘲笑しても
 良い。何らかの形で決着を着けるべきだ。その先は、歯の根が合わぬほど恐ろしいけれども。だが、
 こんな状態よりもずっと良い。
  だから、マッドはサンダウンがずっと欲しいと言い続けてきた言葉を口にした。

 「なあ、キッド。抱いてくれよ。」