マッドは一人取り残された部屋で、もぞもぞと服を着替える。
  濡れた服はシャツの裏側まで水が染み込んでおり、サンダウンが風邪を引くと指摘したのも頷け
 る。
  でも、いきなり服を脱がそうとするなんて。
  しかもベッドに押し倒して。
  マッドは、きゃーと叫びながら頬を両手で押さえ、ぐるぐると部屋の中をうろつき回る。触れた
 頬はやたらと熱を帯びており、鏡を見なくても真っ赤になっている事は明らかだ。
  そのまま毛布に顔を押し付けてしまいたい気分になったが、流石にまだ着替えを終えていない状
 況でそんな事をして、そうこうしているうちにサンダウンが戻ってきたら説明のしようがない事に
 思い至り、マッドは衝動を抑え込んで着替えを再開する。
  が、服を脱ぎ捨てたところで、自分の胸元に首からぶら下がっている銀の指輪を見つけて、マッ
 ドは再び、きゃーと叫んだ。
  サンダウンがマッドの為に買ったものが、ずっと自分と一緒にいる。
  それを再認識させられて、マッドは恥ずかしさのあまり冗談抜きで、ごろんごろんと床の上を転
 がりたくなった。
  そんな事は実際にしたりしないが。

  というか。

  マッドは自分の胸にぶら下がる銀の輪を隠そうと、慌てて新しいシャツを羽織りながら思う。
  サンダウンは、自分の行動に恥ずかしさを覚えないのだろうか。
  指輪を、好きな人に、肌身離さず付けてもらえるように、鎖に通して首に掛けるだなんて。なん
 て気障ったらしい事をするのだ、あのおっさん。顔に似合わず、というかずっと無表情の癖に、腹
 の底ではそんな事を考えてやがったのか、恥ずかしい。マッドは、サンダウンの事を考えながら服
 を買った時も、その後は酷く恥ずかしく後悔したものだ。サンダウンは、そんな後悔も恥ずかしさ
 も、感じなかったのだろうか。
  それに、恥ずかしいと言えば、毎晩毎晩、マッドを抱き締めて寝る事だって。マッドはサンダウ
 ンの腕の中で眼を覚ます事さえ恥ずかしいのに。なのになんであのおっさんは、平気で、しかもマ
 ッドの耳朶を噛んだり、身体の線をなぞったりするんだ、できるんだ。
  なんて破廉恥な。
  きっと、あんな破廉恥だから、マッドの服をいきなり脱がそうだなんて考えるんだ。
  それとも、もしかして、欲求不満なんだろうか。
  これまでの、そして今現在の、自分達の状況を省みて、マッドは、はっとした。
  いや、別に、サンダウンがマッドの事を好きだという発言を完全に信じるわけではない。まして、
 何度かサンダウンが口にした、マッドが許せば今すぐにでも抱く、という発言を真に受けたわけで
 は、断じて、ない。
  が、しかし、もしもサンダウンが本気で本当にマッドを抱きたいとか思っていたりしちゃったら。
  マッドはサンダウンの腕の中に抱きこまれて眠る事が多い。しかし何度も言うように、サンダウ
 ンに犯された事は、一度としてない。サンダウンに限らず、他の男とだって肉体的な意味合いで、
 『寝た』事はない。
  サンダウンは、マッドに無理強いはしないと囁く。そしてその言葉通り、マッドを抱き締めて眠
 る事はあっても、それ以上先には進もうとはしない。最近では、マッドの身体を抱く指先に、微か
 に先を求める意図が込められており、それにマッドも気付いているが、けれどもマッドはそれに気
 付かない振りをして、そこから先を許そうとはしていない。そしてサンダウンもそんなマッドの意
 志を尊重し、宣言通り、無理やり先に進もうとはしてこない。
  二人は、上辺では、ただ、毛布の中で抱き合って眠るだけだ。
  だが、それは男としては非常に面白くない状況なのではないだろうか。
  もしも、サンダウンが本当にマッドを抱きたいのだとして――生憎とマッドは自分が下になるで
 あろう事は疑ってもない、生憎と――それが一歩も先に進まないと言うのは、男としては面白くな
 いのではないか。
  大体、サンダウンは最近、先を求めるような触れ方をマッドにしてくる。つまり、サンダウンは、
 くどいようだが本当にマッドを抱きたいのだとしたら、そろそろ欲求不満になってもおかしくない。
 そのへんは、同じ男なのだから、良く分かる。
  そして、欲求不満の果てに、マッドの事などもう良いと思うようになったら。
  マッドの事など諦めてしまって、他の、もっとすぐに身体を委ねてくるような女――或いは男―
 ――のもとに行ってしまったりしたら。
  別に、マッドはサンダウンの言葉を完全に信じたわけではない。まだ何処かで、マッドを傷つけ
 ようと隙を窺っているのではないかと考えている。仮に、そうでなかったとしても、本当にマッド
 を想っているのだとしても、いつかは男相手の夢など覚めて何処かに行ってしまう。
  その覚悟は、マッドの中にはいつでもある。いや、自分がちゃんと覚悟しているのだと、マッド
 は思いたい。
  けれども、今やマッドは少しサンダウンが離れただけでも、不安に思う。さっきだって、サンダ
 ウンが部屋から出ていく事に、途方もない不安を感じた。あのまま何処かに行ってしまうんじゃな
 いかと。
  一緒にいたら息が詰まるようで、触れられたら心臓は痛くなって、顔は真っ赤になるのに。離れ
 た途端、寂しくなるなんて。
  きっと、このままサンダウンに離れられる事に、マッドは耐えられない。少しでも、サンダウン
 が離れるその瞬間を、なんとかして先延ばしにしたい。サンダウンが身体を許さないマッドに飽き
 てしまうと言うのなら、いっそ。
  そこまで考えて、マッドは自分の想像にぎょっとする。

  一体、俺は今、何を考えた。
  なんだか物凄く恥ずかしい、というか破廉恥極まりない事を考えようとしなかったか。

  マッドが自分の考えに悶絶して顔を赤らめるのと、部屋の扉がノックされ低い声が呟かれたのは
 同時だった。

 「……マッド。」
 「きゃああっ!」
 「どうした!」

  突然聞こえたサンダウンの声に、マッドは先程までの想像も相まって、悲鳴を上げる。その声に
 サンダウンが焦ったように部屋に踏み込んできた。
  部屋に飛び込んできた男から真っ赤な顔を隠そうと、マッドは慌てて背を向け、ジャケットをも
 そもそと羽織る。

 「な、なんでもねぇよ。てめぇが急に声を掛けるから、ちょっと驚いただけだ。」
 「……そうか。」

  マッドの姿に特に異常がない事を見て、サンダウンも安堵したように頷く。そして、そのままマ
 ッドのもとに近付いてくるのかと思いきや、何か戸惑ったようにその場から動こうとしない。
  どうかしたのか。
  マッドが怪訝に思い、赤い顔を少しだけ動かして肩越しに眼だけでサンダウンの様子を窺うと、
 サンダウンはようやく、のそのそとマッドに近付いてきた。が、腕を伸ばそうとしてマッドに触れ
 る直前でその手を止める。

 「………マッド。」

  低い声は、何か酷い悔恨に満ちていた。

 「触れても良いのか?」
 「な、なんだよ、急に。」

  今まで散々好き勝手に触っていた癖に。

 「嫌がっただろう、さっき。」

  サンダウンは、ぽそり、と言う。
  さっき、サンダウンがマッドの服を脱がそうとした時の事を言っているのだ。確かに、マッドは
 嫌がった。なんだか、今から強姦される処女みたいな感じで、凄く抵抗した。
  それは思い返せば、そして普通に考えればおかしな話だ。
  サンダウンは風邪を引くからという事で服を脱がせようとしたのであって、特に性的な意味合い
 はない。それにそもそも男同士なのだから、肌を見せる事に特に戸惑いはないはずだ。従って、あ
 の場においては、全面的にマッドが悪い。サンダウンは謝る事は、一滴もない。
  が、サンダウンは自分がマッドを傷つけたと思い、落ち込んでいる。これも、何かの冗談なのだ
 ろうか。

 「マッド、もしもお前が本気で私に触れられる事を嫌がれば、私は今後お前に一切手を触れない。」

  お前を傷つけるくらいなら、と男は言う。
  あんまりにも自分を大切に扱うサンダウンに、マッドは酷くうろたえた。そして、自分が何か言
 わねば、サンダウンは本気でマッドに触れなくなる事も分かった。先程までの想像も相まって、マ
 ッドはそれを阻止すべく、必死に言葉を探す。

 「べ、別に、気にしちゃいねぇよ。ただ、急にあんな事するから、咄嗟に……。」

  いきなり脱がせられようとしたら誰だって驚くだろう、そうだろう、そういう事にしておこう。

 「だから、別に、あんたが嫌だとか、そういうわけじゃ……。」
 「ならば、触れても良いのか?」
 「す、好きにしろよ。」

  自分でも、色気のない言葉だとは思う。だが、他になんと口にすれば良いのか。よもや、あんた
 に触れて欲しいのだなんていう、はしたない事は言えない。
  だが、マッドのそんな思惑とは裏腹に、サンダウンはマッドの言葉を了承と受け取るや、すぐに
 マッドの身体を抱き締めてきた。しかも、米神や頬や鼻梁に口付けを落としてくる。そして最後に
 マッドの唇を塞ぐと、そのまま舌を絡めてきた。 
  息苦しさに身を捩るマッドの、その動きに伴ってサンダウンの手もねっとりと動き回る。それは
 明らかに、マッドの肌を直に弄りたいという欲求を孕んでいる。

  ど、どうしたら。

     いつもなら、このまま知らない振りを通すのだが、もしも、それでサンダウンが嫌になってしま
 ったら。これが、サンダウンにとっては最後の願いであって、これが通らなければ諦めて止めてし
 まうという事だったなら。そのまま何処かに行ってしまったら。
  そんなの、嫌だ。
  でも、どうしたら良いのかが分からない。
  しかも、口を塞がれているマッドは酸欠を起こし掛けており、思考回路もままならない。ようや
 く解放された時には、くたりとしてしまい、サンダウンに抱き起こされて、そのままサンダウンの
 脚の間に座らされてしまっていた。背後から、サンダウンが抱きついてくる。
  マッドを捕まえたサンダウンは、それ以上欲の伴った触れ方はせず、代わりにマッドの黒い髪を
 優しく撫でる。

 「……今日は、此処に泊まるか?」

  真っ赤な顔をしたマッド――これは酸欠の所為だ、半分以上は――は、ただこっくりと頷くしか
 なかった。