マッドは、安宿の一室に籠って、一人で呻いていた。
  ベッドの上には、結局渡せぬままの茶色のジャケットが放り出されている。だが、今はそれにつ
 いてはどうでも良い。
  そんな事よりも。
  マッドは、部屋に掛かっている安そうな鏡の中にいる自分を見て、呆然とする。
  そこに映っているのは、耳まで真っ赤になっている自分の顔だ。  
  これまでも――サンダウンに惹かれるようになってから、こうして顔が真っ赤に染まる事は多々
 あった。ふとした弾みにあの青い眼差しなどを思い出してしまって、一人悶絶して真っ赤になる事
 は数え切れない。
  でも。

  なんで三日経っても治らないんだよ。

  三日前、サンダウンに頭を撫でられた時に、自分でも分かるくらいに顔に熱が籠った。幸いにし
 て夜の闇と焚き火の赤で、顔の変化はサンダウンには気付かれなかったが、けれどその後一向に熱
 が引く気配がない。
  次の日、真っ赤な顔をしたままのマッドを見て、サンダウンが熱でもあるんじゃないかと眉を顰
 めるのを、何でもないと振り切って、こうしてこの宿屋に籠っている。
  そして、いつもなら遅くとも半日ほどで戻るはずの顔色は、まだ真っ赤なままで普段の顔色に戻
 る気配は微塵も見られない。顔から感じる熱も、どれだけ顔を冷や水で洗っても抜け落ちない。

 「なんでだよ………。」

  途方に暮れた声で、マッドは鏡の中の情けない自分の顔に向けて呟く。
  単に、頭を撫でて貰っただけなのに、なんで。
  あのかさついた大きな手が、ゆっくりと後頭部を撫でた。髪の毛を掻き混ぜるように、指が差し
 込まれて梳くように動いた。よくよく考えて見れば、サンダウンが自分に触れた事など、それが初
 めてで。
  その事に気付いた瞬間、全身から熱が立ち昇った。湯気が出なかったのが不思議なくらいだ。そ
 もそも、サンダウンには嫌われていると思っていた矢先に、まるで子供にするように優しく頭を撫
 でられたから。少なくとも、侮蔑されたりしているわけではないのだという安堵が心を満たして無
 防備になっていた。
  サンダウンに嫌われているわけではないのだという喜びと、触れられているという事に対する恥
 ずかしさが綯い交ぜになって、無防備になっているところに直撃し、それらは三日経った今でもマ
 ッドの中を侵食している。
  その結果、マッドの頬は未だに熱を帯びて赤いままだ。

  でも、とマッドは赤くなった頬を抑えながら、ちらりと視線を動かす。
  目線の先には、どう始末を付けたら良いのか分からない茶色のジャケットが一着。ベッドの上に
 広げられたそれは、何度見てもマッドには大きすぎる。マッドよりも一回り大きいサイズのそれは、
 どう考えてもサンダウンにぴったりのサイズだ。
  しかし、いくらサンダウンに嫌われていないとは言え、こんなものを何の脈絡もなく渡すわけに
 もいかない。
  それにサンダウンは、これを誰か――男へのプレゼントであると気付いているのだ。そんなもの
 を渡したら、いくらサンダウンが鈍くても何の事だか分かるだろう。
  確かにサンダウンは、男同士だとかそういった事に偏見はないと言った。そしてマッドに対する
 眼差しも変えなかった。だがそれは、マッドが想いを寄せている男の事を、自分の事だとは微塵も
 思っていないからだ。自分がそういう対象で見られているとなれば、また話は別になってくる。
  マッドは赤い顔のままで表情を歪めた。
  自分の想いをサンダウンに気付かれなかったのは幸いだ。けれども男を想っていると知られ、し
 かもジャケットをプレゼントしようと考えていると思われてしまった以上、もう、このジャケット
 はどうしたって手渡せない。

 「捨てるしか、ねぇのかなぁ………。」

  一人呟くマッドは、のそのそとベッドに近づき、放り出しているジャケットを拾い上げる。
  微かに赤味がかったチョコレートよりも深い茶色は、バーガンディ―とも見紛う色だ。上等のワ
 インの名に近い色をしたジャケットは、その色に相応しく手触りも柔らかい。安物のジャケットは
 身体に馴染むまで何度も袖を通す必要があるが、これはそんな事しなくても、一度袖を通しただけ
 で、まるでその身体の為にだけ作られたように馴染むだろう。
  捨てるには、あまりにも勿体ないくらい、高価なジャケット。
  しかしマッドがそれを捨てるのを躊躇うのは、値段がどうとかいう理由からではない。
  こんな高価なジャケット、その辺に沢山転がっているわけではないのだ。もしも捨て去ったジャ
 ケットが、何らかの場面でサンダウンの眼に飛び込んできたなら、それを捨てたのはマッドだとい
 う事に気付くだろう。その時、サンダウンは何と思うだろうか。少なくとも、誰かに手渡すはずだ
 と知っている以上、不審には思うだろう。そしてそれについて問われたなら、マッドは誤魔化し切
 る事が出来るだろうか。あの青い眼で、真実を放せと詰問されたなら、きっと心が挫けてしまう。
  それに、とマッドはジャケットを抱き締める。
  せっかく、買ったのに、と思うのだ。せっかく、サンダウンの事を想って買ったのに、そんな簡
 単に捨ててしまって良いのか、と。
  確かに、もはやどう考えても渡せない代物だ。渡した瞬間、サンダウンが困るであろう事は眼に
 見えている。そしてそうなったら、普通の、賞金首と賞金稼ぎの間柄には戻れない。
  だが、それでも、このジャケットはサンダウンの事だけを考えて、真剣に選んで買ったものだ。
 例え渡せないにしても、簡単に捨てる事は自分の想いが全て無意味なものだと断じてしまうような
 気がする。
  確かに、どうしようもなく不毛な想いである事はマッドも理解している――でなければ、こんな
 に何度も溜め息を吐いたりしない。だが、それを丸ごと無意味だと言いきってしまうには、まだ諦
 めが足りない。

 「………は、女々しいにも、程がある。」

  こうした独り言も、溜め息の数も、ぐだぐだと思い悩む事も、何もかもが女々しくて、自嘲する
 しかない。なのに、止められないのは。

 「………憧れ、で、終わってりゃ、良かったのに。」

  歪んでしまう、その前に。けれども、それはもう叶わない。
  赤くなった頬も、痛いくらいに脈打つ心臓も、あの男が存在する以上止まらない。必死になって
 距離を取っても、ふとした拍子に思い出しては悶え苦しんで、挙句の果てに渡せもしないジャケッ
 トを買う始末だ。しかも渡せない癖に捨てたくないと思っている。
  腕の中のジャケットも、心臓の裏側に醜くへばりついている、想いも。

 「なんで、捨てられねぇんだよ………。」
 「捨てるのか?」

  何の警告もなしに、唐突に耳に入ってきた低音に、マッドは本気で心臓が止まるかと思った。い
 や、止まらなかったにしても、比喩表現なしに心臓ははっきりと痛みを覚えて跳ね上がる。
  自分の世界に入り込み過ぎて散漫になっていいた注意力は、本来ならば誰よりも真っ先に気付く
 はずの気配に気づかなかった。最近、そういう事が多い。そしてそれはいつだって、その気配の持
 ち主の所為なのだ。

 「な、なな、なんでてめぇがそこにいるんだよ!」

  マッドが立て籠っている部屋に許可なく入り込み、マッドの背後に立っている件の気配の持ち主
 に、マッドは思わず振り返って怒鳴る。
  賞金稼ぎにとって、背後を取られる事は命取りである。まして、背後を取った相手が相手だ。こ
 れが決闘ならば、マッドの心臓は撃ち抜かれて鮮血を撒き散らしている。

  ――別の意味ではもう撃ち抜かれているんだけどな。

  自嘲気味にアホな事を考えていると、眼の前にいる男の顔が顰められた。青い眼差しが少しきつ
 くなり、扉の前で止まっていた足音が近づいてくる。無遠慮に籠城を壊すサンダウンに、マッドは
 眼を瞠った。

  ――な、んで、近付いてくるんだよ!

  ずかずかとベッドの上に座り込んでいるマッドの眼の前まで歩み寄ってくる男の影が、マッドの
 頭上に降りかかる。そして、サンダウンのかさついた手がマッドに向けて伸ばされた。

  ひえぇえええええっ!?

  すっぽりとサンダウンの手がマッドの頬を包み込む。
  包み込まれたマッドは、さっきまでも十分に身体に熱を持っていたのに、更に体温が上昇したよ
 うな気分になった。顔からは、火を吹くなんてものではない。もはやそのまま膨れ上がって破裂し
 てしまいそうだ。

 「…………熱が、あるんじゃないのか?」

  茹でダコ状態のマッドを見下ろして、サンダウンが呟く。その言葉の意味をなんとか理解して、
 マッドは怒鳴るように返す。

 「ねぇよ!俺は至って元気だ!」
 「だが、顔が、赤い………。」

  覗き込んでくる青い瞳。あまりにも間近にあるそれに、マッドは危うく再びサンダウンの前で失
 神するところだった。それを必死に耐えて、マッドは我を保つ為に、声を張り上げる。

 「てめぇには関係ねぇだろ!大体、そんな事言う為に勝手に部屋に入ってきたのかよ!」

  まさか、心配したのか、この男が。
  思い至った幸福そのものの考えを打ち払い、マッドは今にも潤みそうな視線に力を込めてサンダ
 ウンを睨み上げる。
  すると、サンダウンの視線がようやくマッドから外れた。代わりにサンダウンが見るのは、マッ
 ドが抱き締めているジャケットだ。

 「それで、捨てるのか?」
 「うるせぇな、そんなの俺の勝手だろ!」
 「誰かに贈る、と言っていなかったか?」
 「放っとけよ!」

  ぐりぐりと痛い部分ばかりをしつこく問うてくる男に、マッドは顔を背けてジャケットを抱き締
 める腕に力を込める。
  もう、放っておいてほしい。
  マッドに気紛れに触れるくらいなら、最初から何もしてほしくない。どうせマッドに触れるのは
 珍しいからとかそんな理由で、そこにマッドが凭れかかろうものなら逃げてしまう癖に。このジャ
 ケットに眼を向けているのだって、それの所為で思い悩むマッドが珍しいからだ。

 「俺のもんを俺がどうしようと俺の勝手だろ………。どうせ、渡さねぇし。」

  小さく呟けば、サンダウンが驚いたように眼を見開いた。

 「………何故?」
 「うるせぇなぁ、渡さねぇったら渡さねぇんだよ!どうせ、受け取って貰えねぇんだから。」
 「……………。」

  言葉に詰まったらしいサンダウンの沈黙が、悲しい。きっと男が男に想いを告げる事の難しさに、
 簡単に『そんな事はない』と言えないのだろう。いや、無責任に『大丈夫だ』と言われるよりもマ
 シか。
  ジャケットに顔を埋めるように俯いて、マッドはサンダウンが何処かに行くのを待つ。
  だが、サンダウンはマッドを見下ろして動こうとしない。

 「………本当に、渡さないのか」
 「渡さねぇ………。」
 「………捨てるのか?」
 「……………ああ。」

  頷いてしまった。
  捨てられそうにないと思っていたけれども、サンダウンの問い掛けに頷いてしまった。けれど、
 それで良かったのかもしれない。ぐだぐだと渡せもしないものを抱きかかえていても、仕方ない。
 それならば、さっさと捨ててしまうべきだ。
  それに、サンダウンもマッドがこれを捨てる事を分かっているし。
  安心したような、けれども胸の奥がひりつくような気分になって、マッドは溜め息を吐いた。ほ
 っと息を吐けば、胸の痛みは治まらなかったけれど、少し息が楽になったような気がした。肩の力
 を抜いて、茶色のジャケットを見下ろす。柔らかな触感は、やはり変わらず指の中を通り過ぎる。
  と、急にそれが腕の中からするりと飛び立った。

 「っ……おい!なんだよ!」

  腕の中からすり抜けたジャケットは、サンダウンの手に掴まれている。呆気にとられていると、
 サンダウンの眼がちらりとマッドを見た。

 「………捨てるんだろう?」
 「そ、そうだけど。」

  うろたえる自分の顔が、サンダウンの眼に情けないくらいはっきりと映っている。一体、サンダ
 ウンがそれに対してどんな仕打ちをするのか、捨て去ろうとしてもそれでも想いの強く残るそれに、
 マッドは身を震わせる。

 「いらないなら、寄こせ。」
 「は?」

  次いで出てきたサンダウンの台詞に、マッドは眼を丸くした。

 「いらないんだろう?」
 「い、いらねぇけど。」
 「それなら、問題ないだろう。」
 「問題ないって………あんた、それ、一体どうするつもり……。」

  口籠りながら、それでも恐る恐る問えば、サンダウンはさも当然のように言った。

 「どうせ捨てるのなら、私が貰う、と言っているだけだ。」
 「へ?」

  マッドが間抜けな声を出している間にも、サンダウンはさっさとジャケットを畳み直して、小脇
 に抱えている。

 「そ、それ……あんたが使うのか?」
 「そうだが?」

  何か問題でも?
  そう問うてくる賞金首に、マッドは呆然とした状態ままで、いいやと首を振る。
  問題は、全く、ない。
  そう呟けば、サンダウンの手はもう一度マッドの頬を撫でて、ひらりとポンチョの裾が翻る。そ
 して、未だに何が起こったのか分からないマッドを置き去りにして、5000ドルの賞金首はジャケッ
 トを奪い、マッドに背を向けた。 




  腕の中には、マッドが誰かに贈るはずだったジャケットがある。
  柔らかな肌触りのそれは、まるで今のマッドの心の内側のようだ。渡せないと俯いて震えていた
 青年の中は、きっと触れれば裂けてしまうほど脆いに違いない。
  思わず抱き締めて、お前に愛されて喜ばない人間はいないのだ、と言ってやりたくなるほどに、
 今のマッドは庇護欲をそそる。
  だがそれをしなかったのは、サンダウンのエゴだ。
  マッドよりも一回り大きいジャケットを眺めながら、これを贈られる相手は一体誰なのかと思う。
 マッドにあれほど一心に想われている相手。渡せないと臆病になるほど、想われて、大切にされて
 いるのは。
  考えれば、腸が煮えくり返りそうだった。
  マッドには幸せになって欲しい。だが、現実にマッドが誰かを想っているのを見るのは、流石に
 堪えた。腹の底から、どす黒い溶岩が噴き上げるのではないかと思うほどに。
  だから、渡せないと呟くマッドに、安心させるための一言を言わなかった。
  もしもサンダウンが『大丈夫だ』と口にした事で、マッドが羽ばたいてしまったら。いつかはそ
 の時が訪れる事は覚悟しているが、それが自分の所為で早めるような事だけは、したくなかった。
 それ故に口を閉ざし、本当ならば誰かに与えれて受け止められるはずだったジャケットを、奪い去
 った。
  きっと、しばらくは、まだ、マッドは想いを口にはしないだろう。あれほどの怯えを乗り越える
 には、まだ時間が掛かるはずだ。そしてサンダウンは、その時間を出来る限り長く引き延ばす。マ
 ッドの不安をより深く大きく育て上げ、怯えさせる。
  マッドに苦しみを与える事は分かっているが、その苦しみによって、マッドがサンダウンの腕の
 中に転がり落ちてきたのなら。
  有り得ない妄想をして、サンダウンは苦く笑った。