「マッド、怪我は?」

  二人で小屋に戻った後、サンダウンはまず最初にそう問うた。
  ぽたぽたとあちこちから雨粒を滴らせるのも構わず、マッドの身体を今にも服を剥ぎ取りそうな
 表情で、マッドの身体の何処かに見知らぬ痕がないかと問い掛ける。

 「んな事より、さっさと着替えて来いよ。」

  雨に振り込められたサンダウンは、早く乾かさないと帽子もポンチョもそのまま襤褸屑になって
 しまいそうな風体をしている。それに滴り続ける滴も、床に広い染みを作って何処かに流れ出して
 しまいそうだ。
  しかしサンダウンは、マッドのその答えが気に入らなかったのか、顔を少し顰めるとじりじりと
 近寄ってくる。

 「……何処か、怪我でもしたのか。」

  勝手に離れた癖に、やはり離れた間の事が気になるらしい男は、追及の手を緩めるつもりは微塵
 もないようだ。にじり寄るサンダウンに、マッドは耐えかねて怒鳴るように叫ぶ。

 「怪我なんかしてねぇ!本当に何にもねぇよ!だからあんたはさっさと着替えろ!」

  怒鳴って、サンダウンから距離を取ると、サンダウンも納得したのか、それともこれ以上マッド
 を濡らしたくないと思ったのか、素直に引き下がった。そして、ずぶ濡れの帽子とポンチョを脱ぎ
 去ると、乾くように広げて干す。そうしている間にも、ポンチョの中にも浸透していた雨粒がシャ
 ツを濡らして、サンダウンの身体のあちこちにへばりついている。それによってサンダウンの筋肉
 の付き方が分かってしまい、明らかに自分よりもがっしりとした身体をしている事を、今更ながら
 見せつけられて、マッドは少し頬を赤らめた。

  自分は、いつも、あの身体に抱き締められていたのか。

  思った瞬間、マッドの頭からぼんっと音が出そうなくらい、マッドは真っ赤になった。その顔を
 隠そうとマッドが俯いていると、その間にサンダウンはさっさとシャツも脱ぎ捨てて着替え始める。
 その間中、マッドは俯いて顔を上げない。だから、サンダウンの身体を見る事はなかった。

  やがて着替え終わったサンダウンは、これでマッドを濡らす事はないと考えたのか、再びマッド
 に近付いてくる。
  聞こえなくなった衣擦れの音と、のそのそと近付くサンダウンの気配に、マッドはようやく顔を
 上げた。

  が。

  顔を上げた先に見つけたサンダウンの姿に、眼を丸くして、次の瞬間、茹でダコも真っ青なくら
 い全身を真っ赤にして、再び勢い良く顔を俯けた。

  ――な、なんで………。

  今、マッドににじり寄ろうとしているサンダウンは、ずっと前に、マッドがサンダウンを想いな
 がら買った、あの濃い茶色のジャケットを着ているのだ。それは、多分着る物がなかったとか、そ
 んな理由で着ているのだろうけれど。  
  自分の見立てが悪くない事は知っている。だから、それを着てサンダウンにぴったり似合うであ
 ろう事は知っていた。けれど、それを間近で初めて見せつけられたマッドには、堪ったものではな
 い。まして、マッドは延々とサンダウンの事を想っているのに。

 「マッド……。」

  極めつけに、低く焦がれたような声で囁かれる。色々と耐え切れずに、身を捩って逃げようとし
 たら、後ろから抱き締められた。しかも項に口付けされる。

 「な、何すんだ!」
 「……これは、お前が私の為に買ったものだろう?」
 「そ、そうじゃねぇ!いや、それもあるけど!」

  なんでその服を今この時に着るのかとか、項に口付けなんかするな、とか、色んな言葉が頭の中
 をぐるんぐるんと回る。が、それを口にするよりも先に、いつもは寡黙な男が口を開いた。

 「マッド……私の行動は、お前のしてきた行動に比べれば信頼するに値しないかもしれない。が、
  お前に信頼される為ならば、私は同じ事を何度でも繰り返す。」

  雨の中であろうと雪の中であろうと、例え戦火が降りかかっても、きっとマッドを待ち続ける。

 「そ、そんな事、しなくても良いんだよ!」

  そんな事をし続けて、それで実はマッドは本当はいらない物だった、となった時、サンダウンの
 中に残るマッドは、一体どんな形になってしまうだろう。
  そう叫ぶマッドに、サンダウンは腕の力を緩めずに、苦く囁く。

 「お前はいつもそうだな……。」

  大きなかさついた手でマッドの身体の線を確かめるように撫で、マッドの項に顔を埋める。その
 仕草は恋人に甘えるように優しいが、しかし声は苦渋に満ちていた。

 「お前は何もいらない、と言うばかりだ……。私には何も求めない。まるで、私だけが、お前を欲
  しがって食いつくしているようだ……。」
 「何言って……。」
 「求めろ、私を。」

    抱き締める腕が、強くなった。その力強さに、身体が弛緩してしまいそうなくらい安堵する。そ
 んな事を思った自分に、マッドはうろたえる。
  マッドの戸惑いを――もはや、苦痛になり掛けている矛盾と葛藤を――見抜いたのか、サンダウ
 ンは更に耳元で言い募る。

 「マッド、私がお前に与えるのは苦痛だけか……?」

     耳元を辿るように、サンダウンの唇が這う。それに身体をびくつかせても、マッドはサンダウン
 の腕からは逃れられない。いや、逃れられないのではなく、逃れないのだ。これはほとんどが、マ
 ッドの意志だ。

 「欲しいのは、私だけ、か?お前は?辛い、だけ、か?」
 「……っ、分かんねぇ、よ、そんな事は!」

  マッドにも、もはやこれをどうすれば良いのか分からない。マッドは、何事もなかったように、
 消滅するのを待っていた。けれどもそれはサンダウンに悉く潰されて、それどころかサンダウンの
 腕の中で安堵して、眼を閉じている。
  これは、もう、マッドの手に負える代物ではない。

 「マッド、それなら、もう良いだろう?もう、私を、欲しがれ。」

  マッドの肩を後ろから抱き締め、男が低く囁く。

 「お前はもう十分に私に与えてきた。一人で彷徨う私に、色々と。」
 「……そのジャケットは、別に、お前の為なんかじゃ……。」

  もごもごと呟くマッドに、サンダウンは小さく笑った。

 「ジャケットだけではない……。信頼も、熱も、光も。空洞だった私に、もう一度それを注ぎ込ん
  だのは、お前だ。お前は十分過ぎるほど、欲しがってばかりの私に、与え続けてきた。だから、
  私にも、与えさせてくれ。」

  そう言って、サンダウンの手がゆっくりと離れ、マッドの首の後ろで何かが嵌めこまれる。同時
 にマッドの首回りに、何かが当たった。サンダウンの手の熱を吸いこんだそれを、マッドが恐る恐
 る見下ろすうちに、離れていたサンダウンの手はマッドの腰に回って、そっとその上で組まれる。

 「な、に、考えてんだ、てめぇ……。」

  首に垂らされたそれを指で摘まみ上げ、マッドは震える声で尋ねた。首から垂れ下がった銀の鎖
 の先には、艶やかに研磨された小さな輪がある。

 「言っているだろう……お前に、与えたい、と。お前からは、理由はどうあれ、この服を貰った。
  だから、私も、何か、残るようなものを与えたかった。」
 「だ、から、って……。」

  指にそのまま嵌めこまれてしまいそうな大きさの輪に、マッドは耳まで熱くなる。サンダウンが
 一人で何処かに行っていた理由は、まさかこれを買う為だとでも言うのか。きっと言うだろう。

 「私を、求めてくれ……。」

  包み込むように呟いて、サンダウンは手を再びマッドの身体に這わせた。ゆっくりと腰から胸へ
 と移動し、武骨な指がマッドの顎を捉える。間近に迫った青い眼に、マッドは口付けされる、と思
 った。
  だが、間近に迫ったまま、サンダウンは動かない。マッドがどれだけ待っていても、サンダウン
 はそれ以上近付いて来ない。代わりに、呼気と混ざってしまいそうな声で囁いた。

 「………マッド、口付けたい。」

  これまで、ほとんど勝手に奪ってきた口付けについての、はっきりとした要望だった。改めて成
 された要望に、マッドは眼を見開く。

 「………良いのか?」

  そんな事言われても。

  今まで勝手にしてきた事に、許可を改めて求められても。いや、そもそも許可してしまえば、そ
 れはマッドがサンダウンを受け入れた事になってしまう。
  その事に気付いたマッドは、うろたえて視線を彷徨わせようとするが、それはサンダウンに阻ま
 れる。

 「マッド、良いのか?それとも、駄目か……?」

  問いは、請いの様相をしていた。焦がれ切った声は、マッドからの言葉を待っている。けれども
 それ以上マッドに触れようとしない。それどころか、マッドが嫌だと言えば離れていってしまうだ
 ろう。
  与えたいのだ、と言った男は、同時に、マッドを全部奪っていくつもりだ。

 「マッド、欲しい……だから、お前も。」

    欲しがってくれ。

  熱を帯びて、そのまま赤く染まってしまいそうな声に、マッドは耐えかねて眼を閉じる。それは、
 多分、口付けを誘っているようにも見えただろう。
  けれども、サンダウンは許してくれなかった。

 「良いのか……マッド……。」

  声は、ともすれば、悲壮だった。その声に、そんな声をさせたいわけじゃない、と思う。そんな
 声をするように、追い詰めたいわけじゃない、と。悲痛なサンダウンの気配は、マッドの心は耐え
 られなかった。

 「ず、ずりぃぞ……!」

  耐え切れず叫ぶと、サンダウンが眼を見開いた。その眼を見ないようにぎゅっと硬く眼を閉じて、
 マッドは吐き捨てる。

 「そんなカッコで、そんな事言われて、俺が嫌だって言えると思ってんのかよ!」

  卑怯だ。確信犯だ。マッドの心を知っているが故に、サンダウンはそんな事をするのだ。相手の
 心の内を知っているからこそ、そんな事が出来るのだ。
  きりきりと奥歯を噛み締めてそう言うマッドに、サンダウンは少し顔を離して、告げる。

 「……私だって、お前の心を知っているわけではない。今も、お前は私が与えようとすれば逃げて
  ばかりで、本当に私の事を想っているのか、疑いたくなる。だが、お前が嘘を吐かないと信じて
  いる。だから、お前の言葉は無条件で信じる。それだけだ。」

  言いながら、マッドの頬を両手で包み込むサンダウンは、途方に暮れているようだった。

 「そして私は、お前に信じてもらえるように、お前の言葉を信じた。きっとこれからもずっとそう
  するだろう。お前が私を信じるまで、そして信じた後も。お前が私に信頼するに値する姿を見せ
  たように。」

  例え、世界が滅んでも。

    「なんでだよ……?なんでそこまでする必要があるんだよ。」
 「お前に、与えたいからだ。お前が私の与えたものを信じて、安心して、受け取る事が出来るよう
  に。」

  口付け一つでさえ、もう、勝手に奪う事はできない。それに、とサンダウンは微かな笑みを孕ん
 で、マッドに囁いた。

 「私はお前がどんな格好をしていようと、何を言っていようと、お前が欲しいし、お前の為になら
  どんな事でもしてやりたくなる……。そういう意味なら、お前のほうが卑怯だ。」
 「んなっ!」
 
  口をぱくぱくさせるマッドに、サンダウンは一つ笑みを零し、そしてもう一度希った。

    「マッド……お前に、口付けさせてくれ。お前も、それを願っているのなら。」

  与えさせてくれ。

     反則的なほど熱っぽい、しかも悲痛な声で囁かれた。逃げ場を失ったマッドは、後退る事も視線
 を彷徨わせる事も出来ない。
  出来る事と言えば、ぎゅっと眼を閉じて、耳まで赤くなって。
  そして、しばらく耳元で、与えたいのだ、と囁き続けられるサンダウンの言葉を聞いて。
  耐えかねて、最終的に微かに頷く事だけだった。
  
  その瞬間に広がったのは、喜色だった。同時に、今までのどれよりも激しい口付けが降ってくる。
 マッドが抱き止めきれないそれは、マッドを床に押し倒し、それでも止まらない。何度も角度を変
 えて、より深い口付けを求める男は、マッドの腰を引き寄せて拘束する。

  そのまま、夜の帳を引き下ろしてしまうような口付け。

 「っ、キッド……。」
 「……マッド。」

  口付けの間に名前を呼び合っているうちに、そこに熱が籠る事に気付く。それを押しとどめよう
 とするマッドを咎めるように、サンダウンは口付けを再開する。

 「マッド、私の、ものだ………。」

  口付けを解いて、ぐったりとしたマッドの手を引き寄せ、サンダウンはそこにも口付けを落とす。
 恭しく、手の甲に。  
  そうして、言い聞かせるように優しく囁いた。

 「私も、お前の、ものだ………。」

  誰にも渡さないし、誰にも与えない。

    言って、もう一度深く口付けた。