「マッド……一人でも、大丈夫か?」

  その日の朝、サンダウンから問われた言葉は、まるで初めて一人でお使いに行く子供を気遣うよ
 うな台詞だった。
  これからマッドはお使いに行くのではなく、賞金首を撃ち取りに行くので、確かにそう考えてみ
 れば、サンダウンの心配するような言葉は当然と言えば当然だ。しかし、賞金稼ぎとして名を馳せ
 てきたマッドに対してその質問、及び不安は不要のものであり、下手をすればマッドの機嫌を損ね
 かねない。
  だが、サンダウンの気遣わしげな台詞に怒るよりも先に、マッドは不覚にも動揺してしまった。

  なにせ、サンダウンはこれまで――マッドが図らずとも想いを告げてしまってからは、ずっとマ
 ッドの傍にいる。マッドに影のように寄り添って、賞金首を撃ち取る時でさえ、遠く離れた場所か
 らマッドの動向を逐一眺めているのだ。そして、マッドが一人で何処かに行こうとすると、強引に
 引き止める。
  だから、ここ最近のマッドは、サンダウンと一緒にいる所為で気が休まらない。
  けれども、ずっとサンダウンと一緒にいる所為で、いない事が不安になりつつもある。マッドが
 どれだけ否定しても、マッドが振り返った時にサンダウンがいるのを認めて安堵するのは、紛れも
 ない事実だ。
  そして同時に、そんなどうしようもない自分の状態について、本気で一人で考えたいのも、また
 正直な気持ちだった。

  そんな折に、突然、サンダウンから一人で行きたい場所があると告げられた。何処に行きたいの
 かはサンダウンは口にしなかったし、マッドも問わなかった。
  本音を言ってしまえば、サンダウンが一人で――マッドを置き去りにして――行きたい場所につ
 いて、問い質してやりたい。しかしそれをすれば、マッドがサンダウンの発言に動揺している事は、
 サンダウンの元に明らかにされてしまう。
  だから、マッドはその問い掛けを喉の奥と頭の裏側だけで何度も繰り返すに止め、わざとぶっき
 らぼうな声を出した。

 「はっ、俺様を誰だと思ってやがるんだ。賞金稼ぎのマッド・ドッグ様だせ?そのへんのチンケな
  賞金首なんかにやられるかよ。」

  そう告げれば、普段なら『しかし二回ほど男に襲われている。危険だ。』と真顔で返されるのだ
 が、今回は非常に心配そうな眼差しをしつつも、サンダウンは頷いた。

 「……そうだな。この程度の賞金首なら、お前なら問題ない。そうだな。」

  繰り返し、何度も問題ないと言っているところを見ると、自分に言い聞かせているようにも見え
 なくもないが。しかしこれまで、マッドが一人になる事を頑として許さなかった男が、初めてマッ
 ドに一人になる時間を――風呂とトイレ以外で――与えようとしているのだ。
  けれど、マッドはそれを素直に喜べない。確かにサンダウンから距離を持って、一人でゆっくり
 と考え事をしたいのは事実だが、何の予兆もなくいきなりそれを与えられると、むしろ逆に不安だ。
 まして、サンダウンが行き先を告げないのも不安を増長させる。
  だが、今ここで、不安だ、などと言えるはずもない。
  代わりに口を突いて出てくるのは、自分でも分かるほど可愛げのない言葉だ。

 「やっと一人になれるんだ。せいせいするぜ。てめぇの所為で、やりたい事も出来なかったしな。」

  別に可愛くなくたって良いんだ、と思いながら言い募る。

 「ま、てめぇは一人寂しくどっかに行ってろよ。俺は好き勝手にやっとくから。」

  もしかしたら、サンダウンも娼婦か誰かに逢うのかもしれない。そうやって、実はマッドなんか
 いらないのだと気付くかもしれない。
  もしもそうなったら。
  たぶん、それが一番正しい形なのだろう。

 「マッド。」

  不意に、サンダウンが手を伸ばして、マッドの頭を抱え込んで軽く口付けた。ぎょっとしている
 と、サンダウンが耳朶を噛むようにして囁く。

 「くれぐれも、気をつけるように。」

  あくまでも、サンダウンはマッドの身を案じているようだった。だったら、いつものように、つ
 いて来たら良いのに。そう思いかけて、マッドは慌てて打ち払う。

 「……用事は、すぐに、終わる。」

  マッドの不安を見透かしたわけではないだろうが、サンダウンはゆっくりと言い聞かせるように
 告げる。そして、腕を持ち上げて、遠くに見える一本の立ち木を指差した。

 「あの木の下で、お前を待っているから、お前も用事が終わったら来てくれ。」

  その言葉に、マッドの心が臆病に震えた。それを押し隠すように、マッドは素っ気なくサンダウ
 ンから眼を逸らし、呟く。

 「なんで、俺がてめぇなんかと待ち合わせしねぇとならねぇんだ。」

  出来るだけ、苦々しそうに聞こえるように言ったつもりだった。そこに被さるように、サンダウ
 ンが囁く。

 「マッド、頼む……。」
 「………。」

  ぞくり、とするような低い声。きっと、サンダウンは分かってやっている。サンダウンはマッド
 の想いを丸ごと知っているのだから、どうすればマッドを言いなりに出来るかも知ってるのだ。
  舌打ちする事さえ叶わず、マッドはそれでも聞こえるかどうかの低い声だけで、短く吐き捨てた。

 「……分かったよ。」

  本当に短い言葉だったが、その瞬間にサンダウンが酷く嬉しそうな顔をした。





  久しぶりに離れ離れになった。
  一人で賞金首を撃ち落とし、勿論一人である事に何の問題も起こらなかった。その後保安官事務
 所に行って、賞金を受け取った。ただ、扉の向こう側に誰もいない事に戸惑ったけれど、それ以外
 に取りたて何の問題もなかった。
  それから、ゆっくりと街を眺め、久しぶりに一人で酒場に入った。そこに屯する賞金稼ぎ達と何
 週間かぶりの会話を交わし、酒を飲んだ。その時に、サンダウンとの間に介在した何事かについて
 は、一言として口に出せなかった。口に出した瞬間、それは一瞬で砕け散るような気がしたのだ。
 例え、サンダウンの名を出さずに、誰の事とも分からぬように話しても同じ事だろう。きっと、マ
 ッドの中で変質してしまう。
  本当は色々な事を話して相談もしたかったけれども、いざとなると言葉には出来ず、当たり障り
 のない会話を繰り返すだけだった。

  その後、話の流れとしては当然のように娼婦を買いに行こうかという話になった。
  西部に暮らす男として、地に根を張らない賞金稼ぎとしては当然の事。一夜の夢を見る相手を求
 める事は、荒野で彷徨う男にとっては当然の嗜みだ。勿論マッドとてそうだった。サンダウンが影
 のように尽き従うまでは――誰かに恋煩いをしているという噂が立つまでは――マッドもそうして
 いた。

     男として、欲が溜まっていないわけではない。長い間、女を抱いていなかったから、尚更だ。
  けれども、賞金稼ぎ仲間達がにやついた表情をで娼婦の話をして、久しぶりにお前もどうだと持
 ち掛けてきた瞬間に胸の中に膨らんだのは、はっきりと罪悪感だった。
  サンダウンの事を好きだと言いながら、女を抱く事に、炎のように鮮やかな罪悪感が灯ったのだ。
  サンダウンは今此処にはいない。けれども以前売春宿に連れて行ったら、酷く怒っていた。それ
 を思い出してしまえば、今頃サンダウンだって女を買っているんじゃないかという疑念は掻き消さ
 れてしまう。
  例えサンダウンが女を買う為に一人になったのだとしても、むしろそう思えば思うほど、マッド
 の中にはしこりのような罪悪感と悲壮感が募り、女を抱くような感情にはなれなかった。あまりに
 も、自分が惨めに思えて。

  だから、賞金稼ぎ仲間達に断りを入れ、マッドは一人酒場を抜け出した。久しぶりに訪れた酒場
 は、しかしマッドの気を晴らす事は出来なかった。かといって、このままサンダウンの言った待ち
 合わせの場所に向かう気にもなれない。
  いや、向かいたくない、向かうのが怖い。
  サンダウンに待ち合わせを持ちかけられた時に、怯惰で震えた心は、やはり竦み上がったままだ。

  だって、待ち合わせ先に向かって、そこにサンダウンがいなかったら。
  どれだけ待っても、サンダウンが来なかったなら。

  その先の事は考えたくない。
  そしてそれが現実になる瞬間が、怖い。

  だからマッドの足は迷いながらも待ち合わせ先に向かわず、街にある宿へと向かう。  
  そうやって、マッドが現れなかったら、サンダウンのほうが諦めて何処かに行ってしまうだろう。
 マッドが向かうのは、その後でも良いはずだ。サンダウンが諦めて立ち去ってしまったと思うくら
 い後ならば、マッドもそう思って傷を付けずに済む。真実がどのような形であったとしても、マッ
 ドが遅かったからサンダウンは諦めて何処かに行ったのだと言い聞かせる事が出来る。
  そう思って、マッドは宿のベッドの上で身を丸める。
  丸一日、マッドが現れなかったら、サンダウンも諦めるだろう。サンダウンがマッドを諦めるの
 なら、それで良い。マッドを本当はいらないものだと気付くよりも、そちらのほうが良い。そうや
 って少しずつ離れていくというのなら。少なくともマッドが勝手に期待をして、勝手に傷つけられ
 るという事はないから。

  決して広くはない、けれども広いと感じるベッドの上で身を丸めて。
  そうして、どれくらい時間が経っただろう。
  窓硝子に、一本線が流れる。それは瞬く間に無数の針となって、窓硝子を叩き始めた。荒野特有
 の、唐突な嵐だ。稲光を伴うそれは、短いけれども激しい。硝子が震えるほどの質量を伴う雨粒を
 見て、マッドはそっと窓の外を覗き込む。するとそこは案の定、地面にいくつもの川を作った泥沼
 と化していた。
  それを見下ろして、まさか、と思う。まさかこの雨の中、馬鹿正直に待っていたりはしないだろ
 うな、と。
  むろん、そんな事あるはずがない。きっと、雨の兆しを見つけて、何処か凌げる場所にいるだろ
 う。或いは、最初から何処か屋根のある所にいるか。その隣に、女でも侍らせているかもしれない。
  それで、良い。

  マッドは、ますます身を丸くして身体を抱き締めた。





  雨が止んで、マッドはのろのろと待ち合わせの場所に向かった。
  荒野の真ん中に立つ、一本の木。先程の大雨でずぶ濡れになっているであろうそこは、きっと誰
 も訪れないし、誰も現れない。

  サンダウンだって、あの雨の中、待っていたりするはずがないのだ。

  そう見当を付けて、マッドは行きたくない待ち合わせ場所に向かう。いるはずがないと何度も言
 い聞かせ、その言い訳が通るような言葉を並べ立てて、街を出て荒野を進む。
  水はけが悪く、泥のような地面は、正直なところ歩きたくない。本当ならば地面が乾いてから行
 っても良かったはずだった。けれどもそうしなかったのは、マッドが耐えられなかったのだ。長い
 間、真実を先延ばしにするという事に、マッドは耐えれなかった。サンダウンがマッドを待ってい
 ないという事実を、曖昧なままに放っておく事は、どうしても出来なかった。
  そこに微かな甘い期待が混じっていなかったと言えば、嘘になる。
  大部分を苦い粉で包みながらも、マッドは微かな甘さを舌の裏側に持って、待ち合わせの場所に
 向かった。舌の裏の甘い期待を、いつでも吐き捨てる事が出来るように、準備をしながら。

  そして、泥のような道を歩いて、マッドは立ち止まる。

  眼の前にあるのはずぶ濡れの立ち木。枝葉から幾つもの滴を零した木は、おそらく雨宿りの役に
 など微塵も立たなかっただろう。あの雨の中、この木の下にいれば、この木と同様濡れ鼠のように
 なっていたに違いない。
  そんな事は、雨が降る前から、遠目で見ても分かる事だった。サンダウンが今朝指差した時に、
 ほとんど葉が茂っていない事は分かっていた。だから、この下で待っていたら濡れるだろうという
 事は分かっていたはずだ。
  少なくとも、マッドには分かっていたし、マッドならこの木の下で雨宿りをしようなどとは考え
 ないだろう。

  そしてそれと同じ結論に、この男が思い至らないはずがなかった。

  型崩れした帽子の縁から、薄汚れて襤褸雑巾のようなポンチョの裾から、そして砂色の髪と髭か
 ら雨の残していった粒を際限なく滴らせる男に、マッドは舌の裏側から吐き捨てようとした甘さを
 呑み込んだ。

 「なんで……?」

  震えそうな声で問い掛けた瞬間、喉の奥から、臓腑の裏から、どうしようもない甘さが湧き起こ
 ってきた。その甘さに、心臓の裏側にまで漣が走りそうだ。

 「………待っている、と、行っただろう。」

  低い声には、マッドを咎める色は些かも感じられなかった。むしろ、何かを達成した喜悦のよう
 なものを孕んでいる。そして動けないマッドに、濡れた手を差し出して、マッドの白い頬を包み込
 む。濡れていても、大きくて温かい手に、マッドは思わず眼を閉じそうになった。

 「お前も、来る、と言った。」
 「………は。」

  迷いなく、まるで宇宙の真理を説くかのように、男はきっぱりと言った。その言葉に、マッドは
 絶句し、しばらくの間、息を詰める。

 「馬鹿じゃねぇのか!そんなのただの口約束だろ!俺が来るだなんて保障は何処にもねぇだろうが!」 
 「お前が、嘘を吐いた事は、一度もない。」

  そして、約束を破った事も。

  今度こそ完全に言葉を失ったマッドに、男が青い双眸を瞬かせて、視線を合わせる。

 「言っただろう。お前ほど信頼に値する姿を見せた者はいない、と。」

  頬をなぞる手から、雨粒が滴り落ちて、マッドの頬を濡らしていく。ゆっくりと眦を親指でなぞ
 られると、まるで泣いているようだった。そんな自分の顔が、青い瞳の中にくっきりと映っている。
 濡れた髪から零れた滴が、滴り落ちてくるほど近付いたサンダウンの顔に、マッドはけれど逃げる
 事が出来ない。

 「マッド………。私はお前の信頼を得る事が出来たのか?私はお前の言葉ならば、信じて待ち続け
  る事が出来る。それで、お前の信頼を勝ち得る事だ出来るのか?」

  お前を信じているんだ、と耳元で囁く声は、どうしようもなく焦がれていた。