ぱかりと眼を開くと真正面にサンダウンの顔があって、マッドは思わず、きゃあ、と叫んでしま
 った。情けない事この上ない叫び声と共に、サンダウンから離れようと身を捩ると、背中に冷たい
 物が当たった。
  どうやら、自分は床に倒れているらしい。
  なんで、と思うよりも先に、眼の前にサンダウンがいる所為で有りもしない事を想像してしまっ
 た。
  顔を赤く染めて、慌てて自分の身体を見下ろせば、縦縞のパジャマを着ているのがまず目に入っ
 た。風呂上がりに着込んだ覚えのあるそれは、不自然な乱れはない。確認はしていないが、パジャ
 マの下にある肌にも、一瞬思い浮かんだような事を連想させるものはないだろう。もしかしたら、
 口付けの一つや二つはされたかもしれないが――。

  そんな恥ずかしい事を考えているうちに、マッドはようやく、そんな事は考えなくても良い事だ
 と気付いて、頭をぶんぶんと振る。
  途端に、くらり、と視界が回ったような気がした。おや、と思う間にサンダウンの顔が消えて壁
 やら床やら天井やらが、走馬灯のように巡る。最後に、床が口付けできるほど近付いてきた、と思
 った瞬間に、回転し続けていた視界は停止した。
  そして、ゆっくりと床が遠ざかり、再びサンダウンの顔が真正面にやってくる。

 「………大丈夫か?」

  サンダウンの気遣わしげな声に、マッドは何が、と首を捻る。すると、サンダウンは呆れたよう
 な表情をする。

 「………お前は、私の眼の前で倒れたんだぞ。」

  そう言って、サンダウンはマッドの頬に手を添える。サンダウンの腕が動いて、ようやくマッド
 はサンダウンが自分の身体を支えている事に気が付いた。

 「長々と風呂に入るからだ。」

  のぼせたんだ、と言われて、マッドはようやく自分の身に何が起きたのか思い出した。





  サンダウンから大手を振って身を離す事が出来るのは、風呂の時間しかない。だから、風呂に入
 るとどうしても、これからの事を考えて、長風呂になってしまう。特に、今日は長かったらしく、
 途中でサンダウンが心配して様子を見に来たくらいだ。
  その後、すぐに風呂を出たのだが。
  パジャマに着替えて、サンダウンの待つ部屋の扉を開けてからの記憶がない。
  どうやら、そこで、のぼせあがった身体と脳は耐え切れず、倒れたらしい。
  だが、どれくらい倒れていたのかは知らないが、床と熱い抱擁を交わしたわりには身体に痛みは
 ない。それを不思議に思っていると、サンダウンがその答えを持っていた。

 「私が抱きとめねば、お前は床に激突するところだったんだぞ。」
 「………。」

  与えられた回答に、マッドはぱっと頬に朱を散らした。確かにそれは一番もっともらしい答えだ。
 それに、たった今、ようやくのぼせが取れ掛けた頭を勢い良く振って再びふらつきかけたのを、サ
 ンダウンに支えて貰ったばかりだった。
  自分の醜態と、それをサンダウンに見られていた事、そしてサンダウンに抱きとめられて介抱さ
 れた事実が、一度にマッドに押し寄せてきて、マッドは何処かに穴を掘ってそこに潜り込みたい気
 分になった。  
  再び、今度は頭からしゅうしゅうと湯気さえ湧き起こしそうなくらい真っ赤になったマッドを見
 て、サンダウンは心配そうに顔を覗き込む。

 「どうした……?まだ、ふらつくか?」

  急に動いたからか、と見当違いな事を言うおっさんは、図々しく――わざとだろうか――マッド
 の顔に、自分の顔を寄せる。目前に迫った青い双眸に、マッドはひぃと喉の奥で引き攣った声を出
 す。

 「水でも、飲むか?」
 「い、いらねぇ!」
 「………言っておくが、酒は飲まさんぞ。」

  のぼせた人間にそんなものは飲ませられない。そう真顔で告げる男に、マッドはいらねぇよ、と
 乱暴な口調で返事をする。
  だが、乱暴な口調とは裏腹に、マッドは間近に迫ったサンダウンの眼に、ふるふると震えている。

  これまでもこんなふうに顔を近付けられた事は何度もあるけれど、けれども居た堪れない気分に
 なるのは、自分が醜態を曝した所為だ。それと、一瞬でも恥ずかしい想像をしてしまった所為だ。
 あと、やっぱりまだ、のぼせているのかもしれない。頬や額に触れるサンダウンの手が、とてもひ
 んやりとしていて、マッドとの体温の差を知らせる。自分の体温がサンダウンに伝わってしまう気
 がして、マッドは思わず眼を閉じた。

   「マッド?」

  きゅっと眼を閉じているマッドに、サンダウンは静かに囁く。

 「やはり、まだ、具合が悪いのか?」
 「ち、ちが……。」
 「何処が違うんだ。」

  強がるのは止せ。
  サンダウンは、マッドの否定を一蹴する。普段はマッドが頬を赤らめれば自分の所為だと気付く
 のに、今日のサンダウンは恐ろしく鈍い。

 「どれだけ酒が飲みたいのか知らないが、今日のお前には一滴も飲ませられん。」
 「だ、だから、違うって。」

  別に酒が飲みたいわけでもないし具合が悪いわけでもない。だが、サンダウンは聞く耳を持たな
 い。しかし、だからと言って、まさか、お前に触れられたから、なんて事がマッドに言えるはずも
 ない。
  マッドが、本日のサンダウンの鈍さにわたわたしている間に、サンダウンはマッドの背と膝裏に
 腕を通し、そのまま持ち上げている。

 「わ……!」

  横抱き――所謂お姫様抱っこという状態に、マッドは今度こそ、ぐうの音も出ないほどに真っ赤
 になった。が、やっぱりサンダウンは気付かない。もはや本当に、わざとやっているんじゃないだ
 ろうか。
  そんな疑いを持ってサンダウンを見下ろせば、真摯な眼差しにぶつかってしまい、サンダウンが
 大真面目である事が分かる。どうやら本気で、マッドがのぼせあがって具合が悪くなっていると思
 っているらしい。
  マッドを抱き上げたままのしのしと部屋を横切って、部屋の隅に置いてあるベッドにマッドを、
 まるで硝子細工を箱に詰めるかのように優しく下ろすと、サンダウンはマッドを静かに見下ろした。
 サンダウンに圧し掛かられているような状態に、マッドはもう赤くなる余地すらない。
 
   「今日は、ゆっくり休め。」

  真っ赤なマッドとは裏腹に、サンダウンの声は酷く静かだった。そして、そのままいつものよう
 に同じベッドに潜り込んでくるのかと思えば、サンダウンはマッドから離れてソファに腰を下ろす。
 どうやら、サンダウンは今日はそちらで寝るつもりらしい。
  なんで、と口にしかけて、マッドは慌てて口を閉ざした。それではまるで、サンダウンを恋しが
 っているかのようではないか。そんな言葉、口が裂けても言えない。
  ぎゅっと唇を噛み締め、マッドは布団の中に潜り込む。その様子をサンダウンが視線だけで追い
 かけているのが分かる。そして、マッドが眠る態勢に入ったのを見て、サンダウンもソファに寝転
 がる気配がした。サンダウンの長い手足を引き受けて、ソファが軋む音が聞こえた。
  だが、その音も途切れれば、後は痛いほどの沈黙が通り過ぎる。互いの呼吸音が聞こえるほど近
 くにはいない。
  その静寂に、マッドは微かにうろたえた。普段から慣れ親しんでいるはずの夜の静寂が、不思議
 な事に耳に痛い。一人寝の夜は少なくはないし、耳の奥だけで鳴り響くような静けさも経験してい
 るのに、今、この沈黙が、痛い。

  だって、最近は、ずっとサンダウンが傍にいたから。

  思って、マッドはぎょっとした。自分が何を思ったのかに気付いて、愕然とする。けれども無意
 識のうちに思ったそれは、紛れもなく本心だ。
  だって、ずっとサンダウンの腕の中にいた。すぐ近くでサンダウンの呼気を聞いて、心臓の音を
 聞いて。最初は緊張して身じろぎ一つできなかったけれど、それが心地良くなり始めたのは、一体
 いつからか。聞こえないサンダウンの音が、意味もなく恋しい。ベッドとソファの距離は、そんな
 に声高に叫ぶほどの距離ではないというのに。

  耐えかねて寝がえりを打ち、マッドはソファで眠っているサンダウンを見る。サンダウンが本当
 に眠っているのかどうかは、判然としない。互いに、浅い眠りに身を任せる事に慣れている。自然
 に閉ざされた瞼や、引き締められた唇から、サンダウンの眠りの深さを推し量るのは困難だった。
  代わりに、刻まれた皺から、サンダウンが泥の河を渡って生きてきた事が窺い知れた。抱き竦め
 られる度に、その腕の太さや筋肉の付き方からどう考えても生易しい人生を過ごしてきたわけでは
 ない事が分かる。
  そんな、世界の息苦しさを知っているであろう男が、どうしてマッドなんかを欲しがるのか。一
 時の興味や情に動かされる事が、如何に愚かな事であるか知らないはずがないのに。それとも、や
 はり退屈な時間を潰す為の遊びなのだろうか。荒野の頂点に君臨する男は、飽きればどんなもので
 も捨て去る事ができる。鬱陶しく縋りついてきても、銃の引き金を引けば全てを終わらせる事が出
 来るのだ。マッドが、恨み事を吐いても。

 「……………。」

  突然、サンダウンの眼が開いて、マッドに視線を向けた。はっきりと眼が合ってしまい、マッド
 は慌てて眼を逸らした。が、眼が合ってしまった後なので、もう遅い。サンダウンはむくりと起き
 上がり、のそのそとベッドに近付いてくる。

 「マッド。」

  両手をベッドに突いて、サンダウンはマッドの顔を覗き込む。低い声に背中を震わせながらも、
 マッドは布団の中に潜り込もうとする。が、それは直前で阻まれた。

 「マッド………。」

  次いで降りかかってきたのは、いつもよりもずっと熱っぽい声だった。同時に、長い腕が身体に
 絡んでくる。
  ぎゅっと抱き竦められて、普段よりも強く抱き締められて、マッドは息を詰める。

 「あまり……そんな眼で見るな。」
 「そ、そんな眼って………。」
 「のぼせて無防備になっている姿を見せた挙句、そんな眼をされると………。」

  襲いたくなる。

  耳に吹き込まれた台詞に、マッドは絶句した。そして、今までにないくらいに怯えた眼をサンダ
 ウンに向ける。すると、サンダウンの腕がマッドを解放した。

 「無理強いはしない……。」
 「あ………。」

  幾度も告げられた言葉を置いて、遠ざかる腕。それを見て、マッドは堪らなく寂しい気分になっ
 た。だから、思わず甘えたような声を出してしまった。途端に、サンダウンの表情が険しくなる。
 その変貌に、マッドが身を竦ませていると、一瞬のうちに距離が狭まり、先程よりももっと激しい
 抱擁に襲われた。

 「やっ………!」
 「お前は、私の理性を試しているのか……?」

  苦々しげに吐き捨てられた台詞に、マッドが表情を歪めるよりも先に、荒々しく唇を奪われた。
 抵抗する暇もないまま口腔内を荒らされ、マッドは息苦しさに眼を潤ませる。それを見たサンダウ
 ンは、すぐさま口付けを柔らかいものに変える。それに伴い、抱き締める腕の力もゆっくりと抜け、
 穏やかな抱擁へと移り変わる。
  いつもと同じ、柔らかい抱擁に、マッドは強張っていた身体の力を抜いて、そのまま身を委ねる。

 「マッド、お前は………。」

  サンダウンの声が、何がもごもごと呟いた。ただし、それは苦々しくはなく、困ったような気配
 がある。しばらくの間、サンダウンは何が口の中だけで呟いていたが、マッドにはそれを聞きとる
 事は出来なかった。
  ただ、いつもと同じようにベッドの上で抱き締められて、少しだけ頬を赤らめた。しかし、それ
 以上の安堵感に包み込まれて、ぴったりと瞼を閉じた。