マッドは、眼の前にあるジャケットを見て、溜め息を吐いた。
  先刻買ったばかりの、上品な濃い茶色に染め上げられたジャケットは、今、酒場のテーブルの上
 に投げ出されてマッドの頭を悩ませている。
  別に趣味が悪いわけでもないその服は、傍目から見れば別に悩むほどの問題点があるようには見
 えない。似合わないわけでもないんだから、さっさと着てしまえば良いだけの話である。
  だが、マッドにはそれを着る事が出来ないわけがあった。

  マッドが、大通りに沿って立ち並ぶ店の中でも一番瀟洒な店の硝子の中で見つけたそのジャケッ
 トは、見栄えからしてもマッドが一目惚れするには十分な代物だった。チョコレートよりも濃い、
 薄っすらと赤味がかってボルドーのようにも見えるジャケットは、確かに賞金稼ぎを酔わせる事に
 成功したのだ。
  ただし、問題は、その服がマッドよりも一回り大きいサイズだったという事だ。
  しかし、マッドはその服を購入した時、そんな事百も承知で買ったのだ。何故ならば、マッドは
 そのジャケットを自分で着るなど微塵も考えていなかった。マッドがこの服を買った時に考えてい
 たのは、この色は自分が追いかけている賞金首に似合いそうだという事ばかりだった。
  荒野の風に曝されて砂色に色褪せた金髪が、このジャケットの襟脚に落ちたらきっと映えるだろ
 うと、そんな事ばかり考えて、わくわくしながら買い求めたのだ。その時は。

  だが、包まれたジャケットを腕の中に抱え込んだ瞬間に、マッドは現実に立ち戻った。
  こんなもん買って、それでどうやってあの男に渡せば良いのだ、と。

  以前顔を合わせた時、情けない話だが、マッドはサンダウンの眼の前で失神してしまったのだ。
  サンダウンに身体を支えられて、顔を間近で見て、信じられないくらい近くで声を聞いて、マッ
 ドの頭は完全にオーバーヒートした。
  そんな醜態を見せておい、しかもその時の声だとか眼の色だとかを思い出しただけでも、まだ悶
 絶しそうなのに――むしろ醜態を見せた事よりもそっちのほうが問題だ――どうやって顔を合わせ
 て、あまつさえジャケットを渡せと言うのか。
  そもそも、ジャケットを渡す理由が、ない。
  賞金稼ぎが賞金首に何かを渡す事など、せいぜい鉛玉と荒縄が良いところだ。百歩譲って、古い
 伝統に則って、決闘の際に白い手袋を投げつけるくらいか。だからといって、白い手袋の代わりに
 ジャケットを投げつけても何の意味だか分からないだろう。

  マッドは、渡すに渡せないジャケットの前で、頭を抱えて溜め息を吐く。
  しかもこのジャケット、自分よりもサイズが大きいので自分で着ますという技が使えないのだ。
 残念ながらマッドの身長がこれ以上伸びるという事も年齢的になさそうなので、マッドがこのジャ
 ケットを着る事は、よほど切羽詰まっていない限りない――確かに今も切羽詰まっているが、しか
 しブカブカのジャケットを着ている自分を、他人に納得させられるような、切羽の詰まり具合では
 ない事も確かだ。
  何をどうしても、自分の眼の前から消えてはくれない茶色のジャケットに、マッドはこれを買っ
 た時の自分の浮かれ具合を呪いたくなる。なんだってサンダウンに似合うかもといった妄想だけで、
 あんなにノリノリになれたのか。後悔先に立たずとは、こういう事を言うのだ。

  重苦しい溜め息を、幾度も吐くマッドの周囲は、それだけで空気も重く見える。
  遠くからその様子を眺めている賞金稼ぎ仲間達からすれば、何をそんなに悩んでいるんだとしか
 思えないだろう。
  むろん彼らは、マッドの眼の前にあるジャケットが、まさかマッドがサンダウンの為に買ったな
 どとは思いもしない。だが、ぱっと見ればそのジャケットがマッドが着るにしては少し大きい事は
 分かる。
  しかし、それならば交換して貰えば良いだけの話だ。
  もっとも、それでも何故マッドがそんな大きめサイズのジャケットを買ったのかという疑問は、
 彼らの中に残るわけだが。

  だが、此処最近のマッドの動向から少しばかり想像力を逞しくさせてみれば、彼らの中にも一つ
 の仮説が思い浮かぶ。
  マッドが最近物思いに耽る事が多いのは、周知の事実だ。そしてそれは、マッドが知らぬ内に、
 恋煩いだろうという噂にまで発展している――それは強ち間違いではないのだが、しかし相手が誰
 かまでは分からないのは、幸か不幸か。
  とにかくマッドが恋煩いに陥っているという噂を、僅かながらでも――面白がりながらも――信
 じている賞金稼ぎ達は、サイズの大きい新しいジャケットを前にして溜め息を吐くマッドを見て、
 ぴん、ときた。
  マッドの奴、好きな相手の手前、見栄を張って、体格を良く見せる為に大きいサイズの服を買っ
 たな、と。
  そんな、見当外れで人畜無害な見当を付けている賞金稼ぎ仲間を背後に、マッドはもう一度溜め
 息を吐いた。





  結局、ジャケットを交換する事も捨て去る事も、まして相手に渡す事も出来ず、マッドは一人、
 荒野のど真ん中で座り込んでいた。
  晴れた夜空の下で、一人野営をして焚き火の踊る炎を見ながら、マッドは誰にも着られる事のな
 いジャケットを抱き締めて、ぺたんと腰を下ろす。
  考えるのは、このジャケットをどうしたら良いのかという事ばかりだ。
  何か、適当な理由を付けて、サンダウンにどうにかして渡してしまおうか。からかい混じりの声
 で、あんたの小汚い服が見苦しいから買ってやったのだ、とでも押しつけがましく言ってしまえば、
 何とかなるのかもしれない。
  けれど、その分、サンダウンが顔を顰めてしまう可能性も高いのだが。
  顔を顰めるだけなら良い。マッドの眼の前で、渡したばかりのジャケットを捨ててしまったら、
 どうしよう。
  そもそも、サンダウンはマッドの事など別にどうだって良いと思っているのだ。いや、マッドが
 賞金稼ぎでサンダウンをしつこく追いかけている分、鬱陶しいとか――最悪、嫌われている事だっ
 て有り得る。

 「別に、そんな事、今更じゃねぇか。」

  ぎゅう、とジャケットを抱き締めて、マッドは薪が爆ぜる音に紛れてしまいそうな声で呟く。
  この前、マッドが失神してしまった時は、何故だかマッドが眼を覚ますまで傍にいてくれたが―
 ―その所為で少し浮かれて、ジャケットなんか買ってしまったのだ――サンダウンの本音としては、
 マッドがいるのは迷惑に違いないのだ。決闘を挑んでも適当にあしらわれている。きっと、相手に
 するのだって面倒なはず。

 「じゃあ、早く、殺しちまえば良いんだ。」

  それとも、相手にするのも面倒くさくて、殺す価値もないと思われているのか。 
  ならば、マッドはどうすれば良いのか。

 「さっさと、諦めろってか。」

  結局は、その結論にしか思い至らない。
  だが、どうしてサンダウンがマッドに対してそいう素振りを見せるのかが、分からない。マッド
 は名実ともに西部一の賞金稼ぎであって、サンダウンが殺してきた賞金稼ぎよりは確実に銃の腕は
 上のはず。にも拘わらず、殺されないとなると。

 「本気で、嫌われてる?」

  銃で撃ち殺すのも嫌だと思うくらいに。
  そう考えた瞬間に、心臓を鷲掴みにされたような痛みが胸から広がる。そのまま喉を押し潰され
 たかと思うくらい、呼吸が詰まった。
  好かれている、とは思っていない。歓迎されていないのも知っている。相手にされていない事は、
 明白だ。けれど、銃で殺す事さえ厭うほどに嫌われているとまでは、考えていなかった。対峙した
 相手を銃で殺す事を厭うという事のは、この荒野では最大級の軽蔑を意味をする。マッドが、下劣
 な賞金首に対しては、銃で殺すのではなく縛り首を選ぶように。
  その事実に、マッドは思わず身震いする。
  疎んじられている、のは、まだいい。だが、あの男に軽蔑されるのだけは。
  しかしそう思った瞬間に脳裏に閃いたのは自嘲だった。男に対して、こんな事を考えている時点
 で、既に十二分に軽蔑の対象になる。自分を追い掛けている男が、まさかそんな下心を持っている
 だなんて知れたなら、サンダウンと雖もはっきりと侮蔑を示すに違いない。
  今はまだ、露わになっていない侮蔑が、マッドを打ちのめしたのなら、その時はマッドの道が暗
 く閉ざされる。

 「………やっぱり、渡さないでおこう。」

  抱き締めたジャケットをそっと眺めやって、マッドは頷く。
  からかいの口調で声掛けしようがなんだろうが、勘付かれる言動は控えるべきだ。それと、やっ
 ぱり、サンダウンに決闘を申し込むのも、控えよう。侮蔑の芽を、これ以上、育てないように。
  ジャケットをもう一度大切そうに抱き締めて、マッドはぼんやりと記憶の中の砂色と青色を思い
 描いた。





  暗闇が支配する荒野で、その灯りは遠目でも良く目立った。
  誰かが野営をしているのか、と眺めていれば、そこから放たれる気配が良く見知った――ただし
 最近逢っていない――ものである事に気付き、サンダウンはそっと近付いた。
  近付けば、やはりそこに腰を下ろしていたのは、想像していた通りの姿だった。
  ぺたんと地べたに座った姿は、しかしその後ろ姿には妙に覇気がなく、サンダウンは首を傾げる。
 そして、此処最近マッドが物思いに耽っている事と、その原因――恋煩いだと噂されている――を
 思い出し、サンダウンは眉間に皺を寄せた。
  サンダウンが近付いたなら、いつもはすぐに気付くはずなのに、あと数歩でその背に触れる事が
 出来るほどに歩み寄っても銃に手を伸ばす事はおろか、振り返りもしない。その事実が、今現在の
 マッドの心を深く占めているのがサンダウンではないという事を示している。
  だから、最後の一歩はわざと音を立ててやった。
  すると、マッドがようやくはっとして顔を上げる。大きく見開かれた黒い瞳は、サンダウンの姿
 を認めるや、酷くうろたえたように眼線を彷徨わせた。嬉々として輝くはずの眼が、まるで招かれ
 ざる客を迎え入れたように困惑するのを見て、サンダウンは眉間の谷を更に深める。

 「な、なんだよ………。」

  サンダウンを見上げたマッドは、ぎゅうと何かを大切そうに抱き締めたまま、闘争心も何もない
 声を出した。そして、サンダウンから抱き締めたものを隠そうと身じろぎする。
  その光景に、サンダウンは些か不機嫌になった。
  一体、何を自分から隠そうとしているのか。
  マッドが大切そうに抱えているという事もあって、サンダウンの眼線は隠されようとしている代
 物が何なのかを見極めようと細められる。マッドの身体の影からはみ出す部分を繋ぎ合わせて、そ
 の茶色い物体が何物であるのかを推測する。

 「………ジャケット?」

  しかも、見たところ、新品だ。それを、マッドは大切そうに、誰にも見られないようにと抱き締
 めている。その様子から、サンダウンは一つの仮説を練り上げる。
  誰かから、貰ったのか。
  それは、或いは、マッドが想う相手から贈られた物なのかもしれない。
  そう思えば、マッドのこの態度も分かるというものだ。想う相手から贈られた物を抱き締めて喜
 びを噛み締めている時に、サンダウンが邪魔をするように割り込んできたのだ。サンダウンは、間
 違いなく招かれざる客だろう。
  サンダウンとしては、もっと邪魔してやりたい気分ではあるが。いっそ、マッドが抱き締めてい
 るジャケットを踏み躙ってやりたい。
  サンダウンがそんな険呑な事を考えていると、マッドは慌てたように口の中で何かをもごもごと
 呟く。

 「べ、別に、これは誰かにあげる為に買ったわけじゃねぇんだからな。俺が、自分で着ようと思っ
  て。」

  ぶつぶつと呟かれる台詞に、サンダウンは、おやと首を傾げる。
  誰かに貰ったものかと思ったのだが、どうやら違うらしい。マッドが自分で買って、そしてどう
 やら誰かに贈ろうと考えているらしい。
  だが、マッドが抱き締めているジャケットは、どう見ても男物だ。

 「…………………。」

  思い至った結論は、マッドのこれまでの言動を、一番頷かせてくれるものだった。
  マッドが想う相手というのは、どうやら、男らしい。そう考えれば、マッドのこれほどまでの物
 思いも分かるというものだ。これまで女だけを相手にしてきたマッドが、同性に想いを寄せるのだ
 から、その戸惑いも苦悩も人一倍だろう。
  男だろうが女だろうが、魅力のある人間と言うのは――正にマッドのように――存在するわけだ
 が、自分がそういった相手に想いを寄せる事など考えもしなかったのだろう。そして、苦悩の末に
 贈る物を買ったは良いが、今度はどう渡せば良いのかを悩んでいるというわけか。  

  お前が渡せば誰でも受け取るだろう。
  そう言い掛けてサンダウンは止めた。それは、サンダウンの一番醜い部分が囁いたからだ。何故、
 マッドに想いを寄せて貰っている相手に、そこまでしてやる必要があるのか、と。
  苦悩するマッドを抱き締めて、大丈夫だ、と囁いてやる事はきっと簡単だろう。答えを探すマッ
 ドは、きっとそれにしがみつく。だが、その果てにいるのはサンダウンではなく、サンダウン以外
 の誰か、だ。
  マッドが苦しむのは本意ではない。
  だが、一秒でも長く、マッドがサンダウンを追い続けるというのなら、マッドの苦悩に手を出す
 のは得策ではない。
  だから、代わりにこう囁いた。

 「………安心しろ、誰にも、言わない。」

  お前が、男を、想っている事は。

  はっとして顔を上げたマッドは、完全に真っ赤だった。眼は信じられないと言わんばかりに見開
 かれ、その動揺が激しい事を物語っている。
  はくはくと開閉する口からは、何度も吐息だけが零され、数回舌で唇を湿らせた後、ようやく声
 が出る。まるで、石ころを吐き出すように苦しげな声だった。

 「あ、あんたは、何も、思わねぇのかよ。」

  その言葉に眉根を寄せると、マッドの眼が歪められる。

 「き、気持ち悪いとか、そういうの、ないのかよ。」

  何かに縋るような眼差しに、サンダウンは思わず手を伸ばした。抱き締めようと伸ばした手を、
 辛うじて堪えて、しかし行き場を失った手を代わりに黒髪の上に落とす。
  子供にするように頭を撫でて、囁く。

 「………思わない。」

  既にこちらがお前を想っているのに、思うものか。
  腹の中でだけでそう呟いていると、マッドの肩から眼に見えて力が抜けた。安堵したのだろう。
 それとも、一人で重苦しく考えていた事を、誰かに話して気が緩んだのか。
  その誰か、が自分であって良かったと、サンダウンは思う。
  マッドが想う相手が、自分でなくても。

  見た目よりも柔らかい髪に手を埋めながら、サンダウンはマッドが遠ざかる日を先延ばしにする
 方法を考えていた。