結局、また、しくしくと泣き始めて、マッドは夜明けまでずっと泣いていた。
  ただし、今度は一人ではなく、ずっとサンダウンの腕の中に抱き締められていた。時折宥めるよ
 うに、頭や背中を軽く叩く以外は、サンダウンは酷く優しく、マッドは自分が羽根になってしまっ
 たような気分になっていた。水っぽく泣きはらした眼の事もあって、なんだか全体的にふわふわと
 している。
  それは、もしかしたら夢見心地だったのかもしれない。
  泣きつかれていつの間にか眠ってしまっていたのかもしれない。
  現に、腫れぼったくなった眼を再び開いた時、そこはさっきまでいたはずの安宿ではなく、埃っ
 ぽく誰も訪れた事がないような、古ぼけた小屋の中の景色に変わっていた。
  サンダウンの腕の中で眼をぱちぱちさせて、ややしてからマッドは慌てふためいて飛び起きて叫
 ぶ。

 「ど、何処だよ、此処!?」

  周囲から漂う静寂は、どう考えても此処が町中ではない事を示している。もっと正確に言えば、
 荒野のど真ん中で迎える朝が、こんな静寂を湛えている。
  どうやら、自分は荒野のど真ん中に置き去りにされた小屋の中にいるらしい。サンダウンと二人
 っきりで。サンダウンに抱き締められて。
  薄暗い小屋の中で、すぐ近くに男の気配がある事に、マッドは咄嗟に身を固くした。ぎゅっとシ
 ーツに縋りつくように手を握り締め、ふるふると震えるのは、これまでのようにサンダウンが近く
 にいる事で心臓が高鳴るからではない。
  いや、心臓は高鳴ってはいるのだが、それ以上にサンダウンが自分を押し倒すような形で抱き締
 めている事に、マッドは一瞬ではあったが有り得ない想像を働かせてしまったのだ。
  その口に出来ない想像にちょっぴり頬を赤らめ、いやそんな馬鹿な事と打ち消し、けれども泣き
 疲れて眠ってしまう前に見たサンダウンの真剣な表情を思い出して、更に顔を赤くする。何より、
 眠って抵抗できない間に、人里離れた小屋に連れて来られたなんて、マッドが女だったら間違いな
 く如何わしい目的しか考えられない。

 「安心しろ、何もしない。」

  食べられちゃうんじゃないだろうか、いやそれよりもやっぱり嫌がられていて此処で始末される
 んだろうか。如何わしい想像から、思考回路が切り替わったかのような正反対のネガティブな考え
 に鬱々と落ち込み始めた時、それを遮るようにサンダウンが囁いた。すぐ耳元で聞こえたそれは、
 耳朶を噛むようにしてマッドに吹き込まれる。

 「お前が、して欲しいと言うのなら、別だが。」
 「し、しし、して欲しいって、な、何を?!」

  思わずどもりながら聞き返してしまった。そしてあまりにもはしたない質問に後悔する。だが後
 悔するよりも早く、サンダウンは真顔で答えた。

 「抱いて欲しいのなら、今すぐにでも、抱く。」

  ぐびり。
  何度か聞いた直接的な答えに、けれどもマッドが慣れる事はなく、マッドの喉は奇妙な音を漏ら
 した。咄嗟に身体にシーツを巻き付けて、サンダウンから距離をとろうとするが、サンダウンの腕
 はやはりがっちりとマッドを捕えていた。

 「ううっ、放せよ。」
 「駄目だ、逃げるな。」

  お前にまで逃げられたら私は、そう呟いて男は黙り込んだ。そこに悲嘆が感じられて、思わず逃
 げようとしていた身体を止めてしまう。昨晩、お前が欲しいだけだ、と途方に暮れたように繰り返
 す声に込められた悲嘆と同じそれは、一度気付いてしまえば、サンダウンの中にある傷口が深い事
 が分かってしまう。
  何事にも興味を示さない男が繰り返し、お前を信じているのだ、と、お前に信じて欲しいのだ、
 と囁いている。それに思わず傾きそうになって、マッドは慌てて踏みとどまる。
  本当ならば、今すぐにでも転がり落ちたいけれど、転げ落ちて抱きとめられた瞬間に、思ってい
 たものと違うと言われて放り出されてしまったら。
  自分で自分の喉笛を噛み切れないように、マッドは自分の味が美味いかどうかなど、分からない。
 確かに娼婦達にはもてるし、男達の中には欲を湛えた眼で見てくるものも多い。けれどもそれは、
 自分の外見に惹かれているだけだという事を、マッドは十分に承知していた。マッドの身体は気に
 入っても、マッドの魂まで食べようとはしない。 
  だから、もしもサンダウンが、実際にマッドの魂を手にとって、やっぱり違うと気付いてしまっ
 たら。
  他の誰に手にとって貰えなくても見向きもされなくても、サンダウンに放り出されてしまったら。

 「マッド。」

  再び潤み始めたマッドの眼に、サンダウンは少し眼を瞠り、直ぐにその眦に口付けを落として濡
 れ始めた眦を拭う。

 「………一体、何をまた考えている?」

  また悲しい事を考えていたな、と呟き、サンダウンの腕が持ち上がってかさついた手がマッドの
 頬を包み込む。そして、薄く口付ける。触れ合う程度の口付けをする位置で止まり、サンダウンは
 そのまま低く囁く。

 「お前を、信じている。だから、お前が、欲しい。」

  それでは足りないか?
  問われて、マッドは口を閉ざす。サンダウンに信頼される事は、マッドにとっては喜びだ。心が
 震えるほどに、歓喜している。マッドの魂を見て、それを欲しいと告げるサンダウンに、マッドは
 差し出してしまいそうになる。
  今まで、マッドへの想いを口にした事がない男だ。その男に魂を見られて、愛でられて、あまつ
 さえ欲しいとまで言わせている。ゆっくりとマッドに近付く男に、だが、マッドは自分の魂が本当
 に男の望む味をしているのか、分からない。

  サンダウンの言葉を信じてしまいたい。
  でも、やはりいらないと言われてしまったら。
  そう。今やマッドが恐れているのはサンダウンが嘘を吐いている事ではなく、自分がサンダウン
 の求める形をしているかどうかだった。

  ふるふると怯えるマッドに、サンダウンは溜め息を吐く。ただしそれは、諦めではなくて、微か
 な親しみの籠った吐息だった。
  男はマッドの身体を抱え直すと、もう一度軽く口付ける。

 「……今はまだ、何もしない。お前も何もしなくて良い。」
 「なんだよ、それ。」
 「……お前が、欲しい、だけだ。」

  だから、お前が腕の中にいれば、お前は何をしても良いし、しなくても良い。

 「マッド、お前の好きに、したら良い。」
 「す、好きにって。俺があんたを撃ち殺しても良いってのかよ。あんたを追いかけ回して、あんた
  の居場所を潰して回っても。」
 「お前が出来ると言うのなら、やれば良い。」
 「なんだよ、それ。あんたは俺に、その、恋人やら何やらになって欲しいんじゃねぇのかよ。だっ
  たら、そんな、殺伐とした事する奴なんか、いらないだろ。」
 「………お前が私のものになる事は望んでいるが。」

  サンダウンの青い眼が、マッドを覗き込む。その青さに見惚れている隙に、サンダウンの声が耳
 に滑り込んできた。

 「私は、お前が欲しいのであって、恋人が欲しいわけではない。」

  恋人という名前の人形など、欲しくない。
  かさついた大きな手が、マッドの頭を優しく撫でる。まるで、マッドの魂を包み込むように。  

 「お前が恋人のように振舞いたいと言うのならそうすれば良い。だが、そうしたくないと言うのな
  らそれで良い。」
 「なんで………。」
 「お前が、欲しい、と言っている。」

  他の何も欲しくない。
  そう言って、サンダウンはマッドの胸に顔を埋めた。その行為に、マッドはひっと声を上げる。
 しかし、サンダウンはそれを無視してマッドの胸に耳を押し当てている。

 「………お前なら、何だって良い。お前が全部欲しい。心臓の音一つでさえ。」

  服の上から、胸に一つ口付けを落とされる。服の上からとはいえ、それでもマッドは頬を赤くし
 た。同時に、心臓に直に口付けられたような錯覚に襲われる。

 「な、なんでそこまで言えるんだよ。」
 「お前を信じているからだ。」

  だから、何をしても信じられる。それに値するだけの事を、マッドはしてきた。

 「お前は自分の事で怯えなくて良い。十分に、お前は示してきたから。」

  慈しむように見下ろされ、頭から頬へと武骨な手が辿っていく。まるで、マッドの身体の線でさ
 え愛おしいと言うように。 

 「だから、私に求められる事を疑わなくて良い。」

  そして、今度こそ、息が詰まるほど抱き締められて、口付けられた。