「ん………。」

   瞼が冷たい。それはいつもの、泣き濡れた冷たさではなくて、それを労わるようにひんやりと
  していて気持ちが良い。その気持ちの良さをもっと感じようと、身じろぎして顔を動かす。する
  と、肌に当たって少し温くなっていた部分がずれて、代わりにまだ冷たい部分が瞼を冷やす。
   冷たい部分が肌に当たる面をもっと増やそうと身を捩っていると、不意にそれが剥がれて新し
  い冷たさに置き換えられる。

  「………?」

   急に現れた外部的要因にマッドは不思議に思い、瞼を覆う冷やした布をそっと顔から外した。
  が、すぐにそれを元に戻し、視界を覆う。
   そこには、果たしてサンダウンがいて、泣きじゃくって腫れてしまったマッドの瞼に、冷たい
  布を押し当てていた。
   逢いたいけれど逢いたくない相手の姿を認めると共に、マッドは昨夜の自分の醜態を思い出し、
  顔を真っ赤に染める。同時にサンダウンが怒っていた事も思い出してしまい、ますます眼を合わ
  せられなくなり、マッドは瞼の上に乗っかる冷えた布一枚で、必死にサンダウンの視線から自分
  の眼を守る。

   だって、サンダウンは物凄く怒っていた。マッドの事なんて嫌いなんだと感じるくらいに、怒
  っていた。だから、顔なんて合わせられない。

   うじうじと、マッドはシーツを手繰り寄せて、身を包んでサンダウンから身を守ろうとする。
  が、マッドの腰にはサンダウンの腕ががっちりと回っており、シーツで身を包もうものなら、サ
  ンダウンも一緒に包んでしまう――というか、既にサンダウンの手によって、一緒にシーツの中
  にいる状態だ。
   あんなに怒った癖に、どうしてまだ傍にいるのか。しかも、ぴったりと張り付いて。
   だが、マッドはそれに対する問い掛けをしない。何故ならば、問うたところで返ってくる言葉
  は同じだからだ。その同じ言葉が、昨夜、酷く辛そうに繰り返された。

  『お前が欲しい、だけなんだ。』

   喉に何かを詰まらせたかのように、苦しげな息と共にそう吐きだされた。マッドがしゃくり上
  げている間中、ずっと辛そうな表情をして、時折口付けながら何度も縋るように囁かれた。
   あまりにも辛そうなその様子に、その言葉を口にするのが嫌ならば、止めれば良いのに、とさ
  え思った。マッドを欲しいと言うのが嫌なら、止めてしまえば良い。

  「マッド。」

   考えていると、急に瞼に貼りつけていた布を引っぺがされた。きゃっと声を上げると、サンダ
  ウンがすぐ間近で見下ろしていた。情けない声を上げたマッドを、サンダウンは青い眼でまじま
  じと見ると、呟く。

  「大分治まったな。」

   かさついた手がそっとマッドの瞼をなぞる。どうやらマッドの瞼の腫れの事を言っているよう
  だ。その下でまた潤み始めている、逃げ場をなくしたマッドの黒い眼には何も言わない。
   マッドがサンダウンを見上げてふるふると震えていると、サンダウンはふと何を思ったのか、
  そっと首筋にその手を滑らせた。微妙な擦れにマッドが思わず眼を閉じ、歯を食いしばっている
  と、サンダウンは肌のある一点で指を止め、呟く。

  「痕になっているな………。」

   そこは、サンダウンが激昂して締め上げた部分。そこには、サンダウンの指の痕が残ってしま
  っているらしい。それを労わるように指先でなぞりながら、しかしサンダウンはきっぱりと言っ
  た。

  「だが、謝りはしない。」

   その声の響きにマッドが眼を見開くと、サンダウンは昨夜の怒りや苦しさはないものの、酷く
  真剣な眼でマッドを見ていた。

  「お前も、十分に私を苦しめたからな……。これは、その代償だと思え。」
  「何、言って……。」
  「言っただろう?信じて貰えなくて、辛い、と。」
  「そんな事。」

   嘘に決まってる。
   サンダウンが、マッドに信じて欲しいと思っているわけがない。サンダウンにとっては、マッ
  ドの信用や信頼なんか塵芥に等しいはずなのだから。
   マッドが一生懸命になってサンダウンの信を得ようと足掻いている間も、サンダウンはそれを
  黙って見ているだけで、サンダウン自身はマッドに何もしてこなかった。マッドがサンダウンを
  裏切ったって、きっと鼻で笑って終わりだろう。裏切って当然と思っている相手に、信用して貰
  おうだなんて思うわけがないのだ。

  「あんたにとっちゃ、俺の信用なんて大したもんじゃねぇだろ。俺があんたに認めて貰いたくて、
   ずっと卑怯な事はしないようにしてても、結局はあんたは俺を卑怯者としか見てねぇじゃねぇ
   か。そんな卑怯者に信じて欲しいだなんて思うわけがねぇ。」

   言いながら、また心が昂ぶって来て、腫れた瞼の下にあるマッドの眼からは、再び涙が零れ出
  す。つるりと頬を伝い始めた滴に、サンダウンは虚を突かれたような表情をしたが、すぐにそっ
  と顔を近付けてきた。柔らかく唇で受け止め、マッドの身体を抱き締める。

  「私はお前を卑怯者だと思った事はない。」
  「昨日、言ったじゃねぇか!」
  「あれは………お前が私を信じないくせに、自分の事は信じろと言うから……。」
  「うるせぇ!俺がどんなにあんたの前で正々堂々としたって、あんたは顔色一つ変えねぇじゃね
   ぇか!だから信じてくれって思って、言って、何が悪いんだよ!でも、あんたは俺に信頼して
   るような素振り一度も見せた事ねぇじゃねぇか!」

   なのに、マッドが想いを告げた後で、マッドが喜ぶような事を口にして、それを信じて欲しい
  と言うだなんて、虫が良すぎる。卑怯なのは一体どちらか。けれどそれでも嫌いになれない自分
  は、もはや救い難い。
   サンダウンを振り払おうと腕を振って、指で宙を掻いて、マッドはぼろぼろと涙を零す。その
  涙を全部受け止めるサンダウンは、暴れるマッドを離すまいと抱き締める。

  「…………だから、信じない、か。」

   マッドの肩に強く腕を回し、マッドの顔を肩口に引き寄せた男の口からは、苦り切った声が零
  れた。それは、昨夜見たような、閃光のような激昂ではない。何処か鈍く重い、内々から溶けた
  鉄の塊を発見してしまったような声だった。
   しばらくマッドを抱き締めていたサンダウンは、その重苦しい何かを噛み潰すように歯噛みを
  繰り返していたが、やがて、ふっと小さく息を吐いた。

  「すまなかった。」

   謝罪はしないと告げたばかりの男が、身を引き摺るようにしてそれを翻し、十字架の前で罪を
  告白する時の声で、マッドに告げた。

  「………すまない、お前に甘え過ぎていた。」
  「なんだよっ、それ……っ!」
  「そのままの意味だ………お前に全てを任せて、自分は何もしなくても良いと思っていた。」

   そっと身体を離される。けれど、肩にはサンダウンの指が強くしがみついている。縋るような
  色は、何よりも見上げたサンダウンの眼が雄弁に物語っていた。途方に暮れたようなその色に、
  マッドは一瞬声を失った。
   声を出せずに息だけを吐くマッドの唇に、静かに口付けが落ちてくる。その直前、サンダウン
  が、やはり途方に暮れたような声で呟いた。

  「…………お前の態度は、ちゃんと私に届いている。」
  「………え?」
  「でなければ、背中を預けたりするものか………。」

   信頼も信用もしていると暗に告げられるや、口付けられた。





   ようやく、自分に足りなかったものが、分かった気がした。
   マッドの糾弾に虚を突かれ、サンダウンは自分自身に向けて溜め息を吐く。ここまでマッドを
  依怙地にしてしまったのは、他ならぬ自分自身だった。

   サンダウンは、マッドを信頼するに足る相手だと思っている。ぐずぐずとした僻みや嫉みとは
  無縁で、そんなものを感じている暇があったなら自分で切り開こうとする男だ。だから、サンダ
  ウンにも対等に立ち向かってこようとする。
   そんな態度を貫く姿は、信頼するに十分に値する。

   それに、マッドもサンダウンを信頼するような素振りを見せていた。サンダウンが卑怯な事を
  するはずがないと、正々堂々と決闘なんかを申し込んでくる事から見てもそれは明白だ。賞金首
  相手に決闘も何もないだろうと思うし、実際マッド自身、サンダウン以外の賞金首には罠を使っ
  たりしている。
   だが、サンダウンにだけは、決闘を申し込んでくるのは、どう考えたって信頼と信用の表れだ。
  だから、サンダウンは己にだけ向けられる心地良いそれらに甘えていた。マッドが自分を信用し
  ているのを見て、マッドもサンダウンが信用してる事は分かっているだろうと勝手に思いこんで、
  何もしなかった。

   サンダウンがマッドを信用しているのも、マッドがサンダウンを信用しているのも、それらは
  全てマッドの態度から生み出されたものだという事を忘れて、自分達は信頼関係にあると思い込
  んでいた。

   サンダウン自身は、指一本動かしていないくせに、だ。

   サンダウンはマッドの態度について言及した事も、サンダウンがマッドを信用している事につ
  いて行動で示した事も、ない。まして信頼して欲しいなど、マッドから既に得られている以上、
  考えた事もなかった。
   今、現在に至るまでは。

  「……私には、お前しか、いないのに。」
  「っそんな事……!」
  「信頼できるのはお前しかいないし、それに足る行動をしてきたのもお前しかいない。」

   なのに、甘え過ぎて何もしてこなかった。そしてそれほどまでに甘える相手も、マッドしかい
  ない。

  「お前を、信じているんだ……だから、背中も預けた。」

   お前は信用してもいない相手に背中を預けるのか?

  「それとこれとは話が別だ!」
  「私にとっては同じ事だ………お前しかいないからな。命の遣り取りをするのも、信頼し合える
   のも、抱き合うのも、お前以外にはいない。」

   渇き切った砂の上に放り出されたサンダウンに、再び水を染み込ませたのはマッドだ。一人彷
  徨って世界から隔絶されたような気分になっていたところを、繋ぎとめたのもマッドだ。マッド
  がいなくなれば、一人深淵の中に取り残されるのは眼に見えている。
   それとも、マッドはサンダウンを突き離すつもりなのだろうか。暗がりの中に、置き去りにす
  るのだろうか。

  「………それとも、もう、私が、嫌になったか?」

   また、昨日のように嫌いだと叫ぶのだろうか。今度は、本当に。
   マッドの頬に手を当てると、マッドの眼がゼリーのように潤む。唇も、これ以上ないくらいに
  震えてしまっている。そして、零れる大きな一滴。

  「嫌いになんて、なれるわけねぇだろ、馬鹿!」