安宿の粗末なベッドの上で身を丸め、布団を上から被ってすっぽりと身体を包み、マッドはしく
 しくと泣いていた。



  気が付いたら、眼の前は真っ暗だった。いつの間にか夜は更けこんで、知らないうちに安宿のベ
 ッドの上に寝そべっていた。ベッドの上に横たわったまま、しばらく眼をぱちぱちと瞬かせていた
 が、3回ほど瞬きを繰り返したところで、マッドは、ぶわっと眼に涙を浮かべた。

  卑怯者。

  サンダウンにそう言われた事を思い出したのだ。
  売春宿に連れて行こうとしたら、いきなり怒りだして、そしてそう言われた。息苦しいほど喉を
 締められて――いっそ殺してくれたら良かったのに――想像を絶する怒りをマッドに見せたのだ。
  いつもは寡黙な男が、蒼褪めた炎のように怒りを噴き上げる様子に、マッドは本気で嫌われたの
 だと思った。サンダウンが怒り狂う事など、マッドは見た事がない。そんな男が激情のあまり首を
 締めに掛かったのだ。それほどに、マッドへの嫌悪は深いに違いない。

  卑怯者。

  低い声を思い出し、マッドは耳を塞ぐ。
  マッドは、サンダウンの勘違いを正したかっただけなのに。マッドを欲しいと言うのは孤独故の
 勘違いだと、それを気付かせて、マッドがサンダウンの言葉に耐え切れずに受け入れてしまう前に
 ――傷つく前に――正したかっただけなのに。
  一番避けたかった、嫌悪の眼差しで見られるなんて。
  青い眼が苦々しげに見下ろすのを思い出し、マッドはぼろぼろと涙を零す。

  卑怯だ、と告げたサンダウンに首を締め上げられ、その後の記憶はマッドにはない。どうやって
 この宿の中に入ったのかも覚えていない。けれどマッド以外に人気のない部屋に、サンダウンがい
 ない事は明白だ。その事実が、またマッドの胸を締め付ける。
  これまで、サンダウンがマッドを欲しいと告げてからずっと、眠る時はサンダウンがすぐ傍にい
 た。手が届くような傍らで、寒い夜などはマッドを包むように抱き締めて、マッドがどれだけ距離
 を取ろうとしても離れなかったのに。
  もう何処かに消えてしまった温もりを思い出し、マッドは涙を溢れさせては零していく。眦から
 頬を伝ってシーツに落ちていくそれは、酷く冷たい。
  こんなふうに、あっと言う間に消えていくのなら、触れてくれなければ良かったのに。消える事
 は確かに覚悟していたけれど、でも、その覚悟が生半可だった上、あんな言葉を投げつけられて別
 れてしまうなんて。
  ぐすん、と鼻を啜って、マッドは枕に顔を押し付ける。
  涙はどんなに堪えようとしても止まらない。長じてからは、どんな痛みを感じても泣く事なんて
 なかったのに、まるで防波堤が決壊したかのように、溜まりに溜まった涙は留まる事を知らない。
 それに、喉も痛いし、胸の痛みは今までの比ではない。心臓を刃物で切り込まれ、そこを掻き混ぜ
 られているかのようだ。
  優しい低い声と、凍えるような声が交互に思い出されて、それがマッドの痛みを掘り下げていく。

 「う……っ、ふぇっ、キッド………っ。」
 「………なんだ。」

  思わず零した声に、屋の扉が開く音がしたと思ったら、答える声があった。
  のそのそと近付いてくる気配に、マッドは何が起きているのか分からずに布団の中で凍りつく。

 「………泣いているのか。」

  その声に、マッドは身を固くして、布団の中に籠る。亀のような状態のマッドに、サンダウンは
 覆い被さるようにして囁いた。ただし、声には苦さが混じっている。

 「何故、泣く?私の事を信じないのに、何故、私の言葉一つでそんなに泣くんだ?」
 「う、うるせぇやい!あっち行け!」

  布団を剥がそうとするサンダウンの手に抵抗して、マッドは布団の縁を押え込みながら涙交じり
 の声で怒鳴る。

 「俺の事が嫌いなら、もう、どっか行けよ!」

  本当は、傍にいて欲しいけれど。でも、サンダウンはマッドの事が嫌いだ。それなら、傍になん
 ていて欲しくない。嫌悪の眼で見られるくらいなら、遠く離れた場所にいたほうが良い。それでも、
 嫌悪されている事を嘆いてしまうだろうけれど。
  ぐずぐずと布団の中で泣いていると、サンダウンの溜め息が聞こえた。

 「嫌う事ができたら、楽なんだろうがな………。」
 「ふぇっ、俺だって、俺だって、あんたの事なんか嫌いだ!」

  サンダウンの口から零れ出た『嫌い』という台詞に反応して、引き裂かれそうな喉を誤魔化す為
 にマッドはしゃくり上げながらも言い返す。

 「あんたの事なんか、嫌いだ、大嫌いだー!」
 「っ………マッド!」

  しゃくり上げるマッドの台詞に対して、サンダウンの声にはっきりと苛立ちが籠った。それと同
 時に布団を引っ張っていたサンダウンの腕にも力が入り、遂にはマッドから布団を剥がす事に成功
 する。
  いきなり泣き顔を露わにされたマッドは、ひぇっと小さく叫ぶ。が、そんなマッドなど意に介さ
 ず、サンダウンはマッドに覆い被さる。広い手でマッドの泣き濡れた頬を包み、泣き過ぎて腫れぼ
 ったくなった眼を覗き込む。

 「…………本気で、言っているのか?」
 「ほ、本気だぞ!俺はあんたの事なんか、嫌いだ!」

  途端に、サンダウンの眼に先刻と同じ怒りが灯る。それを見てマッドはびくりと震えた。だが、
 サンダウンが圧し掛かっている所為でマッドは何処にも逃げられない。
  泣きぬれて無様な顔をサンダウンに曝していると、その顔に苦り切ったサンダウンの声が落ちて
 きた。

 「あれほど、私の事を好きだと言って、否定すれば怒ったくせに?今になって『嫌い』だと?」
 「だって、あんたが俺の事を嫌いだって言うから……っ!」
 「言ってない。」

  サンダウンは苦り切った声で、それでも淡々とマッドの誤りを指摘する。だが、マッドはぶんぶ
 んと首を横に振る。

 「言った!」
 「言ってない。むしろ、私は4回もお前に『嫌い』と言われているわけだが。」

  しかも、うち一回は『大嫌い』だった。
  不機嫌そうに呟いて、サンダウンはマッドの身体を抱き締める。肩と腰に腕を回し、耳元に唇を
 添えて、吐息と共に言葉を吹き込まれる。




 「本当に……あのままお前を放り出す事が出来ればどれほど楽だったか。」




  卑怯者と罵しられて、血の気を失って自失したマッドを、路地裏に放り出して、立ち去ってしま
 えたら、どれほど楽だったか。だが、それが出来なかったのは、弱ったマッドが他の誰かに襲われ
 たり、或いは他の誰かに慰められたりしている姿を許す事が出来なかったからだ。
  マッドがどれほど卑怯にサンダウンから逃げ惑い、自分を守ろうとして、それにサンダウンが苦
 い思いをしたとしても、最終的にマッドを手放すという選択肢はサンダウンの中にはない。大体、
 マッドがサンダウンを想っている事は本人の口と態度から明白なのに、にも拘らずそれを手放すな
 ど愚の骨頂だ。
  尤も、予定では恋人になるはずのマッドは、未だにサンダウンの腕の中に飛び込んで来ないのだ
 が。

  サンダウンは、まだしくしくと泣いているマッドを抱き締めて、自分の言葉の一語一句に身を震
 わせる様子を腕で感じる。ぎゅっと抱きしめながら、サンダウンの声に神経全てを使って耳を傾け
 るマッドに、サンダウンは苦さを堪えて、出来る限り優しく囁く。

 「マッド、お前が想いを否定されれば怒るように、私も信じて貰えないのは辛い……。」

  まして、勘違いだと言われた挙句、嫌いだとまで言われるなんて。
  何故、本来ならば両想いと言われても良い状態なのに、こんなふうに擦れ違わなくてはならない
 のか。

 「うう、やだぞ、俺は、そんな美味い話には乗らないぞ。」
 「人を詐欺師のように言うな………。」

  というか、騙すのならば、もっと上手くやる。こんな無様に怒り狂ったりはしない。そもそも、
 これほどまでに感情を露わにする相手など、マッド以外にいないのに、それが分からないのか。

 「マッド………辛いんだ。」

  自分の声が、他人に届きやすいとは思わない。むしろ、届きにくいほうだろう。ましてサンダウ
 ンは言葉が少ない。言葉を惜しむわけではないが、どういう言葉を相手に伝えれば、相手が受け取
 りやすいのか分からない。普段はそれでも構わないと思っていたが、けれどマッドにまで届かない
 のは、喉を掻き切られるよりも辛い。
  だが、どれだけ辛くても、そんな思いをしても、マッドからは離れる事ができない。

 「お前から、離れたくない……。」

  しくしくと泣き続けるマッドに、まだ届くには足りないのかとサンダウンは何度も足りない言葉
 を繰り返す。