マッドは困ったように窓の外を見ていた。しかし、いくら見つめたところで窓の外の風景が変わ
 る事はない。

  荒野のど真ん中で、突然の雨にやり込まれたのは、既に三日前の事。いつもは乾燥していて水気
 のない気候だが、時折、堰を切ったかのような豪雨に見舞われる事がある。しかしそれは基本的に
 は半日とかで終わり、後は何事もなかったかのように、いつものからっとした天気が続くのだ。
  だが、今回の雨は、普段と様子が違っていた。
  いつもならあっと言う間に遠ざかるはずの雨脚は、一向に何処かに立ち去る気配を見せず、マッ
 ドが雨から逃れる為に駆け込んだ小屋の周りをぐるぐると見回っている。おかげで小屋の中は湿っ
 ぽく、日が差さない所為で冷たくなっている。
  そんな薄暗い天候のおかげで、マッドの気は重く、思わず小さく溜め息を吐いてしまった。
  すると、部屋の隅にいたもう一つの気配が、のそのそと近付いてくる。湿っぽい天候以外の――
 いや天候以上に、マッドの気を重くさせている気配の接近に、マッドは身を硬くし、咄嗟に逃げよ
 うかと視線だけを巡らせた。
  だが、狭苦しい小屋の事。逃げる場所などありはしないし、逃げる時間を稼げるほど距離が離れ
 ているわけでもない。
  マッドが立ち上がる暇もなく、のそのそと背の高い影は近付いて、ぺったりとマッドに張り付い
 た。途端に、湿っぽかったはずの空気の中に乾いた風が巻き起こって、葉巻の匂いが薫る。

 「どうかしたのか………?」

  マッドの溜め息に惹かれてやってきたサンダウンは、窓辺にいるマッドを背後から抱えると、あ
 やすような口調で低く囁く。その行為に、少しだけびくっとすると、背後でサンダウンが笑う気配
 がした。
  マッドが小屋に閉じ込められてはや四日。その期間、マッドの事を『欲しい』と囁いてずっと付
 けてきた男が、やっぱりずっと傍にいる。一緒に雨にやり込められたのだから、当然といえば当然
 だ。
  最初の内は、二人っきりで密室に――宿とは違って周囲に人気はなく、荒野と違って逃げられる
 場所もない事もあって――籠る事に、マッドは当然の如く抵抗した。サンダウンに焦がれている、
 そしてマッドを『欲しい』というサンダウンの言葉を信じる事が出来ないマッドにしてみれば、そ
 れは地獄の釜で茹でられるよりも厳しい拷問だ。実際、マッドの顔は釜で茹でられたタコのように
 赤くなっている。
  しかし、慣れとは恐ろしいものである。三日間、サンダウンが夜寝る時でさえ離れてくれなかっ
 た事も功を奏した――と言うべきかどうなのか分からないが――のかもしれない。サンダウンが触
 れるだけで、ふるふると震えていたマッドは、触れられた直後にびくんと反応する事はあっても、
 萎縮する事はなくなった。
  そんなマッドの様子に、サンダウンは満足そうに深く抱え込んで、肩を抱いて窓縁からマッドを
 引き離す。

 「冷えるだろう……。こっちに来い。」

  この三日間、夜毎そう告げられてベッドの中に引き摺り込まれた事を思い出し、マッドは暗がり
 の中でも分かるほど顔を赤くした。
  『無理強い』はしない、と告げた通り、サンダウンはベッドの中でもマッドを抱き締めるだけで
 何もしてこなかった。雨によって紡ぎだされる冷たい空気からマッドを守るように毛布で包み、そ
 の上から抱き竦め、時折優しく眦に口付ける他は。
  別に何をやらかしたわけでもないのに、その時の事を思い出したマッドは、思い出すにつれて頭
 から湯気が出そうなくらい身体が熱くなってくる。そしてそんな自分の状態は、こうして張り付く
 サンダウンには知れているに違いない。

 「止めろよ、女じゃねぇんだ。」

  だから、なんとかしてサンダウンから離れようと、咄嗟に思いついた口実を口にして、サンダウ
 ンの腕を振り解こうとする。
  が、その瞬間サンダウンがむっとするのが気配で伝わってきた。あっと言う間に身体を反転させ
 られて向かい合わせになり、顎を取られて視線を合わせられる。そして青い視線が、甘さの欠片も
 ない表情でマッドの顔を覗き込んだ。
  その真剣な眼差しに、ひくんと震えると、薄く口付けられた。触れる程度のそれはすぐに離れ、
 代わりに視線と同じくらい真剣な声音が耳朶を打つ。

 「……お前を女の代わりにした覚えはない。」

  その声と同時に身体が宙に浮く感覚がマッドを襲った。えっ?と思っているうちに、ぼすん、と
 身体は何処かに着地する。ただし、視界は横を向いているから身体は倒れているらしい。と、マッ
 ドが現状を把握している間に、サンダウンが覆い被さってきた。もふっと音を立てたクッションに、
 どうやら古びたソファの上に倒れているらしいと理解する前に、サンダウンが身体の上にいる状態
 に、マッドは焦る。

 「おいっ!?」
 「何もしない。」

  身の危険を感じるマッドに、サンダウンはそう言い捨てるが、しかし乗り上げた身体が退く様子
 はない。むしろ、ぴったりと体重を掛けてくる。もはや身体の間に隙間はない。
  何が何もしない、だ。非常にその言葉に疑いを持っていると、サンダウンはマッドの額や頬に口
 付けを落とし始めた。どの辺が何もしていないのか。

 「大分、懐いたと思っていたんだが………。」
 「な、懐くって何だよ!」
 「触れても怯えなくなった。顔は赤いが………。」
 「うううう、うるせぇ!」
 「だが………。」
 「っ………!」

  突然息が詰まるくらいに強く抱き締められ、唇を塞がれる。先程の薄い口付けとは違い、呼吸を
 奪うほど激しい口付けだ。口の中は全て舌で侵され、サンダウンに触れられていない場所はない。
 逃げようとしてもサンダウンは何処までも追いかけてきて、マッドは息苦しさのあまりサンダウン
 のシャツに縋って、眼元を潤ませた。そうしてようやく解放される。

 「っは、何、すんだ………っ!」

  唐突なサンダウンの行為に――しかも無理強いはしないと言った癖に――マッドは潤んだ眼のま
 まサンダウンを睨みつける。すると、再び口付けられる。先程の激しさに怯えて身を硬くすると、
 今度はすぐに離れた。

 「………そろそろ、信じてくれ。」

  マッドを見下ろす青い視線に、初めて何か別の色が浮かんだ。相変わらず荒野の空のように強い
 青だが、それは晴天ではなく、何かが起こる直前の色を湛えている。その眼に見惚れて、けれども
 頷かないマッドに、サンダウンの口から溜め息が零れた。
  そして、再びマッドの身体が宙に浮く。

 「わっ?!」

  再び、ぼすんと着地する身体。今度はちゃんと視界は縦を向いている。だが、何故かマッドの視
 線がサンダウンよりも高い。なんで、と思って見下ろしていると、その理由に気付いてマッドは再
 び顔を赤くする。マッドはソファに座っているサンダウンの膝の上に乗せられてるのだ。

 「お、降ろせよ!」
 「駄目だ。」
 「なんで?!」

  無理強いはしないって言った癖に、言った癖に!
  しかも自分から降りたくても、サンダウンに肩と腰をがっちりと掴まれているので、降りられな
 い。自分の現状に頬を赤く染めているマッドをサンダウンは見上げると、その頬を優しく撫でる。

 「マッド、私は、お前が欲しいんだ。女の代わりなど、いらない。」

  マッドを見上げてくるその眼に、縋るような色がある事に気付き、マッドは一瞬うろたえた。う
 ろたえている間に、サンダウンはきゅっとマッドを抱く腕に力を込める。

 「………私には、お前しか、いないんだ。」 
 「あ………。」

  すぐ耳元で吹き込まれた声には、真剣さや甘さや硬さよりも、切なさが深く籠っている。その響
 きに、思わず胸が疼いた。マッドを強く囲う腕の体温も温かくて、その言葉に抱き付いてしまいた
 くなる。
  それに、此処は雨が囲う小屋で、町中の喧騒からも程遠い。静寂がいっそう、サンダウンの声の
 響きを引き立てる。
  何処にも夾雑物のない、二人だけの空間。

  ………二人っきり?

  ふと、マッドの中に、硬いものが過ぎった。
  サンダウンは『お前しかいない』と言った。でも、それは、単純にマッドしかサンダウンの周り
 にいないからではないのか。世界中の人間が死に絶えて、二人だけで生きていくとなったら、人間
 ならばどうしたって自分以外の唯一の相手を求めるだろう。サンダウンの言葉は、それと同じでは
 ないのか。
  多分、そうだ。
  荒野を一人で生きる男が、偶々傍にいる人間に情を傾けただけの事。きっと、もしもサンダウン
 の周りに他の、例えば普通に娼婦や街娘がいたなら、今マッドに向けられている情は、そちらに向
 かうだろう。

 「マッド?」

  急に黙り込んだマッドに、サンダウンが訝しげな声を掛ける。だが、マッドはそれには答えずに
 サンダウンの腕に手を掛けて首を横に振って拘束を解くように促す。

 「マッド?」

  もう一度、サンダウンが名前を呼んだ。その声には、急に頑なになったマッドに、理由を求める
 響きがある。しかし、マッドはそれに首を横に振った。

 「なんでもねぇよ。少し、眠くなっただけだ。」
 「…………。」

  本当は眠くはないけれど、けれど少し横になって考え事をしたい。サンダウンの想いがただの勘
 違いであると分かった以上、これから先の事を考えておきたい。出来る事なら、サンダウンが早い
 ところその勘違いに気付いて、これ以上無為な事をしないように。そしてマッドがサンダウンの言
 葉で心臓を抉られないように。

  考えながら、マッドはこれから自分に襲い掛かるであろう痛みを想像して、小さく溜め息を零し
 た。