背後から立ち昇った気配に、マッドは思わず「きゃっ」と叫んだ。
  いや、その叫び声はどうなんだ、と自分で突っ込もうにも、じりじりと近付いてくる気配の所為
 でそれどころではない。
  咄嗟に逃げだそうと、足をもつれさせながら走ろうとしても、それよりも早く先程までゆっくり
 と近付いてきていたはずの男が一気に距離を詰めて、マッドの腕を掴んでしまう。

 「何故、逃げる………。」

  不機嫌そうな男の声にマッドが身を竦めると、やれやれと溜め息が聞こえた。その音にますます
 身を硬くすれば、こちこちになった身体を引き寄せられて、きゅっと抱き締められた。

 「そんなに、怯えるのは、止せ。」

  まるで嫌われているみたいだ、と呟くサンダウンに、何を言ってるんだ、とマッドはぎゅうっと
 眼を瞑って思う。
  マッドはサンダウンを嫌ってなどいない。それは以前、望まぬ形で告げてから、全く変わってい
 ない事実だ。むしろ、いっそ嫌いになればどれだけ楽だろうかと思う。嫌いになれば、気配を感じ
 ただけで心臓が痛む事も、声を聞いただけで息が上がる事も、名前を呼ばれただけで全身が真っ赤
 になる事もなかったはずだ。
  こうして抱き締められている間、まるで萎んだスポンジのように縮まる必要もない。
  それが、分からないのか。

 「マッド………。」

  耳元で、耳朶を舐めるようにして低く囁く声に、マッドはいよいよ身を小さくする。まるで、愛
 されていると勘違いしてしまうような声に、身の置き場がなくなるような心地になりながら、マッ
 ドは嵐が通り過ぎるのを待つように身体を丸める。
  だが、サンダウンはそれを許さない。俯いたマッドの顔を両手で挟み込むと、無理やり顔を上げ
 させる。決して乱暴ではないが、抵抗を許さぬ力の籠った手は、マッドの想いなど無視してマッド
 の情けないくらい真っ赤になった頬をサンダウンの下に曝す。
  真っ赤に上気したマッドを見て、サンダウンは何と思ったのか。ふっと笑った賞金首に、マッド
 はその手を振り払って逃げ出したい気持ちに駆られる。尤も、それをしたからといってサンダウン
 に許されるわけがないのだが。
  サンダウンが、羞恥で頬を染めたマッドの様子を可愛らしいと思っている事など、想像もしない
 マッドは、赤い顔をサンダウンに見られてますます恥ずかしく思って、顔を更に赤くする。ともす
 れば熱を持って瞳も潤み始めた。
  すると、サンダウンの顔が降りてきて、マッドの眦に唇を落としていった。その行為に、マッド
 は再び「きゃっ」と叫ぶ。が、サンダウンはそんなマッドの悲鳴など聞こえなかったように、マッ
 ドの茹でダコのような色合いの顔の隅から隅まで口付けていく。

 「マッド、お前が欲しいんだ。」

  その口付けの合間合間に落とされる言葉は、マッドの熱を持った顔と同じくらい、熱っぽい声音
 をしている。熱射病にやられた時のように、思わずくらりとなって、マッドはぶんぶんと首を横に
 振る。

 「し、信じねぇぞ、そんなの!」

  今までマッドの事など歯牙にも掛けて来なかった男が、急に掌を返したかのようにそんな事を言
 ってくる。どれだけ決闘を申し込んでも軽くあしらうばかりで狙点を合わせようともしなかったく
 せに。
  サンダウンにしてみれば、好きな相手に銃口を向けて撃ち殺せるか、と言ったところなのだが、
 生憎と、マッドにはそこまで考えるだけの余裕はない。
  唇まで奪おうとする男に、マッドは流されるもんかと身を捩ってその腕の中から逃れようとする。
 その様子に、サンダウンの青い眼に苦いものが走った。それを見て取ったマッドは、再び身を竦ま
 せる。その隙に、サンダウンはマッドを拘束する。

 「あ………。」
 「マッド………。」

  再びしっかりと抱き竦められて、マッドは戸惑った声を上げるが、その声がきちんとした音にな
 り切る前にサンダウンがマッドの名前を呼ぶ。ただし、『欲しい』と告げた時のような熱っぽい声
 ではなく、何処か硬さのある声音だった。
  その声に、マッドはぎくりとする。もしかして、怒らせたのだろうか。
  サンダウンが熱っぽくマッドを求める声はとてもではないが信じられないが、けれど逆に酷く硬
 い声を出されるのもマッドへの拒絶を形にされたようで身を竦ませてしまう。例え覚悟している事
 であっても、実際に拒絶をされると心は嫌でも痛むのだ。
  なんて我儘な、とマッドは自嘲する。
  けれど、もしもサンダウンを信じて、それが嘘だと分かったなら、きっと自分は廃人になってし
 まう。そしてそうなっても、サンダウンを嫌いになる事は出来そうにない。

  どうする事もできないまま立ち尽くすマッドの身体に、サンダウンはその強張りに気付いたのだ
 ろう。労わるようにマッドの黒髪に指を差し入れては撫でていく。けれど、声は硬いままだ。それ
 を真摯と思うには、マッドの心は萎縮しすぎていた。

 「マッド、何故、信じられない?」

  強い拘束下で囁かれ、マッドはただ首を横に振る。何故と言われても、それは一言では言えない
 し、何よりも口にするのは自分の弱さをひけらかすようで、酷く躊躇われた。

 「………怖いのか?」

  そう、確かに怖い。だが、それも一概に何が怖いとは言えない。信じてサンダウンに全部委ねて
 しまいそうな自分も怖いし、それをした後、実は嘘だったと言われた時の衝撃も恐ろしい。
  めくるめく恐怖の姿形に言葉を失って黙りこんでいると、サンダウンの口から溜め息が零れた。
 その溜め息一つにさえ、自分への侮蔑が込められていないかと恐怖する。

 「仕方がない………。」

  溜め息と共にそう呟いたサンダウンは、優しくマッドの頭を軽く叩いた。

 「お前が、私を信じないのは、仕方がない………。私にも責任があるかもしれないからな。」

  だから気長に待つが、と区切って、賞金稼ぎはしかしと続ける。

 「そうやって、怯えた素振りを見せるのは、止めろ。」

  強張ったマッドの肩を抱き、それを解すようにかさついた指先がなぞっていく。しかしその仕草
 にさえマッドは身を竦めてしまう。

 「信じる信じないは、お前一人の責任にはならない。だから、お前が信じるまで待つ。だが、それ
  ならお前も、そうやって怯えるのを止めてくれ。」
 「そんな事、言ったって………。」

  サンダウンの声音一つで心が揺れ動くほど、どうにかなってしまっているのに。サンダウンの声
 に苦いものが混じっていたら、その眼差しが硬ければ、この身体は自然に強張ってしまう。それに、
 怯えはマッドにとっては、切り裂かれる事への予測だ。もしもサンダウンの仕草に怯えなくなれば、
 『その時』が来た場合、身構える暇もなく致命傷を与えられてしまうだろう。
  そんなマッドの心を呼んだわけではないだろうが、サンダウンはマッドの顎を掴んで顔を上げさ
 せるとその顔を覗き込んで、

 「怯える理由が分からないでもないが………。」

  マッドがその眼の青さに言葉を失っていると、素早く耳朶を濡らすように囁く。

 「抱きたいと思っている相手に、怯えられるこっちの身にもなってくれ。」
 「だっ………?!」

  耳元で聞こえた直接的な言葉に、マッドは今度こそ全身を赤く染めた。