マッドは本日幾度目かも分からない溜め息を零す。
  愛馬であるディオの首筋に顔を埋め、顔を隠すようにしてから、もう一度、大きく溜め息。その
 呼気に、ディオはちらりと己が主に目線をやったが、特にそれ以上の反応を見せるでもなく、主人
 の溜め息を淡々と受け止める。
  マッドがこんなふうに、溜め息を日に何度も吐くようになったのは、つい最近に始まった事では
 ない。数か月前から、ずっと続いている。そしてそんなマッドの変調に、誰よりもマッド自身が気
 付いていた。

  どうしよう。

  西部一の賞金稼ぎは、普段の強気からは到底想像もできないような弱気な言葉を、頭の中で何度
 も繰り返していた。ディオから顔を離し、ディオの周りをぐるぐると回って、そして再びディオの
 首筋に顔を埋め、また、大きく溜め息を吐く。そんな事を、ここ数カ月間、マッドはずっと続けて
 いるのだ。

  くそ、それもこれもあのおっさんの所為だ。

  今の自分の現状を、原因である男に向けて罵ってみる。が、その拍子に具体的にその男の姿形を
 思い浮かべてしまい、マッドは更に激しい勢いでディオの首に顔をぐりぐりと押し付ける。
  そう、マッドがこんなふうに挙動不審なのも、溜め息ばかり吐いているのも、間違いなくその男
 ――マッドが日がな追いかけ続けている賞金首サンダウン・キッドの所為だ。

  5000ドルという破格の賞金と、西部では並ぶものがないと言われるほどの銃の腕を持った男を、
 マッドが追いかけるようになってかなりの月日が経つ。
  最初はその賞金額に惹かれて追いかけていたのだが、その銃の腕に翻弄されるうちに、生来の負
 けん気の所為か、どうにかして追い越してやりたいというふうに変化した。
  それに、サンダウンはマッドが欲しいと思っていても与えられなかったものを生まれながらにし
 て持っている。
  自分よりも遥かに荒野に生きる男らしい武骨な手だとか眼鼻立ちだとか、目立たない自分の黒髪
 に比べて、砂色の髪や髭、青い双眸だとか。決してマッドも貧弱なわけではないし、黒髪黒眼だか
 らといって見向きもされないような顔立ちなわけでもない。しかしそれでも、サンダウンの隣に立
 てば霞んでしまうだろう。
  そういった、自分にないものを持っている事に対しての憧れや僻みが、賞金への執着を越えたの
 だ。だから、サンダウンの眼がマッドを見ずに適当にあしらうだけという事実に苛立ちを感じる事
 についても、憧れている相手が自分を相手にしてくれない事に対する子供じみた独占欲だと思って
 いた。

  けれど、いつだったか。
  燃えるような夕日を背中にした男と対峙した時、逆光の中で顔はほとんど見えなかったけれど、
 その中で確かに青い双眸がマッドを射抜いた。
  その瞬間、眼の前が夕日以上に真っ赤に染まり、心臓が痛いくらいに跳ね上がったのだ。
  慌てて眼を逸らしたものの、割れ鐘のように響く鼓動は治まらず、しどろもどろになりながら、
 何とかその場は誤魔化して逃げ出したのだ。

  そう、逃げたのだ。
  賞金稼ぎマッド・ドッグ様とあろうものが、逃げ出してしまったのだ。
  宿に戻って頭からすっぽりと毛布を被って包まっている様は、どう考えても幽霊か何かに怯えて
 縮まっている子供のようだった。
  いや、怯えているだけならまだ良い。膝が震えるほど、立っていられないほど、この心臓が打ち
 震えているのは確かに怯えも混ざっていたが、それ以外にも喜びだとか羞恥だとかが混ざり合って
 いる。感情の坩堝はぐるぐると心臓から頭の中までを渦巻いて、顔から噴き上げそうだ。そう言え
 ば、なんだか顔も熱い。
  恐る恐る毛布から顔を出して、部屋にある姿身を見れば、そこに映っているのは毛布の上に乗っ
 かった自分の顔だ。その顔は、普段は嫌になるくらい白いのに、今はアルコールでも摂取した後の
 ように赤く染まっている。
  それを見た瞬間、マッドは再び毛布の中に潜り込んだ。
  なんであんなに顔が赤いんだ。
  込み上げるのは恥ずかしさ。それに伴って体温も数度上昇したような気がする。幸いなのは、夕
 焼けのおかげで自分の顔の赤さが誤魔化されていた事だ。きっと、サンダウンには気付かれていな
 いだろう。

  けれど、問題なのはこれからだ。
  サンダウンの視界に映されただけで顔を赤くして、息が上がるのは、どう考えても異常だ。こん
 な状態で、どうやってこれからサンダウンの前に行けば良いのか。
  痛いくらいに鳴り続けて止まらない心臓を抱えて、マッドは医者に行った方が良いんじゃないか
 と思う。だが、どうやってこの症状を説明すれば良いのだ。特定の人間に見つめられると頬を染め
 て息が苦しくなる、なんて、それはまるで。
  思いついた言葉に、マッドは毛布の中でじたばたとする。薄々感づいていたけれども、自分の頭
 の中で明確に言葉にしてしまったら、もう認めてしまったようなものだ。しかもそれについて不思
 議と嫌悪感がない自分が怖い。
  いや待て自分。
  しっかりしろ、マッド・ドッグ。
  相手はあのサンダウン・キッドだ。あの髭面のおっさんだ。何日風呂に入ってないのか分からな
 いような親父だ。葉巻と酒の匂いが染みついているような男だ。抱き締めたって固いばっかりで、
 何の味気もないはずだ。そんなのに比べたら、どう考えたって柔らかくて瑞々しい肌の女のほうが
 魅力的だ。指だって節くれ立って、触ってもかさかさして、その癖自分よりも大きくて。
  その指が大きく開いて自分の腕を掴んだところをうっかり想像し、マッドは再び毛布の中で悶絶
 する。
  違う、あの手に憧れた事はあっても、触って欲しいなんて願望は持ってなかった。それが、どう
 して。
  シーツに顔を押し付けて、マッドは低く呻く。そうだこれは間違っている。だから、なんとして
 でも掻き消さねばならない。サンダウンにばれる事は論外だ。赤味の消えない頬が、サンダウンの
 前に曝されるなど死んでも避けなくてはならない。
  だから、当分、逢いに行くのを控えよう。そう思った。



  が。長年の腐れ縁と言うのは、そう簡単に切れないもので。



 「………何をしている?」

  ディオの首に顔を埋めているところに、都合良くサンダウンが通りかかった。しかも、相当怪し
 かったのだろう。普段ならマッドの事など素通りする癖に、わざわざ声まで掛けてきた。
  それだけで心臓が跳ねる自分を叱咤しながら、マッドは殊更低い声を出す。

 「うるせぇ、放っとけ。」

  あんたがいなくなったら治るだろうから、放っておいてほしい。だが、普段は何にも興味を示さ
 ないサンダウンにしては非常に珍しい事に、マッドの様子に興味を示したらしく、わざわざ馬を降
 りてまでマッドに近付いてきたのだ。

 「………どうかしたのか?」
 「どうもしてねぇよ。つーか、あんたには関係ねぇから、だからどっかに行っちまえ。」

  いや、本当は大いに関係があるんだけれど、説明できるわけがない。だから、マッドとしては、
 とにかくさっさとサンダウンに立ち去って欲しいのだが。
  何処までもマッドの意に反する男は、ディオの首筋に顔を呻いているマッドのすぐ後ろにまで
 近付いてきた。

 「マッド………最近姿を見かけなかったが………何かあったのか?」
 「何もねぇ。」

  何かあったとすれば、それはサンダウンが少しでもマッドの事を気に留めていたという事実に喜
 んでいる自分自身だ。本当に、どうかしている。
  だが、サンダウンは取り付く島もない返事ばかりしているマッドに機嫌を損ねたのか、不意に気
 配を変えた。背筋に悪寒が走りそうな気配で、サンダウンはマッドの耳元で囁く。

 「その馬に、何か、されたのか?」

  その馬とはディオの事だ。ディオはかつて憎しみを背負って人間になったという、非常に特殊な
 経歴を持っている。それ故に、いつ何時、何が起きてもおかしくないのだ。そう、サンダウンが考
 えてもおかしくない。
  が、今回ばかりは、それはディオに対する不当な言いがかりだ。

 「ちげぇよ、何もされてねぇ。」
 「それならば、何故ずっと抱き付いているんだ。」
 「別に良いだろ、俺が何に抱き付こうが、俺の勝手だ。」

  マッドは、ぎゅうっとディオに抱きついて、顔を更に強く押し当てる。が、そんな言い分はサン
 ダウンには効果がなかった。サンダウンはディオにしがみつくマッドの様子に微かに顔を顰めると、
 マッドの背後に忍び寄るや、手を伸ばしてマッドの身体を掴んでディオから引き剥がす。
  サンダウンに触れられた瞬間に、びくぅっと反応したマッドはその瞬間にディオに抱き付く力を
 緩めていたので、引っぺがす事に対して力はいらなかっただろう。
  引っぺがされたマッドは、くるりと身体を反転させられ、サンダウンと向き合う形にさせられる。
 何するんだ、と怒鳴ろうとして顔を上げた瞬間、思いのほかサンダウンの顔が近くにあって、マッ
 ドは喉から心臓が飛び出すかと思った。
  ひっと喉の奥で引き攣れたような声を上げ、慌ててサンダウンの青い眼から眼を逸らす。
  その様子に、だがサンダウンは眉根を顰めるよりも眼を瞠った。

 「………熱でもあるのか?」

  その台詞に、マッドは自分の顔がやっぱり赤くなっている事を悟る。そしてこれ以上サンダウン
 にそれを見られないようにと顔を背けながら、短く吐き捨てた。

 「単に、寝不足なだけだ。」

  それは本当の事だ。最近、ずっと、眼の前にいるおっさんの事ばかり考えて、夜眠れていない。
 だが、サンダウンは納得できないのかマッドを解放しようとしない。

 「だが、顔が、熱い。」

  ひたり、とかさついた手がマッドの赤い頬に当てられる。その瞬間、マッドの頭の中は沸騰した。
 ひぃいいいっと声にならない声が、くるんくるんと全身で回っている。
  というか、顔が近い。頬に触れていないほうの腕は肩に回されて、まるで抱かれているような状
 態だ。

 「マッド………?」

  呼気が顔に当たる。葉巻と酒の匂いが何処からともなく漂ってくる。青い双眸は間近に迫ってい
 て、触れられたところ――特に頬から感じる熱が半端ではない。一気に流し込まれるサンダウンの
 情報に、マッドの心臓は全力疾走した後以上に煩く鼓動を打っている。

 「マッド、どうした?」

  耳に入ってくる低音が。

  ――もう、無理。

  日頃の寝不足と、情報量の氾濫に流されて、マッドの意識は現実逃避の道を選び、敢え無く闇の
 中に沈み込んだ。





  きゅう、と失神したマッドを腕に抱え込み、サンダウンは溜め息を吐いた。
  ここ数日、ろくに会っていなかった賞金稼ぎが、何か物思いに耽っている事はサンダウンも知っ
 ていた。 
  マッドが沈みがちな事は今や西部のあちこちに噂が広まっており、どうやら恋煩いではないかと
 まで囁かれ、それを聞いた賞金稼ぎ達は好奇に満ちた眼差しをし、娼婦達は涙を飲んでいる。
  そしてその噂話を先週末、とある酒場で聞いたサンダウンは、自分の道が暗く閉ざされたような
 気がした。
  マッドは長い間、サンダウンを追い続けている。何もかもを捨てて逃亡しているサンダウンにと
 ってはマッド以外にそんな長い付き合いをしている相手はおらず、少なからずともマッドに情が移
 り始めていた。

  しかし、サンダウンの持つマッドへの情の形は複雑だ。それは、いつか自分を追い抜くであろう
 若者を待ち続ける師のような思いもあれば、見守り続けたいという親のような思いもある。しかし
 同時に、自分以外には誰一人として眼を遣って欲しくないという独占欲もある。
  見下ろしたマッドの顔は、西部には似つかわしくない端正さを持っている。今は閉ざされている
 が、その黒い瞳がえも言われぬ熱と光を秘めている事を知っている者はこの荒野には多く、そして
 その熱を欲しがる者も多い。サンダウンもその一人だ。
  それ故の、独占欲。
  だから、マッドに特定の想う相手がいると聞いた時、酷く薄暗い気分になった。
  マッドには誰よりも日の当たる場所を歩いて欲しい。だから恋人が出来て、その恋人と幸せにな
 るのだと言うのなら、それは喜ばしいことだ。
  だが、そうなればきっと、マッドはサンダウンを追い掛けなくなるだろう。賞金稼ぎとしての生
 き方が、如何にパートナーに負担を掛けるのか、マッドは分からぬ男ではない。サンダウンよりも
 重きを置く相手が出来たなら、マッドは躊躇いなくサンダウンを追うのを止める。
  それは、サンダウンにとっては最後の光が潰える事を意味する。

  出来る事なら、とサンダウンは意識のないマッドの頬を撫でる。
  出来る事ならば、マッドには自分を追いぬくまで、この影を追い続けて欲しい。だが、それを望
 んではならない事を、サンダウンは知っている。ならば、物思いに沈む彼を、少しでも楽にしてや
 れたなら。

 「………誰だ?」

  お前が、眠れぬくらいに想う、その相手は。
  睡眠不足だ、と呟く声を聞いた時、直ぐに思い煩っているが故だと気付いた。そして、この男に
 これほど想われているのは誰なのかと思う。

 「どうせ、お前の事だから、手に入れるつもりなんだろう……?」

  今は思い悩んでいても、きっと手に入れる為に動き始めるだろう。そしてその時は、サンダウン
 の事など忘れてしまっている。
 
 「…………その前に、撃ち抜かれてやろうか?」

  耳元で囁いても、意識のないマッドは身を竦めただけで返事をしない。その姿にもう一度溜め息
 を吐いて、サンダウンはマッドを抱き上げた。

  その背後で、ディオが、ふんと鼻息を荒くした。