きぃきぃと何かが軋むような音が、静寂に満ちた街に響いている。
  
  枯れたようなタンプル・ウィードと、水気のない軽い砂だけが訪れるそこは、黄金の波が去って久しいゴー
  
 スト・タウンだ。風の音ばかりが主張するその中で、小さく鳴り響くそれは、やはり風によって何かが揺らさ
 
 れる音だった。
 
  ただし、乾いた風を受けてふらふらと揺れるそれは、置き去られた看板が揺れる音でもなく、壊れた扉が誰
  
 も迎えないままに開閉する音でもない。
 
  かつてホテルだったらしい、周囲の家に比べればやや大きい造りとなっているその家屋の、いまだ頑丈そう
  
 に残っている二階の窓の縁から、それはだらりとぶら下がっていた。窓枠に巧妙に張り巡らされた荒縄が、そ
 
 れに巻きつき、自重に従って垂れさがったそれが風で揺らされるたび、窓枠と擦れ合って、先程からきぃきぃ
 
 と音を立てているのだ。
 
  だらんと垂れさがった二本の脚の間から、ぽたりと濁った滴が落ちて行く。排泄物の臭いがするその滴は、
  
 しかし幸いにして乾いた風で全て拭い去られてしまう。
 
  ぶらぶらと間抜けに揺れる男の身体から少し離れた場所で、繊細な指先が甘い香りのする煙を、送り火のよ
  
 うに灯していた。
  






  

 Sera, tamen tacitis Poena venit pedibus.














  マッドがその男を捕えたのは、確か二週間前の事だった。
  
  賞金額は2300ドル。
  
  罪状は強盗と暴行と強姦と殺人と。
  
  この世にある、ありとあらゆる罪をし尽くしてきたような男だった。しかも殺した相手はほとんどが武器を
  
 持たぬ娼婦達だった。
 
  武器を持たぬ者を撃てば、それだけで縛り首になる。それが西部の絶対の掟だ。銃を持っていても、相手に
  
 戦意がなければ撃つ事はできない。そんな相手を背後から撃っただけでも謗られる。
 
  にも拘わらず、この男はそれら全ての罪を犯して、しかも遂には女達にまで手をかけた。
  
  金を出して買えば良いものを、襲って無理やり犯した揚句、殺す。そんな反吐が出そうな犯罪者だった。
  
  
  
  だから、マッドはこの男を捕えた。
  
  そう、撃ち落としたのではなく、生け捕りにしたのだ。
  
  縛り首になる事を見越した上で。
  
  
  
  西部のガンマンにとって――ガンマンでなくとも――縛り首は最大の不名誉だ。ガンマンであるならば、縛
  
 り首になるくらいならば最後まで抵抗して、銃で撃ち落とされる事を選ぶ。
 
  賞金稼ぎの中にはそういう考えの者も多く、そして賞金首の中にも多い。現にマッドは、逃げ切れない事を
  
 悟った賞金首から、撃ち殺される事を請われた事がある。その願いを時に聞いてやる事もあるが、しかし今回
 
 ばかりはその願いを聞いてやる事は出来なかった。
 
  
  
  マッドは決して正義感溢れる存在ではない。
  
  西部一の賞金稼ぎの座にいる彼は、確かに冷酷非道な性格ではなかったが、決して心優しき存在でもない。
  
 賞金稼ぎの頂点の座は、正義感だけで切り開ける場所ではなく、むしろ血で贖われたその玉座は正義感などと
 
 いう清廉潔白な存在には耐え難いものだろう。
 
  その、血の滴り落ちる場所に平然として座っていられるマッドは、ただただ冷徹で、事実を冷然と見極める
  
 慎重さと、しかし同時に事実に対して躊躇いなく断罪を下す苛烈さを持っていた。
 
  冷徹な彼は正しく賞金首の喉元に食らいつき、そしてその罪に見合った刃を下すのだ。
  
  生け捕れるようなコソ泥まがいの犯罪者なら正しく生け捕りにし、保安官に突き出すし、最後まで抵抗する
  
 ような凶悪な犯罪者の場合はさっさと撃ち殺してしまう。生け捕りに出来るが縛り首になるであろうレベルの
 
 犯罪者ならば、請われたなら撃ち殺す。
 
  そして、最後まで抵抗しようが撃ち殺してくれと請われようが、生け捕りにして縛り首にするべきだと判断
  
 した場合は、どんな手段を使っても、生け捕りにする。
 
  それらの判断について、マッドは正義であるなどとは微塵も思ってはいない。
  
  何故ならば、マッドはそれが自分の気まぐれである事を良く知っているからだ。
  
  
  
  そして、この男については、最後まで抵抗しようが、撃ち殺せと請われようが、縛り首にするべきだと判断
  
 した。
 
  丸腰の相手を殺すような人間だ。女を犯した揚句殺すような男だ。両手足打砕いて、その股間を撃ち貫いて、
  
 そのまま縛り首にしても良いだろう。
 
  だから、綿密に罠を張って、捕えた。罠にかかった後も喚き立てる顎を蹴り飛ばし、黙らせて、保安官のと
  
 ころまで連れて行った。荒縄引っかけた男を牢屋に放り込んで、代わりに2300ドルの札束を受け取った。2300
 
 ドルの価値もない男だったが、しかしその金は仕事の代償として受け取った。
 
  それで終わり。
  
  そのはずだった。
  
  
  
  一週間後、その男が平気で街をふらついていなければ。
  
  
  
  男を裁いた検事は、実は男と旧知の仲だった。だから、男に有利な方向に裁判を進めたのだ。そして、男は
  
 一週間の、たった一週間の禁固刑で再び西部の荒野に放り出されたのだ。
 
  賞金稼ぎの仕事は保安官に賞金首を突き出すまでだ。検事のする事にあれやこれやと口出しする事はできな
  
 い。所詮は、保安官とは違い、何の法的効力も持たぬ存在なのだから。
 
  
  
  しかし。
  
  
  
  マッドの耳に、再び男が女を殺したという話が飛び込んできた時、西部一の賞金稼ぎの玉座が勢いよく軋ん
  
 だ。それは血で贖われた玉座で、しかも何の法力も持たず、むしろ賞金首の呪詛と汚れた札束だけしかないも
 
 のだ。
 
  だが、もしかしたら保安官よりも検事よりも処刑人のそれよりも、滴り落ちる血の量は多いかもしれない。
  
 そしてそれは、それだけ、滴る血の持ち主達によって巻き起った人々の嘆きが多かったからに他ならない。
 
  確かにこの座に正義の御旗はない。が、同時に嘆きの最後の砦でもある。その嘆きの砦が、たかだか悪党と
  
 手を組んだ検事如きに突き崩されては、荒野の嘆きは深まるばかりだ。
 
  
  
  だから、マッドは男を誘いだした。
  
  男が荒野に解き放たれた責任はマッドにはないが、けれども最初はマッドの獲物だった男だ。ならばマッド
  
 が蹴りを着けるしかない。
 
  誰もいないゴースト・タウンに、複雑な罠を仕掛け、男をそこに嵌める。だが、もう保安官に突き出したり
  
 はしない。そんな事をしてもまた逃げ出されるだけだ。
 
  だが、撃ち殺す気にもならない。あんな男の身体に撃ち込まれては、鉛玉も迷惑というものだろう。
  
  だから、その為の、罠だ。
  
  
  
  マッドが張った罠の上に、不意に背の高い影が覆いかぶさる。
  
 いや、さっきからマッドも気づいていた。特にどちらも気配を隠そうとしていなかったから、当然と言えば当
 
 然の話。だからマッドも特に驚かず、低い声で何の用だと聞いただけだった。
 
  問われたほうと言えば、少し沈黙した後に、やはり低い声で囁いた。
  
  
 
 「…………仕事か?」
 
 「見りゃわかるだろ。」
 
 「…………それを、他の賞金稼ぎ達は知っているのか?」
 
 「さてな。」
 
 「…………随分と忙しい玉座だ。ふんぞり返る暇もないか。」
 
 
 
  尤も、だから、マッドにしか、座れないわけで。
  
  
  
 「は、あんたが何かしてくれりゃいいんだけどな。」
 
 
 
  己の対極に位置する玉座に座る男に、マッドは笑い含みの声で言う。むろん、マッドは自分の言った言葉が
  
 本当にできるとは思っていない。西部一の賞金首は、孤高だ。群れずつるまず。犯罪者ギルドがあったとして
 
 も、決してそこには属さないだろう。
 
  マッドも何処にも属さないが、それでも賞金稼ぎである以上、仲間というものはある。だが、西部一の賞金
  
 首は、誰にも寄りかからない。
 
 
 
 「で、あんたは何をしきにたんだ。」
 
 「…………何も。」
 
 「暇だな。ま、俺の邪魔をしなけりゃ、俺はかまわねぇよ。」
 
 
 
  そしてマッドはひらりと立ち上がり、街の入り口を見た。
  
  
  
  マッドに誘い出された男は、あっさりと姿を現した。マッドをせせら笑いに来たのかもしれないし、あわよ
  
 くばマッドを組み敷こうとしたのかもしれない。
 
  だが、そんな男を迎えたのは、精密に彼を追い詰める鉛の嵐だった。姿を隠したマッドは、何処からともな
  
 く男から微妙に弾道を逸らし、時に全く見当違いの方向に火炎瓶を放り投げて炎を吹き上げ、場を撹乱する。
 
  そして最後に追い詰めたのは、ホテルらしき建物の中。二階へと追い上げ、炎と鉛玉で、目的の場所へと誘
  
 導する。炎で行き場を失った男は、迫る銃声に躊躇う事なくその部屋に逃げ込む。
 
  そこは、マッドが張り巡らせた罠の只中。
  
  
  
  じり、と荒縄が焦げる匂いが鼻孔を擽った。その匂いにうっとりと首を傾げ、マッドは掌の中で遊ぶように
  
 銃を掲げ、男を見る。
 
 
 
 「よう、一週間ぶりだな………。」
 
 「てめぇ、マッド………。」
 
 「俺に呼び出されてのこのこくるなんざ、てめぇも馬鹿だな。こうなる事くらい分かってただろうが。」
 
 「馬鹿言っちゃいけねぇな。俺は公正な法の判断のもと、釈放されたんだぜ?たかが賞金稼ぎに、それが覆せ
 
  るとでも思ってんのか?」
  
 「いいや。」
 
 
 
  マッドはあっさりとそれを認めた。
  
  
 
 「賞金稼ぎは所詮賞金稼ぎだ。俺は確かに保安官に顔も利くが、検事の判断にまで口出しはできねぇ。」
 
 「そこまで分かってるんなら、こんな事してただで済むと思ってねぇよな?$」
 
 
 
  じっとりとした目つきで舐めまわされて、マッドは一層媚びた笑みを浮かべた。
  
  
  
 「ああ、そうだな。でも、死人に口なしって言うよなあ?」
 
 
 
  同時に爆ぜる銃声。ただしそれは男の身体を逸れている。代わりに、窓の外に張ってあった荒縄を引き千切
  
 っただけだった。
 
  その弾道に、男は哄笑する。
  
  
 
 「何処狙ってんだ、ああ?なあマッド・ドッグ様ともあろうものがよ!」
 
 「ああそうだな。てめえの身体に一発も銃弾を撃ち込みたくねぇんだよ………汚れそうで。」
 
 
 
  その声は、ひやりとしていた。
  
  その瞬間に噴き上げたのは、先程までの媚びた甘ったるい笑みではない。身体の芯から凍えそうな、氷柱の
  
 如き視線だった。
 
  同時に、ひゅん、と風を切る音がして何かが窓枠から飛んできた。それは、先程マッドの銃弾が引き千切っ
  
 た荒縄に繋がれていたものだ。千切れた荒縄の先端には小石がついており、その重みもあってか眼にも止まら
 
 ぬ速さで部屋の中に飛び込んできた。
 
  まるで、限界まで張り詰めた弓の弦が、千切れた事で勢いよく弾けるように。
  
  千切られた荒縄は張り詰めた弦であり、しかもちょうど、小石が括りつけてある部分が千切れたのだ。小石
  
 の重みで勢いは増すばかり。
 
  しかもそれは、一本や二本ではない。そう、マッドは部屋全体にそれを張り巡らせていた。そしてそれは、
  
 火炎瓶による炎で引き千切れ、あっという間に発動した。部屋の入口にいたマッドはすぐに部屋の外に出て避
 
 難し、そして部屋に残された男の身体にはロープが巻きついている。そして非情な事に、巻きついたロープの
 
 小石のついていないもう一端には、重しがついていた。ロープが巻きついた後、窓の外に引き摺り出せるよう
 
 に。けれども窓の外に落下しないように、一本の棒を重しのついた一端と、小石についた一端の間に渡してい
 
 る。
 
 
 
  そう、井戸の釣瓶落としと同じ要領で。
 
 
 
  尤も、その重しを発動させるには、意味がない時に重しが発動しないようにロープを固定している支えを壊
  
 す必要がある。それは銃の一撃で壊せるもので。
 
  だから、マッドは、一つのロープが男の首に巻きついた時に、その支えを破壊した。
  
  あっと言う間に、男の身体が窓へと引き摺られ、そして首を支えにして、ロープを通している窓の上枠へと
  
 上昇する。床には、男が引き摺られた跡が残っている。それと、信じられないものでも見たかのような男の表
 
 情が。
 
  けれどマッドはそれを無表情に見やっただけだった。もう、銃も掲げない。
 
  最後、男が必死の抵抗をしたようだが、あの不安定な恰好ではどうしようもないだろう。それに、もうすぐ
  
 此処にも火が回ってくる。
 
 
 
  マッドは何の感慨もなく、まだ身悶えている男を一瞥さえせず、火が回る前にホテルから出て行った。
  
  ホテルを出れば、そこにはサンダウンがいて、先程罠が発動した部屋を見上げている。同じように見やれば、
  
 耐えられなかったのだろう、男の身体が窓の外に宙吊りになっていた。
 
  その光景を見て、マッドは表情もなく葉巻に火を点ける。そこには、些かの情もない。
  
  
 
  高揚一つしていないようなマッドに、サンダウンはふっと溜息を吐く。きっと、マッドのことだから、あの
  
 男がのたうち回る姿を見ても、表情一つ変えないだろう。
 
  それは非情なのではない。
  
  マッドは、無自覚に自分の役割を知っているのだ。それ故に、自分ではただの気まぐれとしか感じぬ感情で
 
   この世の平定を取り戻そうとするのだろう。
  
  それは無慈悲な悪魔ではないし、ましてサンダウンのような醜い魔王でもない。西部一の賞金稼ぎが座る血
 
 色の玉座は、嘆きの玉座でもある。そこに座る王者は、確かに理性と感情がせめぎ合う人間そのものだ。
 
  そして、だから、サンダウンはマッドを自分の銃弾に決めたのだ。
  
  
  
 「………馬鹿な検事の所為で面倒な仕事だったぜ。まあ、2300ドルなんざあの男には高すぎるけどな。」
 
 
 
  所詮縛り首が似合う男だ。
 
  ぽつりと呟いて、マッドは火が上がり始めた街に背を向ける。
  
  荒野は乾いている。この炎が何処に広がるとも分からない。さっさと逃げるに越した事はないだろう。
  
  ひらひらとサンダウンから距離をとって、そしてそのまま遠ざかるマッドは、最後にサンダウンを見て、風
  
 のように告げた。
 
 
 
 「賞金首が、全員、あんたみたいだったら良かったのに。」
 
 
 
  だったら全員、何の躊躇いもなく、撃ち殺してやるんだが。