Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht








「具合でも悪いんですか?」

 小さな岩陰に凭れ呆然としていたマッドに、レオンの洗練されすぎて現実味のない声が掛かる。
 その声に何でもないと首を振ってみせても、次に口から零れ出るのは溜め息ばかりで、それがレオンの視線を一層マッドに向けさせる事になる。
 気もそぞろな主人を見兼ねたのか、ディオが普段の荒くれ者の表情を抑えて、馬特有の優しく光る眼で心配そうに見下ろしてきた。
 その様子にはっと我に返り、気性の荒い愛馬にまで心配されるほど負抜けていたのかとマッドは自分を嘲った。




 

 

 乾き切った荒野には似つかわしくない淡い色の青年は、うろちょろと珍しげに西部特有の乾燥した大地を見ている。そして、その好奇心を
 宿した視線は、ある種の意図を持ってマッドにも注がれる。その事には、随行者である逞しい、如何にも西部の男といった風情の二人組も
 気づいているし、マッド本人も気づいている。しかしその事を敢えて口に出さないのは、随行者二人がマッドの知り合いだからか、それと
 も何なのか。

 尤も、マッドはそんな視線よりももっと大きな悩みを抱えているため、ほとんど気にしていないのだが。
 つい今しがた吐き出した溜め息も、その大きな悩みの所為だし、そもそもこんな一度は断った――というか普段なら絶対に引き受けない――
 仕事を引き受けたのも、悩みを少しでも頭の外に追いやる為だ。その効果はほとんどないようだが。

 
 まだ幼いと言っても過言ではない青年の視線に、まるで足元を刷く砂ほどの興味も示さず、マッドは指で己の唇をなぞる。
 
 こんなはずじゃなかったと思ってみても、唇に残る感触は生々しく、あの夜の出来事が事実であったことを否応なしに自覚させられる。
 ベッドに抑え込まれた自分は、傍目から見ればどんなだったのだろう。
 流されるままに宿に連れ込まれ、シーツに頬を押し当てている様は、どう考えても笑えない。
 月明かりだけに支配された部屋で、男の手に頬を包み込まれて。


 マッドはそこまで思い出して強く眼を閉じる。 
 これ以上思い出せば、今度は地面に倒れ伏したくなる。

 うろたえて男の気配が消えるまでベッドに倒れ込み、よろめくように安宿から街へ転がり込んだのは、随分と日が高くなってからだった。
 狂ったような感情を抑え込むために、しばらく距離を置こうと思ったのは完全な自衛本能だ。
 どうすればよいのか分からないのなら――けれど向こうがどうにかしようと働きかけるのならば――残された手段などそう多くはない。
 だから、逃げたのだ。
 己の取った行動はマッドにしてみればこの上なく不本意ではあったが、しかし他に手がなかったのも事実。 
 そして結局、深い溜め息を吐く事になる。 

 いっそ、他の賞金首やならず者や趣味の悪い金持ち連中のように、好色な眼で見られたほうが対処の仕方が分かった。今、自分の目の前
 で、時折頬を紅潮させて邪な事を考えている青年のように、あからさまな視線だったなら無視するなりなんなりできたのだ。かつて自分に
 襲いかかった年嵩の賞金稼ぎや、無法者と癒着した保安官のように、身体を組み敷いて犯そうとしていたら、そのまま永遠に目覚めないよ
 うにしてやれたのに。

 
 
 ―――頼むから、。



 まだ、耳の奥で反響し続ける低い声。
 飄々として何にも執着しない男が吐いた懇願に絆された。
 そして組み敷かれた。
 そして―――。





「お前、本当に大丈夫か?」


 日に焼けた逞しい男が、マッドを怪訝な眼で見ていた。随行者の一人であり、昔は腕利きの賞金稼ぎだったという初老の男――グレゴリー
 は、自分の息子くらいの年齢であるマッドに、ある種の庇護欲を持っているらしく、皺の多い顔に更に眉間の皺を増やしている。


「確かにお前には面白くもない仕事だろうが、だが、そんな状態で乗り切れるほど楽な仕事じゃない事もわかっているだろう。身が入らん仕
 事なら、止めたほうがいい。」
「うるせぇ…………。」


 年寄りの小言に、マッドは低い声を出す――というか、元気いっぱいに返す気力がない。だが、グレゴリーはそんな声にはびくともしない。


「俺はお前が駆け出しだった頃から知ってる。お前が、一気に賞金稼ぎの頂点に駆け上がった様も見てきた。痩せたガキだった癖に、あのゴ
 ーストタウンを一人でならず者達から取り返した時には、顎が外れるかと思った。だから言うんだ。」


 グレゴリーは年若い男の端正な顔を見つめる。


「お前は、こんなところで死にたくないだろう?」
「俺は誰にも殺されたりしねぇよ。」


 あの男以外には。


 声には出さなかったが、グレゴリーは続けられる言葉を確実に読みとったのだろう。葉巻を咥え直し眼を細めて、マッドの微かに硬い色の
 眼差しを眺める。
 マッドはグレゴリーとの会話から、嫌でも自分からサンダウンの事を切り離せない事を思い知った。それはほとんどがマッドの所為なわけ
 だが、しかし他人の口からいちいち指摘されるのは面白くない。
 苦い思いと、あの夜の記憶が同時に湧き起こり、マッドは胸を抑えそうになった。   


 
 
 

 響く低い穏やかな声に包み込まれて、手の甲に、額に、頬に落とされていたはずの唇が、自分の唇に落とされた。
 快感を引き出すような素振りはなく、ただ落とされるだけの口付け。

 止めようと思えばいつでも止められた。
 吐息を被せるだけのそれは、それ以上の深さはなく、ただ、ひたすらマッドの唇に触れていた。
 マッドを屈服させる意志も、虐げる意志もなく、かといってマッドがそれに反応する事も求めていない。
 触れ合う事だけを望まれて、マッドは対処の仕方が分からない。
 あのまま無理やりにでも身体を奪われたのなら、なんらかの反応もできたのだが、そんな素振りは一滴もなく。
 
 安宿の白いシーツの上で、サンダウンの碧眼が月の光を受けて穏やかに透ける。
 武骨な腕の中に引き寄せられて、口付けられて。





「マッドよう、じいさんの言う事くらいたまにはきいてやれよぅ。」


 背後で聞こえたもう一人の随行者――ジェシーの声に、マッドは振り返ることもせずに、ただ面倒くさそうに肩を揺らした。
 代わりに反応したのはグレゴリーだ。


「俺はまだ、じいさんと呼ばれる年齢じゃない!」
「いやいや、俺から見りゃあじいさんだって。」


 マッドよりも更に若いジェシーは、へらりと笑ってグレゴリーの言葉を躱し、いっこうに振り返る気配のないマッドにふらふらと近づく。


「マッド、じいさんはあんたを心配してるんだって。老い先短い身としちゃあ、俺ら若いもんの命を惜しんじまうんだろう。」


 誰が老い先短いだと、というグレゴリーの声は、若者二人の前ではあっという間に黙殺されて終わる。


「けどよ、マッド、じいさんの言う事は尤もだ。今のあんたはおかしい。あんたからしてみりゃあ、俺なんぞヒヨコッコだろうが、そのヒヨ
 コの眼から見てもわかるくらいなんだぜ。今のあんたなら、かの有名なサンダウン・キッドじゃなくて、俺でもあんたを撃ち取れるかも
 ―――うごっ!」


 ジェシーは最後まで言葉を言う事なく、地面に転がり腹を抱えて悶絶する。
 サンダウンの名を聞いた瞬間に、熱を噴き上げたマッドの拳が容赦なく腹を突いたのだ。
 しかしマッドの身体を覆い尽くした熱は、殺気とか怒りとかそういう気配とはまた別の色があり、グレゴリーは勿論の事、悶絶している
 ジェシーも首をひねる。

 だが、マッドにしてみればそれどころではない。
 名前を聞いただけで、記憶が脳髄を舐めるように刺激する。



 ―――お前しか、いない。



 耳を塞いでも、あれからどれだけ時間が経っても、耳鳴りの中で穏やかな低い声が反響する。
 その意味を問う事も恐ろしく、眼を閉じた。
 表情を作る事もできないマッドを、宥めるかのように口付けが落ちてきた。
 
 一晩中、ただ抱き合って、口付けて。

 まさか、一夜が口付けだけで終わるとは思わなかった。
 頬を包む手と肩に回された腕と触れ合う唇の熱だけで、まさか、あそこまで夢中になれるとは思わなかった。
 マッドは、自分が口付けに酔っていた事を今更ながら自覚し、愕然とする。
 口に咥えた葉巻の先が、小刻みに震える。


「マッド?」
「あのっ!」


 グレゴリーが、やや俯き加減で葉巻を咥えているマッドに近寄ろうと腰を持ち上げた時、鈴の鳴るような声でレオンが割って入ってきた。
 遠目で西部の男達の様子を見ていた淡い色の青年は、マッドの様子をちらちらと窺いながら、綺麗な口調で提案した。


「具合が悪いのなら、今日はもう、休みますか?僕は別に急いでないんで。」


 マッドが再び眼の前に現れて随行してやると言った瞬間、その頬を爆ぜるほど紅潮させて喜びを表したレオンは、喜びそのままの声でカリ
 フォルニアまで行くのだと語った。 だったら列車で行けば良いと思うのだが、それでは意味がないらしい。その道中で見聞きした事を纏
 め、土地土地の文化を記録するには、列車で行くのは良くないという見解のようだ。

 マッドは青年の碧眼を見上げ、ゆっくりと首を横に振る。


「問題ねぇよ。このまま進む。」
「でも…………。」
「いいから、じいさんと馬車に戻ってな。」


 ひらりと手を振って馬車へと追い立てると、それでもレオンはまだ食い下がる。


「貴方は、馬車には乗らないんですか?」
「俺らは馬車には交代で乗るっつったはずだぜ?」
「でも、貴方はまだ一度も馬車に乗って休んでないじゃないですか。」


 レオンの言葉は嘘ではない。マッドはこの仕事を受けてから一度も馬車には乗らずに、ディオを駆けさせている。それが不満らしい青年に、
 マッドは口角の端だけを持ち上げて笑った表情を作ってみせた。


「俺の愛馬は俺以外の言う事は聞かないんでね。」


 実際、ディオはマッドの命令以外聞こうともしないし、マッド以外は背中に乗せたがらない。マッドが馬車にでも乗ろうものなら、グレゴ
 リーとジェシーを蹴り飛ばして何処かに走り去ってしまいかねないのだ。従って、マッドは馬車には乗らずに、いつものようにディオに乗
 って移動しているのだ。
 まだ不服な顔をしている青年に、マッドは話はこれで終わりだと言うように眼を逸らして立ち上がる。そして眼を細めたままで葉巻を咥え
 ているグレゴリーに言った。


「グレゴリー、あんたもさっさと馬車に乗んな。日が暮れるまでにもう少し進んでおこうぜ。」


 無言で頷いたグレゴリーは、葉巻を捨てると、立ち尽くしているレオンの腕を取り馬車へと引き摺りこむ。ちらちらと振り返るレオンの視
 線を完全に無視して、マッドはディオの鞍に足を掛けた。その背に、ようやく復活したジェシーが小さく声を掛ける。


「マッド、あんた、どうしてこの仕事を引き受けたんだい?」


 自分よりむしろレオンのほうに年齢が近い男を見下ろし、マッドは低く吐き捨てた。


「俺がどんな仕事を引き受けようが俺の勝手だろうが。」
「そりゃ、天下のマッド・ドッグ様には、俺みたいなヒヨコの言葉はどうでもいいだろうさ。けど、あんた、自分が男からセックスの相手と
 して見られるのは嫌がってたじゃん。なのに、なんでその相手の護衛なんかする気になったのさ。」


 ジェシーはマッドの眼光から視線を僅かに逸らし、それでも小さく言い募った。


「あの坊ちゃんは、あんたをセックスの相手として見てる。そんなの俺でも見りゃあ分かる。ってか、あんたがよく、そういう眼で見られて
 る事も知ってるよ。みんな、そういう話をしてるから。」


 俺はしてねぇぞ!と慌てたように付け足したジェシーにマッドは無表情で応じた。
 そんなマッドに何を思ったのか。ジェシーは更に弁解でもするように早口で捲くし立てた。


「酒場での与太話だよ。冗談さ。あんた、見てくれも行動も目立つから、嫌でもそういう話題のネタになるんだよ。サンダウン・キッドを捕
 まえられないけど、実はデキてるんじゃないかとかそういう系の、誰も信じてないけど笑い話にはなるってい………う………。」


 ジェシーの声は最後のほうは掠れていた。
 おそらく、この時ジェシーは眼の前の男が本気で西部一の賞金稼ぎである事を思い知ったのだろう。
 一瞬で豹変したマッドの気配は、名ばかりの賞金首などはその場で失禁してしまうほどの壮絶さがあった。
 ジェシーが呼吸困難に陥らなかったのが不思議なほどだ。

 マッドは不意にジェシーから視線を逸らすと、行くぞ、と低く言い捨て、ディオの馬首を翻した。
 今にも人を殺せそうな気配を放っていたが、マッドの心臓はジェシーの言葉に鷲掴みされたように波打っていた。






 酒の上での与太話。
 けれど、自分とサンダウンは、そういう眼で僅かなりとでも見られているのだ。
 何より今、そういう眼で見られても仕方ないような関係に、バランスが崩れようとしている。


 夕暮れを過ぎ、乾いた空は満天の星に支配されていた。
 焚き火から離れ、マッドはいつになく大人しい愛馬を背に座り込んでいた。耳に聞こえるのは、焚き火を囲んでいるグレゴリーとジェシー
 の会話だ。どうやらジェシーはマッドの怒りに触れてしまったと落ち込んでいるらしい。

 悪い事をした、とマッドは思ったが、残念ながら今は謝るだけの余力もない。

 この仕事の本来の目的は、サンダウンの気配の漂う荒野から、マッドが平静を取り戻すまで一時的に身を離すためのものだった。サンダウ
 ンから離れる理由になるのなら、仕事の依頼人が誰であっても構わなかった。
 だが、平静を取り戻すどころか、神経を蝕まれているような気さえする。

 マッドがサンダウンから離れていてもマッドを取り巻く人々の口からは、サンダウンの名が出てくるのだ。それは、サンダウンが如何に
 マッドの生活に密着しているのかをマッド自身に知らしめ、まるで逃げ出すにはもう遅いのだと言っているようだ。
 マッドがサンダウンから身を離そうとすればするほど、サンダウンの名に意識は奪われ、マッドを追い詰める。

 擦り減った神経は、マッドの中から余裕というものを容赦なく削り取り、それが周囲に向かってしまったのだ。
 だが、謝罪をする気力もマッドの中にはない。

 マッドから気力を奪っているのは、サンダウンの所為だけではない。
 半分は自分の所為だとマッドは自覚しているが、それがより一層、マッドから余裕を奪っている。


 嫌じゃ、なかった。


 マッドは口を押さえて呻く。
 嫌では、なかったのだ。
 逃げる事にも理由をつけている時点で今更だが、嫌ではないのだ。
 抱き締められた時は散々喚いたし、どう考えても女の代わりとしか思えない状態を受け入れたくなかった。
 けれど。


 お前しか。  


 囁かれて、女の代わりではないと宥められて、それで。
 単に触れ合うだけの口付けだったにも関わらず、あんなに息が上がって零れたのは、サンダウンが送り込んでくる熱に酔いしれていたから
 だ。
 与えられる口付けに眠りを忘れるほど夢中になって、口付けだけで満足した。

 舌を絡めあったわけでもない、唾液の交換をしたわけでもない、歯列を割られて蹂躙されたわけでもない。


 ただ、熱を分け合うだけの、なのに、充足感は、女を抱いた時よりも大きい。

 男同士だ、賞金首と賞金稼ぎだ、女の代わりなどごめんだ。
 そんな言葉が口を突いて出てくるが、けれどサンダウンを突き飛ばす事は出来ず、むしろ突き付けられる言葉に抵抗を奪われる。
 
 武骨な指も、低い声も、その懇願も、自分にだけ向けられるのだと考えれば、背筋に震えるような痺れが走る。
 だから、身体に染みつく指先も、落とされる口付けも、突然の行為に怒鳴って抵抗しても、本心から振りほどけない。
 
 他の男達にそんな事をされたなら問答無用で撃ち殺していただろうが、あの何事にも飄々として何処にも心を落ち着けない男が、自分に縋
 る指は優越感にこそ思っても、心底の嫌悪で迎える事はない。
 
 いい加減にしてくれと叫びながら、でも、その指も唇も嫌じゃない。
 あの、荒野の空のような青い眼が自分だけを映す様は、むしろ望んでさえいる。
 名前を呼ぶ穏やかなテノールに、眼を閉じてしまうくらいに反応する。


 マッドは、乾いた唇から手を放し、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
 
 こんなのは違う、望んでいない。
 マッドが望む指は、この身に触れるのではなく、銃を操る事に特化しているはずだ。
 青い眼が自分を映すのは殺気を込める時で、間違っても穏やかに透明な光を灯してなどいない。
 月に濡れて湿度の高い空気ではなく、乾き切った無慈悲な風の下が自分達の居場所だ。
 あんな声、知らないし、知る必要もなかったはずだ。
 かさついた指の感触など、知らなくても良かった事だ。
 唇の弾力ならば、尚更。

 気配を嗅いで、血に酔った獣のように嬉々としているだけで良かったのに、自分の周りにいつの間にか形容し難い檻が張り巡らされている
 かのようだ。
 
 そしてその檻に鍵を掛けたのは、他でもないマッド本人なのだ。




 疲れたように俯くマッドの耳に、ざりっと砂を踏みしめる音が飛び込んできた。
 背後にいたディオが、ひどく面倒くさそうに鼻を鳴らした。

 あからさまに無防備な気配に、マッドはどうしたと振り返りもせずに聞いた。


「体調が、優れないのかと………。」


 後光のように淡い金髪を戴く青年の指先は、まるで拒絶を知らないかのようにマッドに伸びる。当然のように頬に触れ、うっとりと熱に浮
 かされたような青い眼にマッドの顔を映すレオンは、ギリシャ神話に出てくる麗しい神々を思わせる。


「具合が悪いのなら、ちゃんと言ってください。貴方に倒れられでもしたら………。」
「安心しろよ。貰った金額分はちゃんと働くぜ。」

「そうではなく………。」


 青年の白百合のような手がマッドの頬を包み込む。金の髪と青い眼は、夜だというのに闇の中でも良く見える。吐息を感じるほど近くで、
レオンがシェークスピアの一節でも語るような調子で囁く。


「貴方を、心配しているんです。」
「……………心配、ね。」
「貴方は、こんな所にいるべき人じゃない。」
「じゃあ、どんな所が?」


 マッドは片頬を歪めるようにして笑い、青年を見返す。
 マッドが選んで歩いて辿りついた場所を、マッドを得る為に否定する青年が、酷く滑稽なものに思えてならなかった。
 だが、レオンはマッドの笑みをなんと解釈したのか、一層顔を近づけて親愛以上の意を示す。


「前にも言いました。僕と、一緒に。」


 吐息と紛うほどの囁きは、瞼に触れるか否かの場所で落とされた。

 転瞬、マッドの脳裏に翻ったのはあの夜の記憶――自分で逃げ道を潰した時の事だ。
 


 ―――−キッド。  



 あの夜。  

 肩に腕を回され、頬に手を当てられ、口付けの合間に吐息を感じる距離で名前を呼ばれて、息苦しさの所為か縋るように名前を呼んでしまった。

 するとまた口付けられて。
 その隙間を縫って名前を呼んで、行き場をなくした指は咄嗟にサンダウンのシャツを掴む。
 その指を見咎められ、解かれ、うろたえていると肩へと導かれた。

 その合間合間も口付けは止まらない。

 それ以外の言葉を忘れたかのように己の名を呼ぶ男の眼が、恐ろしいほど間近で瞬いていた。
 男の瞬き一つ一つが、マッドを囲う檻の一本一本を降ろしているようだ。
 けれど、それに怯えを感じるよりも、何処か必死な色を孕んだ青に絆されてしまった。
 砂色に縁取られた青が、何でもないような色をしながら時折苦しげに歪められるのが分かってしまうくらい、近くでその眼を見すぎた。


 ――――キッド。


 一体、何が。

 きっと、一番最初に訊くべきだった問い。
 一体、何が、そんなにお前を苛むのか、と。

 けれど訊かなかったのは、マッドの怠惰だろう。
 荒野に吹き荒ぶ乾いた風のような男を間近で見る事が出来る優越感と、その甘美さに、するべき問いを置き去りにした。
 代わりに、男の眼差しに誘われてしまった。
 誘われるがまま肩に置いていた指を、かさついた頬に滑らせる。

 警鐘がなるのも気にせずに、自分で牢獄の中に身を投げ出すような行為。

 それは、サンダウンの責任ではない。
 現に、その瞬間、ほとんど顔色を変えないはずの男が、僅かに眼を見開いたのだから。



 触れたのは、一瞬だった。  

 けれど、何度も、触れた。  



 そのまま、その青い眼球を舐めてしまえるほどの距離。
 砂色の睫毛のすぐ上。

 同じ砂色をした髪に指を差し込み、しがみつくように、何度か口付けた。

 誘われた神経は、背徳感や羞恥よりも、眼球のすぐ真上という生物の最も弱い部分の近くを、触れる事を許されたという愉悦を吸い取る。

 醒めた時にはもう遅い。
 背徳感と羞恥がのろのろと這い上がってきて、慌てて身体を離そうとしても、サンダウンの腕がそれを許さない。

 そしてその時、確かにサンダウンは微笑んでいたのだ。

 それに心を奪われた所為もある。
 逃げ場をなくして、自分で錠を降ろして、その後の事はもう曖昧だ。

 背けようとした顔を固定され、顔中に口付けを落とされた。

 額、頬、鼻先、瞼、唇、こめかみ。

 いちいち上げていたらきりがない。
 そして、ただそれだけの事で、空が白み始めた時にようやくサンダウンが身を離した時には、マッドはまるで情事の後のような疲労感を覚
 えていた。
 シーツに沈み込んだ自分を見下ろす視線があまりにも穏やかで、居た堪れない思いが湧き上がった。 


 一番最初に原因を探らなかった怠惰と、それをずるずると先延ばしにしてきた甘え、そして防衛や逃避よりも愉悦を選んで誘われた。
 望んでいないと喚いても、自分で行動をとった以上、その責任の一端を握り締めた事になる。


 何よりも、サンダウンに微笑まれて喜んだのは、他でもない自分だ。


 レオンの指先を振り払い背を向けて、マッドはジャケットに包まれた自分の身体を抱き締める。

 息が震える、手が震える。
 気を逸らそうと葉巻を咥えても、マッチを擦る事もできず、口元から葉巻が落ちる。
 これ以上、あの男と触れ合えば、今度は銃の引き金を引く指さえ震えてしまうだろう。
 そうなれば、賞金稼ぎとしての自分が崩れ去っていく事は眼に見えている。


 薄く震えるマッドに、何も理解していない無垢な腕が伸ばされる。
 マッドの背に擦りつくように、レオンは腰に腕を回してマッドを抱き締める。愛おしげに、だが意図を持って動く指先は、マッドが何より
 も嫌悪するものだ。

 しかしマッドが反応するよりも速く、マッドごと鋭い刃先にも似た気配が貫いている。呼吸が止まるかと思うほどの気配に刺し貫かれ、そ
 れでもマッドは辛うじて踏みとどまる。
 レオンの腕を振り解き、焚き火を囲う二人に声を投げた。


「グレゴリー!ジェシー!」


 叫びながらレオンの腕を引いて彼らのいる焚き火へ足早に向かうと、レオンを突き飛ばすように馬車に放り込んだ。


「なんだ? 」


 マッドの様子にグレゴリーが硬い表情を作る。それはジェシーも同じだ。
 そんな二人にマッドは薄く笑い、胸のポケットから前金として受け取っていた報酬の入った袋を取り出す。札束が分厚く入った袋を馬車に
 放り込んだレオンに投げつけると、彼らに背を向けた。


「すまねぇが、俺が同行できるのは此処までだ。」


 声の上擦りをなんとか噛み殺し、笑いを含ませてマッドは告げた。
 怪訝な顔をする随行者二人に、マッドは顎をしゃくり宵闇の先を指し示す。


「お客さんだ。しかも、てめぇらには勿体ないくらい、極上の。」
「あ…………。」


 声を上げて後退ったのはジェシーだ。グレゴリーは厳しい顔でマッドの視線が向いたほうを見やる。


「何人だ?」
「一人。」
「一人?」


 驚いたようにマッドを見るグレゴリーに、マッドは振り返らずに肩を揺すって笑う。
 そしてようやく肩越しに振り返り、口元に笑みを張り付かせたまま言った。


「でも、俺が仕留められねぇ相手だぜ?てめぇらがいて、何になる?」


 その言葉に合点がいったようだ。暗がりに潜むのが、何者なのか。
 だが同時にグレゴリーの中には一つの疑問が湧き出たようだ。


「マッド、お前、一体何をした?」


 普通ならマッドが追いかけている相手が、逆にマッドを追ってやってくるというのは、どう考えても異常だ。
 マッドもそんな事は分かっている。
 だが、答える気にはとてもではないが、なれない。

 さっさと行け、とだけ告げて、答える気はない意を示すとグレゴリーも諦めたのか馬車へと向かう。
 その馬車の中ではまだレオンの声が上がっている。


「待ってください!一体、何が………。」
「静かにしな、坊ちゃん。今すぐに出発するんだ。できるだけ早く、この場から離れなきゃならねぇ。」
「何故………だって、あの人が……。」
「マッドは此処で仕事を降りる。さっき金、返して貰ったろ?」
「そんな、こと………。」


 宥めるグレゴリーの声と、弱いながらも頑くなに反発するレオンの応酬に、マッドは低く割り込んだ。


「すまねぇな、坊ちゃん。」


 闇だけを見つめて、マッドは笑みを孕ませて言った。


「でも、てめぇらが此処にいたって何の役にも立たねぇんだ。寧ろ、邪魔だ。だから、とっとと行ってくれ。」


 それとも、と嘲るような口調と声で、幾分かの苛立ちを込める。


「恋人同士の逢瀬を邪魔するのが、あんたら金持ちの最近の流行なのかい?」


 青年が絶句したその空隙を見計らって、馬車が出発する。尚も追い縋るような視線を立つ為に、マッドは焚き火に脚で砂を掛け、火を消す。
 一瞬で、辺りは完全な闇に包まれた。
 聞こえるのは馬車が遠ざかる音と、砂が風に煽られる音、そして、砂を踏みしめて歩みよる足音だけだ。


 どれだけ闇に包まれても、気配が、恐ろしいほどにその存在を主張している。
 眼を閉じても、その指一本の挙動さえ分かるほどだ。
 夜よりもなお深い闇が、真直ぐとこちらに向かってくる。

 あまりにも平然とした揺るぎない足音に、眼を逸らして自分の生活から締めだす事が無意味である事を思い知らされる。 


 細く長く息を吐き、マッドは一度硬く眼を閉じ、ゆっくりと再び眼を開いた。


 砂色の髪の濃い影を引く顔には、乾いた青空と同じ色の眼が瞬いている。


「………キッド。」



 錠が下ろされる音が聞こえた気がした。 

 



  
   







閉じた目の上なら 憧憬 のキス