軽い舌打ちをして、マッドは葉巻に火を点けた。緩やかに煙と共に立ち昇る匂いは、クリスタル・
 
 バーには置かれていない高価なものである事を示している。安い葉巻とは異なるどことなく上品な
 
 香りは、マッドの細い指に似合っていると言えば似合っていた。ただし、その上品さとは裏腹に、
 
 マッドの機嫌は些か悪い。その黒い眼に灯る不機嫌な色は、恐らく女を前にして留めているに過ぎ
 
 ないのだろう。その様子を、アニーとマスターは僅かに息を詰めて眺めていた。






 Can You Keep A Secret?









「この町くらいしか、あいつが長期間滞在できる町はねぇんだけどな。」

「見つけられなかったからって、あたい達を疑うのは止めてくれる?」



 誰に言うというわけでもなさそうに、しかし実際はしっかりとアニーとマスターの耳に入るように
 
 告げたマッドの台詞に、アニーは反論した。

 

「さっきから言ってるように、あんたが探してる男は此処には来てないよ。あたい達があの男に逢っ

 たのは、クレイジー・バンチと遣り合った時が最後よ。」

「ふぅん。」



 見るからにおろおろしている兄のマスターの代わりに、アニーは西部一の賞金稼ぎに真っ向から対
 
 立した。尤もそれは、他の賞金稼ぎの多くが無法者と紙一重の位置に存在するのに対し、マッドが
 
 ある一定の則を守っている事が分かっているからこそ出来る芸当なのだが。現にマッドは探るよう
 
 な眼をしているが、それ以上の深みには入ってこない。アニーに――というよりも女に――手を上
 
 げる事など、もってのほかだと考えているはずだ。
 
 

 彼はしばらくアニーを見ていたが、やがて片方の口角をくっと持ち上げる、独特の笑みを浮かべた。



「分かったよ。」



 笑みと共に吐き出された言葉は、あくまで穏やかだ。悔しさも憤りも苦々しさも感じられない。ク
 
 リスタル・バーには珍しい薫りを燻らせ、マッドはそれを身に纏うようにして背を向けた。皺一つ
 
 ない洗練されたジャケットの裾が、控えめにしかしこれまた上品に翻る。カタンと風のような軽い
 
 音を立ててウエスタン・ドアを押し開き、黒い背中が遠ざかっていく音が聞こえた。



 耳から、微かに聞こえていた馬蹄の音が消えた時、アニーは肩から力を抜きマスターはカウンター
 
 にへなへなと崩れ落ちた。その気になれば、こんなちっぽけな酒場など一瞬で燃やし尽くせそうな
 
 気配が消え、ようやく何の力も持たない二人は息を吐く事が出来る。
 
 

 いつもどおりの空気――平和だが退屈な――が戻ってくると、マスターが背後に頼りなく守ってい
 
 た扉が、静かに開いた。その微かな軋みに、張り詰めていた神経が解けたばかりのマスターは、眼
 
 に見えて飛び上がった。
 
 

 そんなマスターの様子になど一切の興味も見せず、マッドの爆ぜるような気配と入れ替わるように
 
 現れたのは、深海の底のように静まり返った寡黙な気配だ。荒野の乾いた風を纏わりつかせたよう
 
 な男の気配は、一瞬話しかける事を躊躇うようなものだったが、アニーの前ではそれは全く無意味
 
 なものだった。



「あんたら、まだ、こんな意味のない追いかけっこしてるのかい?!」



 腰に手を当て、砂色の髪をした男に詰め寄る。砂色の髪と青い眼を所有する男は、酒場の壁に貼ら
 
 れている5000ドルの賞金首の手配書とまるっきり同じ顔をしていた。そしてそれは、先程までこの
 
 場にいたマッドが探していた人物そのものである。つまり狂犬の鼻先は、確実に獲物の匂いを嗅ぎ
 
 取っていたわけだ。尤もそれは、アニーとマスターによって最終的には阻まれたわけだが。



 狂犬の牙から賞金首を匿ったアニーは、しかしだからと言って賞金首を甘やかす気はないようだ。

 賞金稼ぎに追われている賞金首のその関係を、『追いかけっこ』の一言で済ませた挙句、壁に貼ら
 
 れた手配書を、ばん!と叩く。



「追いかけられて、それでこんなふうにこそこそ隠れるくらいなら、賞金首なんか止めればいいじゃ

 ないの!」 
  

 
 アニー、と小さな悲鳴のような声でマスターが咎めるが、そんな兄の声は妹には届かなかった。高
 
 く結い上げた雌黄の髪を鞭のように撓らせて、マッドに追われている賞金首――サンダウンに迫っ
 
 た。



「あんたに懸けられた賞金が、どういうものか知ってたら、あの男だって追いかけるのを止めるわよ、

 きっと!」



 マッドが狙うサンダウンに懸けられた賞金5000ドル。これが、実はサンダウンが自分自身でその首
 
 に懸けた賞金だと知っている者は、一体何人いるのだろう。

 

 かつて、その銃の腕で西部に名を轟かせた保安官。しかし己の銃の腕が無法を呼び込むと言い、そ
 
 の首に賞金を懸けて荒野を彷徨う事を選んだ。



 アニーとマスターを含めるサクセズ・タウンの人々は、ビリーの父であるこの町の保安官の中にあ
 
 った微かな記憶を聞かされた事から、その経緯を大まかながらも知っている。
 
 
 
 しかしそれを知らぬ賞金稼ぎは、サンダウンを追う事を止めない。それでも、二流、三流の賞金稼
 
 ぎはまだ良い。サンダウンの銃の腕を知れば、尻尾を巻いて逃げ出し己の手の届く領分に引っ込む
 
 からだ。



 だが、マッドは違う。今まで狙ってきた賞金稼ぎを悉く撃ち取ってきた男は、その眼に自信ありげ
 
 な瞳を湛える事が自惚れにはならないくらい、一流の賞金稼ぎなのだ。だから、どれだけサンダウ

 ンが軽くあしらっても、同時に自分の牙がその喉笛のぎりぎりのラインを掠めている事を知ってい
 
 る為、決して諦めようとはしない。

 

 それでも、サンダウンが賞金首になった経緯を聞けば、その追撃の手は緩むだろう。口調こそ乱暴
 
 だが、無法者でもならず者でもないマッドが、サンダウンの経緯を知って尚、命を狙いはしないだ
 
 ろうという考えが、アニーの中にはある。

 

 しかし、アニーのそんな主張に対するサンダウンの答えは簡潔そのものだった。



「その必要はない。」

「なんで!?」


 
 マッドの追撃一つがなくなるだけで、どれだけその命と神経の擦り減り具合が下がるか、分かって
 
 いるのだろうか。追撃がなくとも荒野の放浪生活は厳しいというのに。だが、そんな意見はサンダ
 
 ウンの前では黙殺されるだけだった。しかも、無言で圧し掛かる圧力は、有無を言わせない迫力が
 
 意味もなく満ち溢れている。
 
 

 擦り切れたポンチョで身を包み、サンダウンは無言でカウンターから出ていく。かつかつと硬質な
 
 足音を響かせ、アニーとマスターには見向きもせずに、隙間から絶え間なく光を零しているウエス
 
 タン・ドアへと向かう。その武骨な手を扉に掛けた時、帽子を目深に被った顔が肩越しに一瞬振り
 
 返った。



「…………迷惑をかけた。」



 低い声は、扉の開く音とそこから流れ込んだ乾いた風に混じり合って、アニーとマスターが残る酒
 
 場の中に、薄く広がった。











 


「よお。」


 
 日が傾きかけた頃、西日を受けて赤く染まった砂の上で、飛び抜けて黒い影が長く尾を引いていた。

 その影は、サンダウンの行く手を阻むように伸びている。しかし、影の持ち主が馬から降りている
 
 所為か、サンダウンが想定していたものよりも短い。夕日でその身体を赤く縁取り、それによって
 
 一層黒味を帯びているその黒髪の下で、瞳は周囲の燃えるような色とは対照的に濡れた様な質感が
 
 ある。彼が自分を待ち伏せしている事は知っていたのでその眼差しに惹かれたわけではないのだが、
 
 サンダウンは愛馬の脚を速めると、荒野ですらりと立っているマッドの脇で止めた。

 

「なんだ、やっぱりあの町にいたんじゃねぇか。」



 隠れるなら気配もちゃんと隠しとけよと薄く笑う彼の傍に降り立ち、周囲に他の気配がない事を確
 
 かめてからその肩を引き寄せた。じりじりと焦げ付きそうな色合いの夕焼けよりも、遥かに熱く凶
 
 暴な気配が布越しでも感じられる。されるがままになっているマッドの声には、やはり笑いが含ま
 
 れている。



「今逢うんだったら、別にあの時に出てきても良かったんじゃねえ?」



 昼間にマッドが酒場を訪れた時の事を言われて、サンダウンは低く答えた。



「弾が無駄になるだけだ。」



 あの時に出ていけば、どうしたって流れ的に決闘せざるを得ない。だが、その決闘は形だけのもの。



 あの時のサンダウンにはマッドと決闘――それがマッドにしてみれば銃を弾かれるだけの馬鹿にし
 
 たようなものであっても――する気などなかったし、それはマッドにしても同じだろう。本気で決
 
 闘を望んでいたのなら、アニーもマスターも振り切って、サンダウンが身を隠す扉の向こうへこれ
 
 ば良かっただけの話だ。女だ丸腰だと言う事を盾にしても、あの二人にマッドを拘束するだけの力
 
 がない事は誰の目から見ても明らかなのだから。
 
 

 それをせずに、単にサンダウンを探しに来たとなれば、マッドが求める事は自ずと知れてくる。そ
 
 してそれは、サンダウンが求めるところでもあった。ならば、無意味な決闘など、しないにこした
 
 事はない。



 東の方から、空を彩っていた雲の錦が薄れ始め、星が散りばめられた夜へとその姿が変貌し始める。

 それを背に受け止め、サンダウンはマッドの身体を地面へと促す。昼間の太陽光を受け止めた砂は
 
 まだ熱く、しかし布越しならば問題はない。マッドはサンダウンの動きに従いながらも、呆れたよ
 
 うに言った。



「あんた、此処でいいわけ?」

「嫌か………?」

「まあ、今からゴースト・タウンとか廃屋を見つけるのも面倒だから、俺はかまわねぇけど。」



 もうちょっとサクセズ・タウンから離れたほうが良いかもな、と彼は言うが、それでもあの後ずっ
 
 と馬を走らせたのだから、かなり距離はあるはずだ。



「いや、心境的によ。あんたの事英雄視してる奴らが、万が一にもこの状況を見るかもしれねぇって

 考えねぇか?」

「誰も来ない。」


 
 大体、あの町の住人が日も暮れたこの時間帯に動きまわる事などないだろう。それ以前に、自分達
 
 は他の賞金稼ぎや賞金首、そしてその他の気配に気づかぬほど鈍い人間ではないはずだ。
 
 
 
 確かにこの関係が知られるところは、サンダウンにとってもマッドにとっても本意ではない。他の
 
 賞金首や賞金稼ぎに知られたら、この関係は一瞬で弱点にすり替わる。己の名前が他人に使われて
 
 マッドを縛る様など、見たくもない。



 だが、自分達以外の気配がない今、それは無用の心配だ。その無用の心配をしているマッドを、サ
 
 ンダウンは地面に横たえる。自分の髪と同じ色の砂の上に、彼の短い髪が散らばるのに眼を細めて
 
 いると、あ、とマッドが再び声を上げた。今度は何だと思っていると、



「酒。」



 と、彼にしてはとてつもなく短い答えが返ってきた。眉を顰めていると、今度はちゃんと説明が付
 
 随された。
  


「良い酒を持ってきてんだがよ。どうする?」

「後で良い。」

 
 
 この状態で今更そんな事言われても、引く事のほうが困難だ。あっちこっちに意識を飛ばしている
 
 マッドに、サンダウンは顔を寄せる。



「今は、お前が良い…………。」



 囁くと、しっとりとした色合いの眼が大きく見開かれたかと思うと、すぐさま伏せられた。耳に唇
 
 を近付けると、そこは妙に熱くなっている。それをからかうような事は、決して言わないが。



「………ディオに積んでるから、勝手に漁れよ。」

「わかった。」



 今はサンダウンの愛馬と戯れている、かつての悪人ディオ――現在、馬――の名に頷くと、サンダ
 
 ウンはマッドに口付けた。しっとりと濡れた弾力は、同時に酷く熱い。それに溺れながらも、周囲
 
 に夾雑物がないか探り続ける。



 本当のところはサンダウンにも分かっているのだ。本当にマッドの足枷になりたくないのなら、こ
 
 の関係を止めれば良いのだという事は、幼子でも分かる理論だ。だが、敢えてその危険を冒してで
 
 も、この腕の中に転がり込んできた爆ぜるような熱を手放す気には到底なれない。
 
 

 サンダウンが、マッドに己の過去を明かさない理由の根本もそこにある。マッドの中でサンダウン
 
 の立ち位置がただの賞金首ではない事は分かっているが、だが、それに寄り掛かるにはマッドの心
 
 の中はあまりにも見えない。サンダウンが追うべき存在ではないと分かった時のマッドの反応が、
 
 掛け値なしに怖い。だから、少なくともマッドが追いかけてくるという今の状態を突き崩す事が出
 
 来ない。



 臆病な檻で囲うにはあまりにも凶暴な命が、それでもまだその腕の中にある事に安堵して、サンダ
 
 ウンはマッドの身体を抱き締めた。

















 けだるい気配を全身に満たして、マッドは地面に寝転がっていた。正確に言うと、地面に敷かれた
 
 サンダウンのポンチョの上に。こんなふうに使われたならば、ポンチョが擦り切れるのも早くなる
 
 だろうなと思いながら、紫煙とアルコールの匂いの染みついたそれに頬を寄せる。

 

 横たわるマッドの視線の先で、ポンチョの持ち主はマッドの荷物を漁っている。マッドが手に入れ
 
 た年代物の酒を探しているのだ。お目当ての物を探し当てたサンダウンは、お前もいるかと尋ねて
 
 きたが、マッドとしては酒よりもただの水が飲みたかった。



「勝手に飲めよ。」



 そう告げると、サンダウンは酒瓶を持ってマッドの側へと戻ってきた。そして酒瓶の栓を抜くより
 
 も先に、マッドの髪に手を差し込んで撫で始める。酷く不器用そうな手つきは心なしか震えている
 
 ように感じられて、それが飄々とした男の中に潜む怯えに見えた。

 

 そう言えば、と思う。マッドがサンダウンの腕の中に身を投じてから今までずっと、サンダウンが
 
 形作る閨の檻は強靭だが、微かな脆さが見え隠れしていた。表向きはマッドが羞恥を感じるほどに
 
 その手は大胆に動くのに、全体像として見ると不安定で。だがそれ以上に、まるで濁流に流されよ
 
 うとする者の必死さを灯した眼でマッドを見るのだ。

 

 ―――何が、そんなに不安なんだ?



 咄嗟に浮かんだ言葉は恋人への問い掛けのような台詞だった。しかしそれ以上の言葉など思い浮か
 
 びもしない。



 マッドとしてはサンダウンの事は基本的に全て承知の上なのだ。無論その心根の全てを知っている
 
 わけではないが、今に至る経緯くらいは知っているし、その心の揺らぎのようなものも感じる事は
 
 出来る。
 
 

 サンダウンがかつて保安官であった事も、その首に掛かっている法外な賞金が自ら課したものであ
 
 る事も、その事実を隠して放浪している事も、知っている。それ故にマッドは何も言わないのだ。
 
 マッド自身、サンダウンに話していない事のほうが、話している事に比べれは遥かに多い。
 
 

 そもそも、話したからといって今更何が変わるわけでもない。サンダウンに関しては、サンダウン
 
 が再び保安官に戻るというならば少しだけ立場は変わるだろうが。



 ―――大体、何が変わったところで、あんた、俺を手放せるのかよ。



 どれだけ戸惑ってうろたえていても、サンダウンがマッドを解放してくれるとは、とてもではない
 
 が思えない。マッドとて簡単に離れてやるつもりもない。
 
 
 
 ゆっくりと離れていく手に、マッドは自分の手を絡ませた。指どうしを結び合って引き止め、その
 
 胸元へ身を寄せる。

 
 
 もう遠い過去になりつつある最初の夜のように、その腕の中に、再び転がり落ちた。