4.笑顔の似合う恋だった



 

  その花は、急な斜面に咲いていた。

  底には流れの激しい川が轟々と音を立てており、その勢いで青い花弁はふらふらと揺れていた。

 
  自然界では青い色は珍しい。青とはシアン系――即ち青酸に属する物質によって引き出される色
  
 だ。毒を持つ物質を体内に取り込んで、且つ生きられる生命は稀少だ。

  飛沫のかかるその花が、シアン系の物質を持っているが故に青いのかどうかは定かではないが、

 少年が初めて見る花であることは間違いない。

 
  少年にとって大事なのは、その花がシアン系の物質を持っているから青いという事ではなく、そ
  
 の花が今まで誰も見た事がないという事だった。


  最近、若い女性の間では美しい花を髪に刺したり、編み込んで冠にしたり首飾りにしたりする事
  
 が流行りらしい。少年の妻も、花畑に行っては色とりどりの花を摘んで、輪にして頭に被ったりし
 
 ている。
 
  しかし、妻達の移動範囲は恐ろしく狭い。

  どれだけ花を集めても、結局似たり寄ったりの花ばかりになってしまう。
  
  勿論、飾りによるバリエーションはあるものの、それでも女性としてはやはり他人が身に着けて
  
 いない物を欲しがるらしい。
 
  そこで、彼女達は、狩りで遠くに行く自分の夫達に、珍しい花があったら摘んできて欲しい、と。


  そして、今、少年の眼の前には見た事がない青い花が水飛沫に揺れている。

  しかも、どこぞの男が摘んできたような、奇妙に捩れた形もしていない。

  小さな花弁の可憐な花だ。

  さぞ、自分の妻に似合うに違いない。

 
  さらりと心中でだけのろけておいて、少年は急な斜面へと右手を伸ばした。左手はぎゅっと草を
  
 掴んで、身体が転げ落ちないように固定する。

  しかし、手は届かない。
 
  ぐっと身を乗り出して、更に手を伸ばす。指先を震えるくらいに開いて、そして掻くように閉じ
  
 てを繰り返す。


  その時。

 
  ずり。

 
  草を掴んでいた左手が滑った。
 
  身体を固定していたものがなくなり、少年はあっと言う間にバランスを崩した。そしてそのまま、
   
 スライディングするかのように斜面を勢いよく滑っていく。

  何処にも身体を止めてくれる場所はない。

  あちこちに闇雲に手を伸ばすが、ぶちぶちと草が千切れる音が聞こえるばかりだ。

  そしてその状態も長くは続かない。

  次の瞬間、さぷん、という音と共に少年の身体は急流の中に消えた。







  少女はいつになく遅い夫の帰りを心配していた。

  他の男達は帰ってきたのに、彼女の夫だけが帰って来ないのだ。

  青空はいつの間にか茜色に変わり、彼の為に折角編んだ白い花の冠も萎れてしまいそうだ。それ
  
 を膝の上に置いて、赤い光の差し込む洞窟で長い影が闇にまどろむ様を見ていると、不意に洞窟の
 
 入口に大きな影が立ち塞がった。


  はっとして見やれば、それは、身体の端々からぽたぽたと滴を落としている。千歳緑の髪の毛も、
  
 今は濡れてもっと深い色になっている。

  ずぶ濡れの夫の姿に、彼女は花輪を投げ捨て、慌てて駆け寄った。


  ひっくしゅん、とくしゃみをしていた夫は、そんな彼女の姿を見ると、白い歯を見せて満面の笑
  
 みを浮かべた。

  それは、彼が彼女を助けた、あの初めて出会った時と同じ笑み。

  その笑顔のままで、少年は青い花を少女に差し出した。