聞こえてきた足音に、マッドは地面に倒れ込んだまま、眼線だけを動かしてその持ち主を見上げ
 た。
  最初に見えたのは、黒い長靴だった。金の薄汚れた縁飾りのそれから上にあるのは、膝を覆う布
 を幅広の紐で縛っている脚。そしてその後ろ側手で、ひらひらと灰色のローブの裾が踊っている。
 頭からすっぽりと、身体の線まで隠すそのローブは、彼、もしくは彼女の鼻から下までも完全に覆
 い隠している。
  そして、微かに香る、独特の甘い匂い。
  本当に仄か過ぎて、きっと、嗅いだ事のある人間でなければ分からないだろうそれは、一見すれ
 ば流れの芸人と見えなくもないその出で立ちが、実は魔術師のそれである事を教えている。
  漂う香の匂いは、マッドも度々使う、術用の薬の匂いだ。
  けれども、マッドの傍らに立つ人影を見て、マッドはそれが自分と同業者であるとは思わなかっ
 た。確かに、同じ魔術を使う者であるのだろうけれども、マッドは少なくとも、街中で竜をぶっ放
 すなんて事はした事がない。
  どれだけ癇に障る事があっても、どれだけ酔っ払っていても、普通はそんな事しないのである。
  マッドは、善良――かどうかはともかく、一介の傭兵でしかない。街なかで竜を練り上げるなん
 て非常識な事はしない。
  しかし、眼の前にいる人物は、どう考えても、今も大口を開けてもろもろと鱗を零して旋回して
 いる竜の持ち主だ。竜が背後で大口開けようとも顔色一つ変えぬ事からもそれが分かる。ローブと
 同じ灰色の眼で、マッドを睥睨している。





  Ascalon





 「ふむ。」

  聞こえた声は、男のそれだった。
  だからと言って、マッドには何の感慨も与えなかった。せいぜい、手加減する必要がない、と思
 うくらいである。

 「魔法使い、か。と言っても、我らと違い、崩れた術師だな。」

  その声には、はっきりと侮蔑の響きが入っていた。
  だが、それもマッドの中には何も残さない。傭兵として生きる魔術師を、きちんとした学会、或
 いは貴族や王族に抱えて貰っている魔術師が蔑むのは良くある事だった。彼らは往々にして、その
 肩書きに固執し、時には野に下った魔術師よりも実力が伴っていない事もある。
  尤も。
  マッドは男と分かった魔術師を見上げ、腹の底で呟く。
  この男の成りが、まともな魔術学会の者には見えないのだが。かといって、王侯貴族に雇われて
 いるようにも見えない。
  ならば。

 「まあ、崩れた術師であろうと、あの騎士と共にいた事は間違いがない。撒餌にはなるだろう。」

  マッドの顔を、黒い長靴で持ち上げながら呟く。
  その呟きが、マッドの中にようやく引っ掛かった。尤も、それは既にマッドの中で考えられてい
 た事なのだが。

 「堕ちたとはいえ、あの男はもとは教会の騎士。ならば、落ちぶれた魔術師であっても簡単に見捨
  てたりはしまい。」

  普通に捕える事が出来ていれば、こんな面倒な事はせずに済んだのだが。
  そう呟く男の傍らには、小さな鳥の形をした輝きがある。あれは魔術道具の一つで、声を伝達す
 る事ができる物だ。つまり、あの男の言葉から察するに、この街で竜を練るよりも前に、既にサン
 ダウンを襲っていたのだ。しかし、失敗したのだろう。
  当然だ。
  悪魔憑きを、ただの魔術師が捕えるのは困難を極める。どんな手を使ったのかは知らないが、悪
 魔の強運の前には、如何なる罠も塵に等しい。
  そんな事も分からなかったのか。それとも分かっていたからこそ、こうして二重三重の罠を張っ
 ていたのか。それほどまでにして、何故あの男に拘るのか。それは、やはり『悪魔憑き』だからか。
 あの身体に根を張る悪魔が目的か。
  何の為に。
  思い浮かぶのは、決して愉快な想像ではない。魔術師が悪魔憑きを欲しがる理由など、決して褒
 められた理由からではないだろう。
  しかも、欲しがっている男は、どう見ても正規の魔術師ではない上に、王侯貴族お抱えの魔術師
 ではない。むろん、その素性を隠している可能性もあるが、隠している時点で後ろ暗い事があるの
 は明白だ。そして、学会員でもお抱え魔術師でもないとしたら、にも拘わらず、野に下った魔術師
 を馬鹿にするような尊大な態度をとるとしたら。
  何処かの、薄暗い組織の人間か。
     いや、そんな分かり切った事よりも。

     この男、やっぱり自分を出汁にしやがったのか。
  あのおっさんを誘き出す為に、よりにもよってこの俺様を。

  ふつふつと、改めて怒りが沸き起こってくる。
  マッドは、街中で魔法をぶっ放すなんていう品のない真似はしない。しかし、それは相手が無礼
 でない場合に限る。
  マッドは顎を乗せられていた男の長靴から転がり落ちると、そのまま仰向けになり、ふっと、男
 の顔目掛けて息を鋭く吹きかけた。それは、ちょうど唾を吐きかけたようにも見えるだろう。しか
 し実際は、唾などよりももっと凶悪だ。
  マッドが吹きかけた息は、男に向かって昇るその途中で、唐突に赤味を帯び、その途端揺らめく
 炎へと変貌したのだ。
  いきなり眼前に迫った炎に、随分と偉ぶった口調だった男も、流石に驚いたらしい。まして、マ
 ッドは呪を紡ぐ素振りさえ見せなかったのだ。あまりにも唐突過ぎる炎に、慌てて飛び退く。
  そしてその時には、十分に時間を稼いだマッドの身体はもと通りに戻っている。ぐらつく脳味噌
 も治まりを見せ、マッドは立ち昇る炎がその姿を中に掻き消す時には、ひらりと立ち上がっていた。

 「良く喋る奴だな、おい。自分達の事を秘密にしときたいんだったら、もっと口は閉ざすべきだろ
  うが。」

  男が何者なのか、その片鱗が窺えた。それだけも十分な収穫だ。上手く行けば、そこらじゅうに
 零れ落ちた、竜の鱗の形をした魔力から、その系譜を遡る事だって出来るかもしれない。

 「口は災いの元って言うだろ?まして、何かの組織に関わってんのなら、尚更な。」
 「貴様………。」

  フードの隙間から見える灰色の眼が、見開かれたように見えた。おそらく、マッドをただの術師
 崩れの傭兵くらいにしか見てなかったのだろう。だが、それが先程の一瞬の炎で掻き消えた。

 「何処の手の者だ………。」

  その聞き方。明らかに疚しい事がある。

 「さて。俺はただの傭兵さ。だが、てめぇが気に入らねぇ。あんなおっさんの出汁に俺を使いやが
  って。」
 「ふ……。お前はあれがどんなに素晴らしいものなのか知らんのだな。所詮、その程度の術師か。」
 「へっ、悪魔憑きを欲しがるてめぇらになんぞ言われたかねぇなぁ。しかも取り逃がしてるとあっ
  ちゃあな。偉そうな顔したって、その程度だろ。」

  マッドが悪魔憑きに気付いていないと思い、再び嘲笑の態度を作ろうとした男に、マッドはぴし
 ゃりと冷や水を浴びせる。
  凍りついたように見える男の顔に、マッドは鼻先で笑いかけた。

    「言っとくがな、この俺は、あんなおっさんの出汁にして良い男じゃねぇんだぞ。それが分かった
  ら、その竜を連れてさっさとあのおっさんの所に行きやがれ。」

  しかし、男は動かない。当然と言えば当然なのだが。それに、この男も、街中ではマッドもそれ
 ほど巨大な魔術を使うわけにはいかないと思っているのだろう。表情を強張らせながらも、竜を引
 き下げる気配はない。

 「何者だ、お前は。」
 「てめぇ、同じ事しか聞けねぇのか。」
 「……先程は、何処かの王侯貴族か学会の小煩い手の者だと思っていたが。違うな。お前は、確か
  にお前が言う通り、流れのようだ。だが、悪魔憑きを見抜けるお前は、一体何者だ。」
 「は、悪魔憑きなんぞ、ちょっとした術師ならすぐに見抜けるだろうが。それとも、それも出来な
  いくらい、最近の魔術師の界隈ってのは、腑抜けてんのか。」

  マッドはここ最近の魔術師達の動向を知らない。教会の動向を知らないように。けれどもサンダ
 ウンの悪魔憑きを払うよりも先に追い出して、殺してしまおうとするように教会のレベルが堕ちて
 いるように、魔術師達も下降して行っているのだろうか。
  そう。
  今、はっきりと近付く悪魔の足音にさえ気付けぬくらいに。
  駆け寄ってくるその足音は、普通の人間の足音と変わりなく聞こえるのに、みしりみしりと、地
 面を砕くほどの重量を伴っているように聞こえる。そして、こちらを見る眼差しは、恐ろしいほど
 に鋭い。まるで、この世の全てを見てきたかのように。
  酷い、金属質の音が響いた。
  魔術師の背後で、これ見よがしに口を開いて牙を見せていた竜が、鱗を払い落しながらその横っ
 面を弾かれて、よろめいたのだ。もつれる脚で何とか踏みとどまったものの、突然激しい音を立て
 てよろめいた竜に、魔術師は驚いたように振り返る。そして、竜の状態を見て、今度こそ息を飲ん
 だ。
  荒いとはいえ、魔力で練り上げた竜だ。本物の竜よりも脆いとはいえ、それでもその外殻は岩よ
 りも硬い。
  だが、その外殻に、今、細い細い矢が突き立てられている。弱い眼の部分を狙ったとは言え、通
 常の弓矢が竜に突き刺さるはずもない。しかし、実際に突き刺さっている。
  そこへ、再び凄まじい音を立てて矢が飛んでくる。そして、再び竜の外殻に突き刺さる。
  一体、如何ほどの力で弓を引いているのか。
  人間では、出来ない。
  いや、それは確かに人間ではない。
  マッドは弓が飛んできた方向を見る。逃げ惑う人々が立てた土埃の中、逃げもせずにすっくと立
 っている背の高い影。その左手から、更に濃い影が巻き起こっている。ねっとりとした、暗く深い
 闇。その中に、幾つもの口が開いて哄笑しているように見えた。
  その姿に、魔術師も――恐らく見えているのだろう――一瞬戸惑ったようだった。
  しかしすぐさま自分の任務を思い出したのか、矢を突き立てられてよろめき鱗を散らす竜の首を
 そちらに向ける。
  魔力で練り上げられた竜は、衝撃を受けても痛みは感じない。眼に二本の矢を突き立てた姿で、
 それでも翼を大きく広げ、左腕から悪魔を立ち昇らせている男へと真直ぐ飛んでいく。普通の人間
 なら、その一撃で、体中の骨を砕かれるだろう。
  普通の人間ならば。
  土煙を巻き上げ、瓦礫の渦を生み出してサンダウンに向かう竜は、しかし、突然その一直線を止
 めた。しばらくもがいていたが、一向に動かない。それどころか、じりじりと押し返されている。
 そして、先程よりもずっと硬質な音が響いて、竜の身体から花弁が散るような勢いで鱗が飛び散っ
 た。
  見れば、首元がすっぱりと切り落とされている。その切り口からは、当然、一滴の血も流れない。

 「なっ……!」

  魔術師の口から信じられない、と言ったような悲鳴が零れた。
  切り落とされた竜の首。その鼻先を鷲掴みにしているのはサンダウンの左手だ。獅子の頭ほども
 ある竜の頭を林檎でも掴むように持っているのを見れば、サンダウンが竜の突進をその左手で受け
 止めたのは明らかだった。
  そして、右手にある剣で、その首を切り落とした事も。
  首を失った竜の身体は、そのまま鱗を散らし、ばらばらと解けていく。ぱきぱきと氷が割れるよ
 うな音を立てながら、その体躯を地面に沈めては鱗を散らす。サンダウンの手の中にあった首も、
 とうの昔に全部崩れ落ちていた。
  最後は、その鱗さえ地面に残らない。魔力の塊なのだから、当然だ。

 「すっ………。」

  魔術師は、何を言おうとしたのか。
  素晴らしい、とでも言いたかったのか。けれども、それは口に出来なかった。無防備にぽかんと
 なっている魔術師の後頭部に、物凄い勢いで瓶がぶつかったのだ。使い魔入りの。

 『てめぇ!俺の御主人に!よくも、よくも、よくも!くぬっ!ふぬっ!』

  地味に痛いであろうはずの攻撃は、何度も、しかもめいいっぱいの力で続けば、当然相手の意識
 を奪う事が出来る。
  使い魔の体当たり攻撃を後頭部に何度も直撃した魔術師も、例外ではない。ぼってりと倒れた魔
 術師に、使い魔はそれでも何度も体当たりをする。
  それにしても、今頃出てきて非常に役立たずな感があるのだが、それを突っ込むべきか否か。
  というか、急にいなくなったから、逃げた、役立たずめ、と思っていたのだが。
  マッドは、のそのそと近寄ってくるサンダウンを見て、思いなおす。
  このおっさんを連れ戻しに来ていたのか。
  しかし、だからなんだという気もするが。

 「大丈夫か。」
 「はん、俺一人でも十分だったんだ。」
 「……しかし、お前の使い魔が。」

  うるさいから。
  未だに魔術師に体当たりをしている使い魔は、どう見ても役立たずだ。

 「それよりも、これ、どうするよ。」

  使い魔に体当たりをされて伸びている魔術師。
  これ単体は、特に脅威ではない。が、このまま周りをちょろちょろされるのは迷惑だ。どう考え
 てもサンダウンを狙っている上に、多分、マッドの顔も覚えられた。
  殺して何処かに捨てるのも手ではあるが、しかしこの騒ぎの中では、きっと近く警備兵がやって
 くるだろう。そんな時に死体があるのは色々と不都合だ。

 「仕方ねぇ。」
 「何をするつもりだ?」
 「即興だから完璧じゃねぇが、忘れさせるんだよ。」

  そう言って、マッドは杖を取り出すと――サンダウンが贈った杖だ――昏倒している魔術師の周
 りに軽く陣を描く。その様子を見て、使い魔が慌てて離れる。そのままだったら、一緒に記憶喪失
 になったのに。
  そしてマッドは、魔術師の頭に杖の先を押し付けると、二言三言、何か呟いた。

 「……それで、終わりか?」
 「即席だからな。それに、そんなに時間を掛けてる暇もねぇ。さっさと此処からずらからねぇと。」

  警備兵が来て、尋問が始まれば、きっとサンダウンの事はすぐにばれる。そうなる前に、さっさ
 と逃げなくては。

 「結局、てめぇの所為でまた野宿じゃねぇか!」

  土埃と悲鳴で、未だに騒然としている街から離れる時、マッドが振り返って憎まれ口を叩いた。
 その言葉は十分理解しているつもりだったので、サンダウンはぼそりと呟くしかない。

 「すまん……。」
 「次の街に着いたら、てめぇ奢れよ!絶対奢れよ!」

  警備兵に見つかるのは嫌だと言っている割には、随分と騒いでいるような気もする。
  それに。
  サンダウンは、ずんずんと歩いていくマッドの後姿を見ながら、思う。

  一緒に行く事に、特に疑問はないのだな、と。