なんで俺があのおっさんに杖を貰わなきゃならねぇんだ。
  マッドは先端に、赤い石――恋人への贈り物として最近流行だこの石は――の付いた杖を見て、
 ぶつぶつと呟いた。
  杖を壊したのは、確かにあのおっさんだ。
  しかし、あのおっさんに貰った杖が、これまでマッドが使っていた杖の代わりになるかと言えば
 そうでもない。サンダウンが壊した杖は、マッドが初めて自分で作った杖で、それに代わるものな
 ど有りはしない。
  とはいえ、サンダウンが必死になって探してきたらしいそれを突き返すのもどうかと思うし、そ
 れにサンダウンが選んだ杖は、魔法の事などとんと知らぬであろう騎士が選んだにしては上等のト
 ネリコで出来ていた。なんでも霊泉の近くに生えていたトネリコの枝を削って作ったというその杖
 は、なるほど確かに、手の中にしっくりと収まる。
  なので、マッドは口を尖らせつつも、差し出された杖を受け取った。
  だが、如何に霊泉のトネリコの恩恵に与ろうとも、それが以前の杖の代わりを務める事が出来る
 かと言えばそうではない。
  サンダウンが壊してしまった樫の杖は、マッドが最初に作り、名を付け、そしてこれまで一緒に
 いた、言わばマッドの分身だ。あの樫の杖には、マッドの匂いが染みついている。それ故に、何か
 事が起こった時――例えば、そう、高位の悪魔と対峙せねばならない時、したたかな悪魔の牙が、
 マッドの代わりに、杖を狙うよう仕向ける事が出来る。
  だが、そんな大役を、トネリコで出来ていると雖も新品の杖に、果たせるわけがないのだ。
  けれども、今のマッドは、悪魔と対峙する可能性があまりにも高い。
  その理由は。
  マッドは、自分の斜め後ろを無言で歩いているサンダウンに、ちらりと視線を向ける。
  砂色の髭と髪を持つ、青い眼をした、元教会騎士。何故か今は教会に追われているけれども。そ
 してその右腕に、得体の知れないものが、いる。
  おそらく、マッドでなければ気付かないし見えないだろう、奇妙に歪み靄がかったそれ。見える
 マッドにしてみれば、それはどう考えても何らかの魔力が渦巻いているようにしか見えない。身体
 の、魂の内側で。そこに寄生するものなど、魔に属する者を置いて、他にない。
  もしかしたら、教会に追われる理由も、そこにあるのかもしれない。教会騎士が、魔物に取りつ
 かれているなんて、教会にしてみれば途方もない醜聞。取りつく魔物を払うより、追い出す事を決
 めた教会の身勝手さは今に始まった事ではない。
  だが、だからといって、今のマッドに魔物を払う事は出来ない。杖がこんな状態で、悪魔払いを
 するなど、自殺行為だ。
  だから、マッドには教会の判断を嘲笑う事はできない。
  何故なら、正しくマッドも、今からこの男を見捨てるつもりだからだ。




  Hrunting





  最近新しく打ち直されたらしい標識は、二つの道を指し示している。二又の道は、一方は港街に、
 もう一方は内陸深くに続く道だ。
  内陸深くに続く道の前に立ち、マッドはサンダウンに向き直った。

 「じゃあな。」

  マッドは、此処でサンダウンと別れるつもりだ。
  サンダウンの右腕に渦巻く魔。それに怯えているわけではないが、今此処で払えと言われたなら、
 マッドは躊躇する。例え悪魔払いの儀式の形でなくとも、なんらかの切欠でそれが暴走したなら、
 マッドは何の手だてもないまま、それと対峙せねばならない。
  恐ろしいわけではない。
  ただ、マッドは良く知りもしない人間の為に自分の命を差し出すのはごめんだった。
  だから、此処で別れようと思ったのだ。

 「この道を真直ぐ行けば、港に着く。港から船を使って別の街に行けば、教会だって追ってこれね
  ぇだろう。」

    教会がこの男を始末したい気持ちも分からないわけではないが、しかしその前に悪魔払いくらい
 してやれよ、とも思う。それとも、もしかしたら今の教会にはそんな事が出来る者はいないのかも
 しれない。
  しかし、その代わりをマッドがしてやる謂れは何処にもない。

 「俺は港に行く用事はねぇから、此処でお別れだ。」
 「そうか………。」

  サンダウンが頷いた。

 「世話になったな。」

  そして、あっさりとした口調を少し押さえ、ばつが悪そうな口調で続ける。

 「……杖の事は悪かった。」
 「あー、別にかまわねぇよ。替えの杖も貰ったし。」

  ほとんど代わりになどならないだろうが、サンダウンにしてみれば精一杯の事だったという事は
 分かる。

 「そうか……。」

  安堵しなような、腑に落ちないような表情でサンダウンは頷く。
  そして、では、と短く言って、何の感傷もなくマッドに背を向け、そのまま歩き始める。背の高
 い影には、名残のようなものは一切見られない。
  当然と言えば当然だろう。
  如何に堕ちたと雖も元は教会騎士だ。マッドのような魔法使い崩れの傭兵とは、本来相容れない。
 もしかしたら、別れる事ができて清々したくらいの事は思っているのかもしれない。
  一瞥もしない後ろ姿に、些かの躊躇いもない事を見て取ったマッドは、それ以上は見送る必要は
 ないと判断し、自分も別の道を歩き始めた。

 「それが正解だって、御主人。」

  瓶詰めの自称使い魔が、布に包まれた瓶の中からしたり顔で――顔なんか見えないが――話しか
 けてきた。

 「あんな、魔物憑きのおっさんなんかとは、早く別れたほうが御主人の為なんだって。」
 「てめぇがそれを言うのか。」

  てめぇだって魔物みたいなもんだろうが、とマッドは呟く。

 「それに、もう俺はあのおっさんと別れてるだろうが。てめぇにとやかく言われる筋合いはねぇぞ。」
 「えー。でも御主人は優しいから、あのおっさんの魔物を払えなかった事気にしてんじゃねぇの?
  そんなの気にする必要ねぇよ。だって、そもそも杖を壊したのはあのおっさんなんだし。もしか
  したら、魔物を払えなくする為に、わざと壊したって可能性もあるかもよ?そういう事は続いた
  から、教会も魔物を払えなかったのかも。」
 「……ちょっと煩ぇぞ、お前。」

  べらべらと喋り続ける使い魔に、マッドは溜め息を吐く。

 「俺は別に、あのおっさんの悪魔払いなんかどうだって良いんだよ。義理もねぇしな。仮に、俺が
  その事になんらかの思いがあったとしても、どうにもできねぇだろうが。あのおっさんは教会に
  追われてる。そこに巻き込まれるなんざ、ごめんだ。」

  きっと、あれ以上サンダウンの傍にいれば、マッドも否応なくそこに巻き込まれていたに違いな
 いのだ。マッド自身が何も知らなくとも、異端審問官達がマッドを大人しく開放するとも思えない。
  ましてマッドは魔法使い。ただえさえ教会と魔法使いの折り合いは悪いのに、魔法使いが魔物憑
 き、悪魔憑きに関わったとなれば、生かしてはおかないだろう。
  もしかしたら、今も、何処かで異端審問官達はマッドの動向を追いかけているかもしれないのだ。

 「まあ、異端審問官くらいなら、別にどうって事ねぇんだが。」

  杖などなくても。
  そんなものがなくとも、マッドは魔法を使う事が出来るし、そんなものに頼らずとも自分の魔力
 くらい調整できる。

 「用心するに越した事はねぇだろう。」

 


  辿り着いた街は、山間にあるわりには大きな街だった。
  馬車が行き交い、通りには野菜以外に、港街から仕入れた魚介類が揃っている。あとは、服や首
 飾り、そして酒などの特産品を扱う店が並んでいた。
  街に辿り着いて、マッドは少しだけほっとしていた。
  野宿を避ける事が出来たという安堵感もあるが、それ以上に街の中では異端審問官も何もできな
 いだろうと考えたからだ。如何に悪名高き異端審問官と雖も、街の中で騒ぎを起こす事もないだろ
 う。むろん、マッドを名指しで引き出すように言う事だって考えられるわけだが。
  それでも、寝首を掻かれる可能性は低くなった事は、喜ぶべき事だ。
  そう思いながら、マッドは束の間の安息を求めて街の中を見て回る事にした。
  港街から仕入れられたものも並ぶこの街には、店を見て回るだけでも十分に楽しむ事が出来る。
 珍しい外国からの本もある事は、少なからずともマッドの興味を引いたし、地酒の他にも様々な国
 の酒が並んでいるのも心惹かれる。
  そのまま、サンダウンの事も教会の事も忘れてしまいそうになるくらい賑やかしい街だが、しか
 しそれに心を奪われたままではいけない。
  マッドは傭兵だ。人に雇われて金を稼いでいる。サンダウンがいる間は、サンダウンがもそもそ
 と何らかの仕事をしてくれていたが、一人になった以上それはマッドがしなくてはならない事だ。
  何か良い仕事があるだろうか、とマッドは情報が集まる酒場へと脚を伸ばす。
  酒場は、街の中央の目立つ所にあり、すぐに見つかった。
  まだ宵も訪れていないと言うのに賑わう様子を見せている酒場は、その面構えも大きく、店の中
 に一歩踏み入っても、磨かれた床からその賑わいぶりを知らされる。
  此処なら、良い情報があるかもしれない。
  そう思い、マッドはカウンターに近付く。

 「いらっしゃい。」

  筋骨逞しい店の主人が、入ってきたマッドを見てお決まりの文句を言う。

 「酒かい?それとも食事かね?」
 「ああ……エールと、それと軽い食事を。」

  答えながらカウンター席に座るマッドは、抜け目なく酒場の壁に眼を走らせる。用入りの仕事は、
 大抵壁に張り紙をして人員を募集しているのだ。案の定、この酒場にも幾つかの張り紙がしてある。
 それらに眼を走らせながら、マッドはエールを持ってきた主人に問う。

 「なあ、最近、なんか良い仕事入ってねぇか?」
 「うん?あんた、傭兵かい?」
 「ああ。魔物退治とか、そういう仕事とかねぇのか?」
 「魔物退治なぁ……。」

  主人は、マッドの言葉を聞いて苦笑した。

 「この辺はそんなに凶悪な魔物は出たりしないからなぁ……。あそこにある張り紙は、全部荷物運
  びとか、収穫の手伝いとか、用水路の掃除とかばっかだ。」
 「……用水路の掃除。」

  マッドは呟き、どうやら此処には自分の仕事はないようだと思い至る。そして、まあ良いか、と
 思う。仕事は確かにしなくてはならないが、別に急ぎではない。そこまで懐具合が寂しいわけでも
 ない。
  のんびり行こうか、と呑気に思った瞬間に、眉間に皺が寄った。
  首筋がひりつくほどの、魔力の流れ。自然に湧き起こったものではない事は明らかだった。間違
 いなく、何処かに巨大な魔力の塊があり、それを作りだした何かがいる。
  その事実を首筋のひりつきで知ったマッドの耳に、酒場の外から突き上げた悲鳴が聞こえてくる
 のは、そう遅い事ではなかった。
  何事かと首を伸ばす主人と、扉の近くで酒を飲んでいた数人が立ち上がり、扉を開けて外の様子
 を窺う。途端に更に悲鳴が膨れ上がったような気がした。そして、そこに被さったのは、扉を開け
 た男達の悲鳴だ。
  ひっという引き攣れた呼吸の後に、喉が張り裂けんばかりの悲鳴が上がる。そこに割って入った
 のは、何処か焦げ付いたような臭い。

 「竜だ!」

  泡を食ったような声を背で受け止め、マッドは飲もうとしていたエールを、ぶっと噴き出した。
  そして、自分の身に降りかかった不幸を呪った。次に、間違いなくこの騒ぎを引き入れたであろ
 う、此処にはいない、さっき二又で別れたおっさんの事を呪った。
  扉が開いた瞬間に更に強まった、魔力による首筋のひりつき。
  それが竜のものである事は間違いがないのだが、その竜からは、生命らしきものが感知されない。

 「魔力の塊だね。」

  ぼそぼそと聞こえて来たのは使い魔の声だ。

 「誰かが、魔力を竜の形に捏ねて、此処に放り投げたんだ。何の為にかは分からねぇけど。」
 「……いや、分かるだろうがよ。」

  マッドも、ぼそぼそと答える。
  こんな山間の村に、竜を放り込むなんて大それた事するのは、気でも狂った魔法使いか、異端審
 問官くらいのものだ。おそらく、異端審問官は、サンダウンがまだマッドと一緒にいると思ったの
 か、或いはマッド一人であっても殺してしまうつもりなのか、その為に竜を放り込んだのだ。
  竜がいる事の混乱に乗じてマッドを殺すつもりなのか、それとも街ごとマッドを殺すつもりなの
 かは知らないが。

 「ふざけてやがる………。」

  異端審問官も、例えそうでなくとも、魔力で作った竜を街中に放り込むなんて、ふざけている。
 そして、おそらく、それの引き金になった、あのおっさんも。
  マッドは、酷くげんなりした表情で、炎の匂いを嗅いだ。