ようやく山を越えて街に辿り着いた。久しぶりの街に入れば、やりたい事は沢山あった。風呂に
 も入りたいし、新しい服も買いたいし、食事もちゃんとしたものを食べたいし。
  だが、そんなやりたかった事を吹き飛ばすような出来事が起きて、マッドは宿屋で溜め息ばかり
 吐いている。
  膝の上に、真ん中からぽっきりと折れた杖を乗せ、何度もやってみた試みをもう一度してみる。
 折れたところに魔力を込め、引き裂かれた細胞を繋いでいく。樫の木で出来た杖は、もしも樫の木
 が生きていたならもっと早く繋がるだろうが、生憎と死んでしまった細胞は自然治癒力を高めたと
 ころで元には戻らない。かといって、金属とも違って、一つの原子飲みで構成されているわけでも
 ない為、結果、死んだ細胞の一つ一つを繋いでいくしかない。
  とはいっても、マッドにとってはそれは大した仕事ではなかった。確かに、繊細な作業ではある
 が、単に元の形に戻す程度なら、並の魔術師にもできる作業だ。
  ただ、問題なのは。

 「………っ。」

  元の形に戻った杖に、マッドはゆっくりと力を込める。マッドの持つ魔力を杖に注ぎ込み、増幅
 させていく。その途中で、杖は耐え切れなかったように再び折れてしまう。
  以前なら、例え初心者向けの樫の木と雖も、マッドの魔力に耐えてみせた。だが、一度折れてし
 まった事で、マッドの魔力に耐える事が出来なくなってしまっている。マッドの魔力に耐えられな
 いという事は、マッドが杖に求める役割――魔力の増幅や調整ではなく――を果たせないという事
 だ。そしてその役割は、その辺で買った杖でどうにかなるものではない。

  マッドは舌打ちして、眼の前のベッドを見る。そこを陣取っている男は、今はいない。マッドの
 杖を壊した張本人は、弁償するとかなんとか言って、仕事を探しにいってしまった。きっと、賞金
 の掛かった魔物なりなんなりを倒しに行ったのだろう。

  分かっているのだ。サンダウンを責めたところで仕方がないのは。マッドも杖をぞんざいに扱っ
 ていたという自覚はある。何せ、普段の仕事では杖を使わねばからないような事には、まずならな
 い。大概の事は杖なしでも出来るし、杖が必要な仕事は傭兵よりもむしろ退魔師の仕事だ。だから、
 杖の存在自体を忘れている事もままある。
  そんな扱われ方をしている杖を、サンダウンが必要ない物と見做して、それで狼を殴ったとして
 も仕方がない事だった。それに、サンダウンはどう見ても騎士だ。魔法使いにとっての杖の意味を
 そこまで深く知っているとは思えない。
  だが、マッドの落胆ぶりを見て、流石にまずいと思ったのだろう。だからこそ、弁償するとまで
 言ってくれたのだ。
  そんなことしなくても良いのに。いや、そんな事をしても、新しい杖を貰っても、マッドには意
 味がないのだ。この、樫の杖でなくては。

 『御主人、御主人。』
 「なんだよ。」

  瓶の中に入っている、勝手に使い魔になった物体が、気遣わしげに声を掛けてくる。

 『その杖って、一体どういう経歴なのさ?』
 「俺が、初めて自分で作った杖だ。」
 『あらあ……そりゃあ、変わるもんなんて、ないよねぇ……。』

  一応魔族だけあって、魔術師にとっての杖の意味を――もしかしたら生半可な魔術師よりも詳し
 く――知っているようだ。

 『御主人、なんなら、俺が杖に化けようか!俺なら簡単に壊れたりもしないし、下手な杖よりも役
  に立つぜ!』
 「気持ちが悪いから、良い。」

  使い魔の申し出をすげなく断り、マッドは膝の上でぽっきりと折れている杖を見て溜め息を吐く。
 別に、今すぐに代わりの杖が必要というわけではない。だが、いつ何が起きてもおかしくないのが、
 流れ者の傭兵というものだ。まして今は――

 「あのおっさんがいるだろ……。」

  杖を破壊した張本人を思い、マッドは呟く。すると、使い魔は高い声で吠えた。

 『だったら、この街であのおっさんと別れようぜ!御主人があのおっさんの面倒をそこまで見る事
  はねぇじゃんか!』
 「………だが、万一何かあった時に、俺にまで責任が及ぶ可能性もあるだろうが。あのおっさんを
  追いかけてた教会の奴らは、俺の顔を知ってるんだぜ。」

  そしてその万一の時、杖がないのは非常に心もとない。なくても何とかなるかもしれないが、悪
 魔と対峙する時は、杖があったほうが心が落ち着くのは事実だ。

 「しょうがねぇ……作るか。」

  買った杖よりも、自分で作った杖のほうが、杖としての役割を果たすだろう。

 「でも、この辺りって、あんまり良い木は生えてなかったよな……。」

  周囲の森に生えていた木を思い出し、マッドはもう一度溜め息を吐いた。

  

  


  斬り伏せた魔物の一部を、斬り伏せた証拠として渡し、それと交換するような形で金品を受けと
 る。教会が如何に幅を利かせようとも、拭えぬ闇というものは確かに存在し、その闇の中でも特に
 凶悪な異形には賞金が懸けられる。それは、こうして真っ当に生きられぬ人間の生活の糧となる。
  魔物を切り落とした見返りに幾許かの金を貰い、その金を片手にサンダウンは街の中心街を歩く。
  サンダウンが金を貰ったのは、自分の生活の為ではない。
  呆然とした表情のマッドを思い出し、そんなに大切な物だったのか、と古ぼけた樫の杖を思い出
 す。何か特別な力があるわけではなさそうな杖の何がマッドの琴線に触れたのか、サンダウンには
 分からない。
  そもそもマッドは派手な物を好む。杖の代わりに腰に帯びた剣も、柄の部分に象牙を嵌めこんで
 いたりと洒落ている。見に着けているものだって、サンダウンが着ているものに比べれば、ずっと
 上等だ。そんな中、あの杖だけが異色だった。使うでもなく荷物袋に突き刺さったままのそれは、
 むしろそれ故に大切なものだったのかもしれない。

  ――魔力の調整だけではないと、言っていたな。

  中心街にある武器屋の中を覗き込みながら、使い魔の言葉を思い出す。
  マッドが好みそうな、派手な飾りのある杖を見ながら、しかしマッドはそんなものは求めていな
 いのだという。稲妻や、癒しの魔力を込められた杖などに、意味はないという。マッドが杖に求め
 ているのは、サンダウンのような一般の――サンダウンも騎士であった以上、魔法についての知識
 も多少は知っているのだが――人間では分からない役割なのだろう。

  派手な杖を飾っている武器屋の前を離れ、杖の役割について考えてみる。
  マッドは杖で魔力を制御する必要はない。サンダウンが知る限り、そんな人間は見た事がない。
 あの、教皇聖下でさえ、杖を持つ。

  だが―――

     ふっと思い出した。

 『こんな仰々しい杖よりも、慣れ親しんだ杖のほうが実践では使いやすくてね。』

  柔和な笑みを湛えた初老の教皇は、とある魔族との合戦に赴いた時、そう言っていた。教皇が公
 に持つ杖は、神の代理人が持つに相応しい、それこそ神の力を込めたと言って良い。一度使えば、
 その場にいる魔は全て殲滅できるというそれは、しかし教皇が実践で使用する事は終ぞなかった。
  あまりにも膨大な力ゆえか、それとも教皇が口にしたように使いにくかった所為か――。
  もしも後者ならば、それがマッドにも当てはまるならば、なるほど、確かに簡単に替えは見つか
 らないだろう。
  だが、マッドはそもそも杖事態をほとんど持たないではないか。結局、その部分に戻ってしまい、
 サンダウンは頭を抱えた。マッドが杖に何の役割を求めているのか分からない以上、下手なものを
 買うのはまずいだろう。しかし、不可抗力とはいえ杖を折ってしまったのはサンダウンだ。ならば、
 何らかの形で弁償するしかない。
  もう一度、大きく溜め息を吐いていると、表通りの大きな店が犇き合う中、今にも潰れそうな、
 掘立小屋のような店が眼に飛びこんできた。あまりにも場違いなその佇まいに、サンダウンはそれ
 は既に潰れて、今から撤去される廃屋かとも思ったのだが。

 「おや、いらっしゃい。」

  しわがれた老婆の声に、それが廃屋ではない事が分かった。朽ちかけた小屋の中から眼玉をぎょ
 ろつかせた老婆は、サンダウンの姿を上から下までじっくりと見た後、黄色い歯を覗かせて笑う。

 「おやおや、見たところ魔法を生業にしているようには見えないが。何処かのお偉い貴族のお使い
  かね?」

  ひひひ、と声を立てて笑う老婆の後ろ側には、理解のし難いもの――多分商品なのだろう――が
 並んでいる。茶色の小瓶の縁から溢れだした白い軟膏だとか、瓶詰めにされた薬草の類だとか、そ
 ちらの道を知らねば分からない物ばかりだ。

 「いや……とある人間の杖を壊してしまって、代わりの杖となるものを探していたが、渡す相手が
  いらないと言っていたから、もう探すのは止めようかと思っている。」
 「ほう、杖。杖とな?」

  老婆の眼がぎろりと光った。

 「なるほど、一筋縄ではいかぬ杖をお探しのようじゃなぁ、ひっひっひっ。」
 「だから、別のもので購うつもりだ。」
 「魔術師にとっては命とも言える杖を、他の何で購うつもりかね?」
 「……命、というほどのものかは知らないが。何せ、使っているところなど見た事がない。」
 「ほう。」

  老婆は、今度は嘆息したようだった。ふむふむと頷いて、サンダウンを見上げる。

 「その、壊した杖の名前は何と言うのかね?」
 「名前?樫の杖としか聞いていないが………。」
 「ほっほっほっ……なるほどなるほど、使う必要もなく、名前もない。これは確かに代わりはない
  じゃろうなぁ……。」

  愉快そうな老婆の声に、サンダウンは顔を顰めた。自分には分からぬ事を老婆があっさりと理解
 した事も少しばかり悔しいが、それ以上にもう杖は諦めたと言っているのにしつこく聞いてくる老
 婆に、嫌気がさしてきたのだ。

 「もう行く……。」
 「お待ちよ。確かに代わりの杖は用意できないが、購いの方法なら教えてやるよ?」

  一瞬立ち止まったサンダウンに、老婆は再び、ひひひと笑う。

 「お前さんの事だ。きっと杖の意味も知らないんだろう。まあ、それを知る魔術師も最近じゃ少な
  いが。」

  杖とは、魔術師の形代さ。
  老婆はしわがれた声で、そう言った。

 「本当に高名な魔術師が杖に求めるのは、魔力の調整や増幅なんかじゃない。自分の身代りだよ。
  そう、例えば……悪魔を召喚したり、祓ったりする時に、万一に備えて、杖に自分の魔力を注ぎ
  込み、身代わりとして立てるのさ。」
 「…………。」

  老婆の言葉に、サンダウンはぎょっとした。そして、思わず自分の左腕を右手で抑え込む。まさ
 か、ばれているのか。マッドに。
  そんなサンダウンの様子に気付かぬふうに、老婆は続ける。

 「身代わりとなる杖は、勿論魔術師の代わりとしての機能を果たさなくてはならない。だから、魔
  術師は、身代わりとなる杖には思い入れのある杖を使用するのさ。例えば名前を付けたり、長い
  事使いこんだり。杖に、激しい思いを注ぎ込む。」

  使い古された樫の杖。そこに込められた思いなど、サンダウンには分からない。ただ、苦楽を共
 にしたのであろうそれは、マッドにとっては十分身代わりになるものだったのだろう。

 「まして、名前も付けていないなんてね。今じゃどうか知らないけれど、昔は杖には名前を付ける
  のが普通だったんだ。けれども名前も付けずに身代わりにしたという事は――名前がないんじゃ
  ないね、魔術師の真名を付けたのか。」

  魔術師は、往々にして普段は通り名を使用する。本当の名は明かさないものだ。それは、呪いの
 中で暮らす彼らにとっては最初の防御だ。その本当の名を杖に付けたとなれば、その思いの深さが
 分かる。

 「………それで、購いの方法というのは?」

  自分が折ってしまった杖が、如何に大切なものであったのかはよく分かった。では、それを購う
 には、どうすれば良いのか。

 「杖に思いを込めてやればいいのさ。」

  そう言って差し出されたのは、トネリコの杖だった。先端に赤い石が嵌めこまれているが、特に
 力があるわけではなさそうだ。

 「けれどもそのトネリコは、霊水の脇に生えていたトネリコの若枝だよ。このあたりの木とは比べ
  物にならないほどの頑丈さを持っている。変に力を込めた杖よりも、よっぽど扱いやすいだろう。」
 「……思いを込める、というのは?」
 「さて、それは人それぞれの方法があるだろ。お前さんにはお前さんのやり方でやれば良いのさ。」

  老婆は、そうしたり顔で言うと、店の中に戻ってしまった。






  結局、老婆に押し切られるような形で、サンダウンはトネリコの杖を買ってしまった。マッドは
 代わりの杖など簡単に見つからないと言っていたが。

  ――とりあえず、渡すだけ渡してみよう。

  そう思って宿に戻り、サンダウンはぎょっとする事になる。マッドがいる部屋の中に踏み込めば、
 そこには大量の木の枝が散らばっていたのだ。その真ん中で、マッドがああでもないこうでもない
 と呟いている。

 「………何を。」

  しているんだ、と言いかけた途端、マッドの眼が鋭くサンダウンを睨みつける。

 「てめぇが杖を壊したからだろうが。」

  代わりの杖を作ろうとして、近隣の木の枝を採ってきたと言う。だが、どれも気に入らなかった
 ようだ。

 「脆くて、俺の魔力に耐えられねぇ奴ばっかなんだよ。」

  そう言えば、あの老婆もそんな事を言っていたな。思いだして、あれは本当の事だったのかと頷
 いていると、マッドが恨みがましそうな眼で見上げてきた。

 「で、てめぇは何の用なんだよ?」
 「ああ………。これを。」

  じっとりとした目つきに促されたわけではないのだが、サンダウンは慌てて買ってきたトネリコ
 の杖を差し出す。

 「一応……弁償のつもりだ。頑丈ではあると、店の者も言っていた。」
 「…………。」

  マッドは、しばらくの間、差し出されたそれを受け取らずに睨みつけていた。一向に動かないマ
 ッドにサンダウンも少し不安になってきた頃、

 「頑丈なのは分かるさ……でもよ。」

  マッドの眼は胡散臭そうだった。

 「その、赤い石はなんだ?」
 「………ただの飾りだ。別に、特別な効果はないから、お前の魔力を阻害する事もないだろう。」
 「ふぅん………。」

  それを聞いて、ようやくマッドの手が杖に伸びた。しばらくの間試すように、握り締めたり、振
 ってみたりを繰り返すマッドに、サンダウンはぽつぽつと言う。

 「もしかしたら、代わりにはならないかもしれないが……それでも、考えて買ってきたつもりだ。
  だから、その……すまなかった。」
 「まあ、別に、良いけど………。」

  杖の先端に取り付けられている赤い石が気になるのかぐりぐりと弄りながら、マッドは答える。
 その様子には怒っている気配はなさそうだ。それを見て安堵し、だがもう一点気になる事のあるサ
 ンダウンは、赤い石を弄るマッドに向かって口を開く。

 「それよりも、マッド……お前は………。」

  ――悪魔を召喚したり祓ったりする時に、万一に備えて杖に自分の魔力を注ぎ込み、身代わりと
  して立てるのさ。  

 「いや……なんでもない。」
 「………?」

  気付いているのか、と言い掛けて、止めた。聞いたところでどうにかなるわけでもないからだ。 
 それに、気付いていなかった場合、変な勘繰りをされるのも嫌だ。
  幸いにして、マッドはそれについて言及しなかった。代わりに、杖の先に付いている赤い石につ
 いて問い掛ける。

 「ところで、あんた本当に、この赤い石についての意味、知らねぇわけ?」
 「その石が、どうかしたのか……?」
 「いや………。」

  珍しく、マッドが口籠った。

 「この石……普通、恋人に贈る石なんだけど………。」