サンダウンは実を言えば少しだけ後悔していた。
  別に、教会に反旗を翻し、その庇護から抜け出した事については微塵たりとも後悔していない。
  後悔しているのは、教会の追手から逃れる時に、森の中で野宿をしようとしていた魔法使いの傭
 兵を、一瞬と雖も盾にした事である。
  傭兵である青年を盾にした事で、結果的には追手を撒く事が出来た。
  が、問題はその後である。
  一緒に追手から逃れたその青年は、俺のおかげで逃げる事が出来たんだから俺の役に立て、と言
 い放ったのである。
  確かに、追手を撒く事が出来たのは、青年の魔法のおかげだ。追手が、投じられた白色の光で視
 界を奪われている隙に、逃げ出す事ができた。そしてその追手は教会関係者であり、それに歯向か
 うという事は、青年もまた教会に追われる羽目になったという事である。
  これを見る限りでは、青年の主張は――主張する時点で何かおかしい気もするが――正しい。だ
 から、サンダウンは青年の言う通り、街道を避けて山の中を一緒に歩き、安全な所まで連れて行く
 事にしたのだ。
  が。
  如何せん、マッドと名乗るこの青年は、非常にお喋りな上、非常に口が悪く、非常に面倒臭がり
 屋なのかどうかは知らないが、狼や猪に襲われた時はサンダウンにまかせっきりで指一本動かそう
 としなかった。
  これで、食事がおいしくなければその場に放置しているところだが、幸いにして料理は上手なの
 で、サンダウンは我慢している。

  弱い、わけではないのだと思う。
  真剣な顔で鍋を掻き混ぜているマッドの――別に魔法薬を作っているわけではない、シチューを
 煮込んでいるだけだ――横顔をちらりと眺めて、サンダウンは口の中だけで呟いた。
  おそらく、マッドはサンダウンの知るどの魔術師、聖職者よりも魔法の扱いに長けている。とい
 うよりも、扱い方がまるで違うのだ。教会にいる聖職者や、貴族お抱えの魔術師などは、皆大袈裟
 に杖を振るい、指先に力を込め、長々と詠唱する。
  が、マッドはそんな事は一切しない。
  最初の時も、そうだった。短い単語を呟いただけで、閃光を生み出し、追手を撒いた。料理の時
 に使う炎など、軽い一瞥だけで生み出している。サンダウンが聞いた一番長い詠唱は、単語三つか
 らなるのもので、それは雨よけの為にに木々の形を変形させるものだった。
  マッドの魔法は、まるで呼吸するかのようだった。
  だからこそ、サンダウンは非常に気になっていた。マッドの荷物袋に押し込められた、木の杖の
 存在が。

  サンダウンが知る限り、マッドが杖を使った事はない。そもそも荷物袋に押し込められているそ
 れを構えるよりも、腰に帯びている細身の剣を抜き放つほうが早いだろう――尤も、今現在のとこ
 ろ、サンダウンが大抵の脅威を打ち払っているので、その剣も使用されている気配はない。
  いや、剣のほうは抜き放たれたのを見た事がある。
  マッドの瓶詰めの使い魔――こっちも主人に似てお喋りで口が悪い――が、つまみ食いをしてい
 るのを目撃したマッドが、恐ろしい剣幕で剣を振り回し、使い魔を追いかけているのを見た。

  とにかく、マッドが杖を使用しているのを、サンダウンは見た事がない。ないからどうというわ
 けでもない。
  杖を使わないからと言って、マッドが弱いわけではないのだし、今のところ脅威はサンダウンが
 摘みとっている。だから、問題はないのだ。
  ………そのはずだった。






  その夜、晩ご飯のシチューを食べている時に、藪の中から唸り声が聞こえた。おそらく、狼だろ
 う。もぞもぞと食器を置いて、サンダウンは剣を引き抜く。マッドと使い魔は、そんなサンダウン
 に気にせずにシチューのお代わりをしている。一瞬、理不尽めいたものを感じたが、それを口にし
 たところで、口喧嘩で負けるのは眼に見えていた。なので、大人しく剣を抜き、さっさと終わらせ
 ようと集中する。

  藪の中で、金色の眼が光った。
  同時に、一気に襲い掛かる獣。ごわごわとした毛並みは、血に何度も濡れた所為か。真っ白な歯
 並びを見せて飛びかかってきたそれを、サンダウンは容赦なく斬り伏せた。返す刀で、真横に迫っ
 ていたもう一匹を打ち倒す。赤い弧を描いて倒れたそれらに、後続の狼達が一瞬怯んだのか、唸り
 声が近付くのを止めた。
  が、だからといって油断はできない。
  狼は一頭一頭は大した強さを持たないが、しかし群れで襲うからこそ脅威となる。サンダウンが
 倒したのはまだ斥候のようなもので、奥にはまだ群れがいる事だろう。それらが斥候の死で躊躇す
 るか、それとも群れているから大丈夫だと考えて一気に襲い掛かるか、それはまだ分からない。
  囲いを解かない狼の群れに、サンダウンも構えを解かない。その背後で、マッドはシチューの入
 った鍋を焦げないようにと掻き混ぜている。

  そして――

  緊張が一気に膨らんだと思った瞬間に、藪の中が一斉に音を立て、獣達が踊り狂うように飛び出
 してきた。
  四方八方から迫りくるそれらに、サンダウンも剣を翻そうとした――瞬間に、狼達は火ダルマに
 なっている。灰色の毛並みが、正に狂ったように燃え盛るのを唖然として見やり、慌てて背後を振
 り返れば、マッドが偉そうにふんぞり返っていた。

 「俺を崇め奉っても良いんだぜ?」
 「…………。」

  シチューを偉そうに食べているマッドに、サンダウンは色んな思いが渦巻いたが、やっぱり何も
 言えなかった。 
  が、サンダウンが肩を落として間もなく、のたうちまわっていた狼の一匹が、喚き声を上げなが
 ら飛び上がり、マッドに突っ込んでいった。

 「…………!」

  咄嗟にサンダウンは抜き放っていた剣を、マッドに突っ込もうとしている狼目掛けて投射する。
 一直線に空を這った剣は、狙い過たずに狼の首筋に深々と突き刺さり、衝撃で狼はどうと地面に倒
 れ伏した。

 「…………。」

  何が崇め奉れ、だ。サンダウンは、妙に詰めの甘いマッドに、心の中だけで毒づく。が、その暇
 もなく、藪の中から最後の一頭が飛び出してきた。仲間が全て倒れても逃げ出さずに向かってきた
 その意図が一体何なのか、サンダウンには推し量る事はできない。ただ、間違いなく言えるのは、
 今現在のサンダウンの手元に、剣はないという事だ。
  マッドの横で倒れ伏している狼の首に埋まったままの剣を取りにいく暇はない。咄嗟に視界を巡
 らせて、飛び込んできたのはマッドの荷物袋に突き刺さっている杖だった。それを引き抜いて、飛
 びかかってきた、群れの中では小さいほうの個体を殴りつけた。
  ぎゃん、という憐れな声と共に、ぼきり、という何かが折れる音がした。それは、間違っても、
 狼の骨が折れる音ではない。
  サンダウンは自分の手の中を見る。
  そこには、ぼっきりと真っ二つに割れた、木の杖の姿があった。






 「てめぇええええええ!」

  一瞬の沈黙の後、マッドの怒鳴り声が聞こえてきた。

 「俺の杖になんて事しやがるんだ!」

  真っ二つに割れた木の杖――材質は樫だろうか――は、古びているだけで何の魔力も感じない。
 多分、本当に初心者用の杖なのだろう。これくらいのものなら、そのへんの店で最安値で売ってい
 るはずだ。
  が、そんな粗末な杖を折られたマッドは怒り狂っている。
  お前杖なんか使わないじゃないか、とか、だったらお前を助けなければ良かったのか、とか、色
 んな反論がサンダウンの胸に去来したが、しかしそれらはやはり一言も声にならなかった。間違い
 なく杖を折ったのはサンダウンなのだし、もしかしたら、この杖は本当に大切なものだったのかも
 しれない。サンダウンが見る限り、何の変哲もない杖なのだが。 

 「すまん………。」

  とりあえず謝ると、マッドはサンダウンの手から折れた杖を奪い、どうにかしてひっつけようと
 魔力を込めたり色々と画策し始めた。が、ひっついた、と思っても、それを使おうとするとすぐに
 ぽっきりと折れてしまう。
  呆然として折れた杖を見やるマッドが、何だか本当に困っているようなので、サンダウンは重ね
 て謝った。

 「すまん………その、なんとか、弁償するから。」

  今は金はないが、街に辿り着けば何か仕事はあるだろう。それで金を溜めて弁償するから。
  そう言ってみても、マッドからは何の反応もない。代わりに、瓶詰めの使い魔が、したり顔で馬
 鹿にしたように答える。

 『ふん、この馬鹿ヒゲが。これだから魔術に疎いおっさんは困る。魔術師の杖は、ほいほいと簡単
  に取り替えられるもんじゃねぇんだよ。』

  ふよふよと瓶の中に入ったまま、偉そうに言う様は、なんとなく非常に間抜けに見えるのだが。

 『杖と魔術師には相性ってもんがある。どんなに金ぴかの杖を持ってたって、合わなけりゃ魔力を
  完全に調整しきれねぇんだよ。ま、教会のお偉方なんかは、金ぴかの杖持って満足してるような
  連中なんだろうけどな。』
 「………マッドは杖を使わないだろう。だから、相性も何もないんじゃないのか。」
 『はん!そりゃあ御主人は偉大だからな。杖なんかなくったって、魔力の調整くらいできるさ。杖
  という媒体なくしても、自分の魔力の制御くらい出来る。』
 「だったら、良いだろう……。」
 『けっ!なんだぁ?教会ってのは杖に対して、その程度の認識しか持ってねぇのかぁ?お偉い退魔
  師サマ達は、何の為に杖持ってんだか。』
 「……魔力の調整だけじゃないのか?」

  サンダウンは魔法の事は一般的な知識しかない。それ故、杖を使用する理由も、魔力の増幅や調
 整、後は魔法陣を描くくらいしか知らないのだが。
  しかし、使い魔はそれだけではないという。そしてサンダウンの知らない理由こそが、マッドが
 杖に求めている事だという。普段杖を使用しないマッドが求めるそれは、一般的な魔術師でも普段
 からは使わない使用法なのだろう。
  眼に見えて落ち込んでいるマッドは、そのままぺたんと地面に横になる。

 「マッド………?」
 「もういい。杖の事は明日考える………。」

  しょんぼりとしたマッドに、サンダウンは慌てた。が、どうする事も出来ない。なんとかしなく
 ては、と思うものの、何せマッドが杖に何を求めているのか分からないのだ。
  結果、何も出来ないまま、転がるマッドを見る事しかできなかった。