荒野を縦断し続ける長い長い逃避行。

  その逃避行の間、久しぶりに訪れた夜の灯りが眩しい街で、久しぶりに女を買った。

  路地裏を歩いているとしな垂れかかって来た女は、何処にでもあるようなブルネットの髪を高く
  
 結い上げた、茶色の眼をした女だった。

  茄子紺色の夜会服を見に纏った姿からは、濃厚な紫煙の匂いがした。





  Romeo y Julieta










 
  ホテルでゆったりと身体に凭れかかってくる女の身体を受け止めながら、そこから香り立つ匂い
  
 に、これはいつか嗅いだ事がある匂いだと思った。

  腕の中にいる女がどうやら好んでいるらしい葉巻の匂いに、サンダウンは首を傾げる。

  サンダウン自身は葉巻にそれほどの拘りはない。特に賞金首として放浪するようになってからは、
  
 安物の、何処の物とも知れぬものを買うだけだ。
   
 
 
  何処で嗅いだのか、と意識をそちらに飛ばしていると、不意に女が立ち上がった。

  嫌味なくらい焦らすような足取りで、部屋に添え付けられた棚に手を伸ばし、そこに鎮座してい
  
 るウィスキーの瓶とグラスを取り出す。そして、それらをテーブルに並べた後、再び棚に近づき、
 
 今度は引き出しから燐寸と葉巻を二本取り出した。

  女の白い指が葉巻を挟み、そのまま唇へと持っていき咥える。

  そして自由になった手で、今度はすっと燐寸を擦った。ぽっと灯った炎から、燐の匂いがふわり
  
 と沸き立った。



  しかし、その僅かな匂いはあっと言う間に、灯が灯った葉巻から香る強烈な匂いに掻き消されて
  
 しまう。

  独特の甘ったるい、濃厚な香り。

  瞬く間に部屋いっぱいに広がったその匂いに、サンダウンは、ああと思い出した。

  この強く甘い匂いは、いつも自分を追いかけてくる賞金稼ぎから香ってくる匂いだ。



  彼が好んでいる葉巻の銘柄。



  賞金稼ぎというには繊細すぎる細い指が、その銘柄の刻印が押された葉巻に吸い口を付ける為に

 ナイフで片側を切っているところを何度も見た。

  なかなか手に入らない葉巻だと口角を持ち上げて笑いながら言う姿も、覚えている。

  それと同時に、先程まで女から薫っていた匂いも、一度マッドが咥えていた事を思い出す。

  最近新しく作られた葉巻だと言っていた。何かの小説の話の題名を銘柄にしているとか呟きなが
  
 ら、でもあんまり好みじゃないとも言って、それでも最後まで吸い干していた。
 
 

  白い手の中で音もなく燐寸に火を点け、白い歯で――葉巻に噛み痕がつく事を好まない彼は、た
  
 だ固定する為だけの緩い力で葉巻を咥える。決してベッドに寝転んで吸ったりしないところは、変
 
 に几帳面だと思ったりもした。

  すらりと背骨をベッドの上に垂直に立てて、細い指を絡めて、白い歯で甘噛みするように咥えて。
 
  気だるげに見えるくらい優雅な仕草での葉巻を吸う姿は、矢鱈と艶めかしく、サンダウンの指に
  
 舌を絡めている時のように口の端から唾液を垂らしていないのが不思議なくらいだ。


  
  一度思い出した気配は、一瞬の想起であってもサンダウンにその存在の全てを鮮やかに思い起こ
  
 させた。

  何もかもを呑み込んだように黒い髪と、宇宙を刳り抜いたかのような透明な瞳。分厚いジャケッ
  
 トに覆われた身体は白く、すっきりとした筋肉で覆われている。擦り傷こそ多いものの、西部の男
 
 としては端正な指先。そして、時折柔らかく訛る、けれども洗練された声音。 
 
 

  今、何処で何をしているのか。
  
  

  自分と同じ根なし草で、けれども愛される事が当然である男は、やはり今も場の中心に座して、

 愛されているのか。



  振り切る事が出来ない姿ばかりを追いかけていると、突然目の前で甘ったるい香りが更に輪をか
  
 けて濃厚に薫ってきた。見れば、女が用意していたもう一本の葉巻にも火を点けて、サンダウンに
 
 差し出している。 大人しくそれを咥えれば、女の茶色の眼が妖しく煌めいた。
 
  この葉巻はこの女が好むものではない。好んでいるとしても、普段から愛飲しているものではな
  
 いだろう。では何故よりによってこの葉巻を――あの賞金稼ぎの事を想起させる匂いの葉巻を取り
 
 出したのか。

  もはや妖艶に動く女を見ても、心どころか身体さえ反応しないのに。



  サンダウンの心の中での疑問が通じたわけではないだろう。

  けれど女は妖しい笑みを消さずに、今日は特別、と言った。

  その言葉に首を捻っていると、女の手がサンダウンの身体を滑り始めた。手を腰から下肢へと滑
  
 らせながら、女は絶え入るような声で囁き続ける。



  だって、貴方、好きでしょう?



  サンダウンは眉根を寄せた。

  サンダウンは葉巻に特にこだわりがない。そもそも、マッドがなかなか手に入らないと言ってい
  
 た葉巻を、サンダウンが手に入れられるわけがない。

  大体、何を根拠にそんな事を言うのか。
  
  今度こそ、サンダウンの疑問は顔に出て、しっかりと女に伝わったようだ。女は妖艶に微笑むの
  
 を止め、怪訝そうにサンダウンを見る。


  
  だって、貴方から、この匂いがしているけれど?

  貴方、この葉巻を愛飲しているんじゃなくて?


 
  次の瞬間、サンダウンは圧し掛かっている女を跳ね除ける勢いで、ベッドから起き上がる。

  突然の豹変に、女が呆気にとられているのも構わず、サンダウンは脱ぎ捨てていたポンチョを羽
  
 織り、脇に避けていたホルスターと銃を引っ掴むと、女を置き去りに足早に部屋を出ていった。
 
 

  甘ったるい匂いのする部屋から遠ざかり、星の瞬きが聞こえる夜の風だけが薫る屋外に身を投じ、

 そこでようやく気が付いた。
  
  風に煽られて擦り切れたポンチョの裾が揺れる度、確かにあの甘い匂いが翻っている。

  いつもあの男の項やら腰に顔を埋めた時に、喘ぎ声と一緒に沸き立つ香りが。



  一体、いつの間に。

 

  自分に染みついた匂いに、サンダウンは呻く。
  
  いつの間に、こんなにもあの男の存在が自分に染みついてしまったのか、と。

  まるで気付かぬうちに撒かれた種が、自分でも知らぬうちに芽吹いたようだ。或いは、知らず知
  
 らずのうちに侵攻していた病魔が、遂にその刃を心臓の裏側に突き付けているよう。

  けれども染み込んだその匂いの中に、あの男自身の香りを期待して探している時点で、自分もど
  
 うかしている。

  

  いや、そもそも女があの匂いを放ち始めた時に気付いていたではないか。

  もう、この女は抱けない、と。
 
  抱けたとしても、ちらつくのはきっとマッドの姿ばかりで、欲を吐き出しても後に残るのは嫌悪
  
 ばかりだろう。それどころか、逆に欲求不満になってしまいそうだ。

  結局のところ、匂いで誤魔化せる事ができるほど、あの男の代わりなんかいないのだから。

   
 
  つまり、とサンダウンは遂に苦々しく認めた。

  要するに、自分はあの男に逢いたいのだ。

  今すぐに。


 
  広い荒野では邂逅する事は稀で、しかも立ち場が全くの逆である為に邂逅したとしても腕に抱く
  
 事は更に困難だ。

  けれども、それ故に欲しがるのは人間の業だろう。
  
  

  離れ離れにしようとすればするほど、より強く惹き合う磁石のように。

  手に入れられないものほど、手にいれたくなるように。

  自分と真逆の世界を行く男を、どうにかして自分の物にしたいだけだ。    



  自分の身体から零れ落ちるマッドの欠片を肺に吸い込んで、サンダウンは気配を声高に主張させ
  
 馬に跨った。
 
  こうして荒野を駆けていれば、マッドが見つけてくれるだろうと期待して。