眼を覚まして、ぼんやりと前を見る。
  けれども、視界がぼやけている所為か、辺りが良く見えない。だから、先程よりも少し瞼に力を
 入れてみる。しかしやはり周囲はぼやけたままだ。
  しばらく、うつうつとそんな事を思いながら前を見ていたが、ようやく視界がぼやけているのは
 自分の所為ではなく、単に辺りが暗いからだと気がついた。そして、自分が前だと思っているのは、
 古びた小屋の汚れた天井である事も理解した。
  一つを理解さえすれば、後は芋づる式に記憶の扉は開いていく。
  するすると順繰りに脳裏に浮かび始めた昨夜の事象は、しかしある一点に辿り着いた瞬間、それ
 以上の回想を止めた方が良いのではないかという後悔――それはもう、壮絶すぎる後悔を巻き起こ
 した。
  その後悔と共に、すっかり忘れていた身体の感覚の事も思い出される。
  全身が痛い。
  特に、腰と、言うのも憚られるような、有り得ない部分が。




  雨だれ





  ぽたぽたと耳朶を静かに打つ雨だれを聞きながら、マッドは歯を食いしばった。先程少し身体を
 動かした時に、有り得ない部分が有り得ないくらい痛みを引き起こしたのだ。
  絶対に、切れている。
  今、自分の身体から血の匂いがしない事が不思議なくらいだ。
  ちくしょう、あの野郎。
  ぎりぎりと痛みを堪える為に歯ぎしりしながら、マッドは自分をこんなふうにした男への罵りを
 腹の底で繰り返す。
  よもや、あの男がこんな事をするだなんて、微塵も思っていなかった。今まで、一度だってそん
 な危機を、あの男からは感じた事はなかったのだ。
  言っておくが、マッドは何度も男に襲われた事がある。女の少ない荒野では、男が男を犯す事は
 日常茶飯事だったし、マッドは自分の見てくれがどう足掻いても優男でそうした餌食になりそうで
 ある事は重々承知していた。事実、路地裏に引き摺りこまれそうになった事は、両手の指では足り
 ないくらいある。その度に、撃退してきたし、そういう危険性のある男には近寄らないようにして
 いた。十分に気を付けていたつもりだったのだ。
  それが、今夜、こんな形で打ち破られる事になるなんて。
  ショックと言えばショックだ。
  だって、明らかに無理やりだった。強姦だった。
  女だったら――いや、男だって、トラウマとして永久に心に突き刺さり、最悪の場合その場で首
 を括って死んだとしてもおかしくないくらい、悲劇的な出来事だ。 
  だが、幸か不幸か、マッドの中には相手を罵る言葉こそ思い浮かびこそすれ、自分が悲劇の真っ
 ただ中に突き落とされたという感情はない。
  というか、強姦しておいて、こんな朽ち果てた小屋に放置するほど嫌いか。
  マッドは、その考えに思い至り、そうなって初めて少しだけ胸が痛んだ。
  男が男を犯すのは、女を抱けない事で降り積もった欲望の捌け口というのが一番の理由だが、他
 の理由の一つとしては、相手を完全に屈服させる事がある。そして、もう一つは、相手に真からの
 絶望を与える為。
  欲望の捌け口という理由も、屈服させる意味合いも、あっただろうとは思う。しかしそれらも含
 む事で、相手を絶望に陥らせる事が可能なのだ。この、行為は。
  そんなに嫌われたのか、憎まれたのか。
  マッドは痛む身体を床に横たえたまま、天井を見つめる。
  ずっと追いかけていた。何度も決闘を申し込んだ。その度に軽くあしらわれた。その事に怒り狂
 った事もあるし、地団太踏んだ事もある。
  だが、そんなマッドの姿を見ても、あの男は何も言わなかったし、何もしてこなかった。その姿
 に、俺はどうでも良いのか、と余計に腹が立った。だから、ますますその周囲をうろちょろしてや
 った。
  もしかしたら、それが、あの男の怒りの琴線に触れたのか。
  眼障りだと。その姿を見るのも嫌だと。絶望を与えてやりたいと思うほどに。静寂と孤独を好ん
 でいるようだったから、それを乱された事に腹を立てたのかもしれない。
  無表情・無感動の態度をか殴り捨てて、問答無用で固い砂の上に突き飛ばして、その上に圧し掛
 かるほどに。
  そういえば、信じられないくらい泣き叫んだな。
  喉にまで痛みを覚えて、マッドは自分が如何に無様だったかを想像し、今度は怒りの歯ぎしりを
 する。有り得ない所に有り得ない物を突き入れられたのだから、泣き叫んでも当然なのだが、しか
 し無様であった事に間違いはない。悲鳴を上げて、最後には許しを請うた自分の姿は、あの男にと
 っては満足の行くものだったのだろうか。
  ちくしょう。
  マッドは痛む喉の奥で、呻く。
  こんな事で諦めてやるかよ、とあのすかした面の前で言ってやりたいが、この状態では当分動く
 事すらままならないだろう。いっそ、この場にあの面があったなら、その顔に唾を吐きかけてやる
 のだが。
  マッドの無様さを嗤うというのなら、強姦以外の方法でマッドを振り落とせなかった事を嗤って
 やろう。
  いっそ、殺せば良かったのだ、と言って。
  殺す価値もないと思っていて、それで強姦して振り落とした気になっていると言うのなら、その
 眼の前に現れて、殺す以外の方法がない事をしっかりと叩きこんでやらねば。
  当分、まだ、動けそうにないが。
  しかし、身体が癒えたなら、真っ先に捜し出して逢いに行って、マッドの事など何一つとして理
 解していないという事を知らしめてやろう。
  強姦程度でマッドを傷つける事は出来ないし、ましてマッドが自殺するなど有り得ないのだ、と。
  雨だれの数を数えながら、マッドはつらつらと考える。身体が癒えた後の計画を、床に転がって
 考える。ひとまずは身体が癒えて、そして雨が止んでからでないとは動けないとは分かっているの
 だが。
  小さく、くしゃみをした。
  雨が降っているのだから、冷えるのは当然だ。マッドは身を縮め、身体に掛けられている毛布を
 掻き合わせた。
  そして、はたと気付いた。
  何故、毛布なんかを被っている。
  服を剥かれて、強姦され、そしてこの小屋の中に放り込まれて放置された。そして、何故毛布な
 んかを被せられているのか。
  そもそも、マッドの身体から血の匂いがしない事もおかしいのだ。確実にマッドの身体は行為の
 最中に血を流している。にも拘らず、血の匂いどころか精の匂いもしない。そして、少し躊躇われ
 るが、身体の中にも精は残っていないようだ。
  つまり、意識を失ってから、マッドは身体を清められ毛布に包められていた事になる。
  何故だ。
  強姦の場合、基本的には被害者はその場に放置、或いはこの小屋のような薄汚れた場所に捨てら
 れて終わりだ。最悪の場合は殺される事だってある。身体を清められ、毛布に包まれる事など、少
 なくともマッドは聞いた事もない。
  何を考えている。
  温情か、これは。
  だとしたら、何の為に。
  身体に掛けられた毛布は、古びてはいるが、けれども汚れておらず、まだ柔らかい。強姦した事
 を隠す目的で掛けたというには、あまりにも柔らかすぎる。
  或いは、マッドの出鼻をくじく事が目的だろうか。マッドが強姦程度では諦めない事を予測して。
 しかしそれがあまりにも無理のある解釈だという事は、マッドも分かっている。
  確かに、出鼻は挫かれたのだけれども。
  マッドは、毛布に包まった状態で、戸惑った。
 まさか、こんな事をされているだなんて思ってもいなかったので、思い出すのが遅れたのだけれど。
  事の始まりは、口付けだったような気がする。
  結構、熱烈な。
  強姦する相手に、口付けってするもんなのだろうか。マッドは強姦などした事もないし、された
 のも今回が初めてなので、相場が分からない。分かりたくもないが。
  途方に暮れた。
  あの男の考えが、微塵も分からない。それとも、途方に暮れさせる事が目的か、どうなのか。分
 からなさ過ぎて、毛布に包まったままジタバタしたいが、身体が痛いのでそれも出来ない。

 「くそ、言いたい事があるんだったら、口で言えよ、あのおっさん。」

  腰が砕けるほどの口付けをしておいて、無言で無理やり事を進められたら、どうしたら良いのか
 分からない。
  嗄れた声で呟いて、マッドは毛布に丸まって、これ以上考えるのは止める事にした。
  逢った時に、絶対に問い詰める、と決意しながら。