道がない。
  進むべき道を示唆すべき標がない。
  ぐずぐずとした汚泥のような気配の濃い地面に倒れ伏し、その冷ややかで、けれども血が固まっ
 たようなねっとりとした土に顔を埋める。
  いっそ、このまま身体丸ごと飲み込まれてしまえば良い。
  幾つもの怨嗟と呪詛と怨霊を呑み込んだ大地だ。おぼろ丸一人の身体くらい、わけもなく呑み込
 んでしまえるだろう。むしろ、こうして標を失って生きているおぼろ丸だからこそ、簡単にこの世
 界と同化できるはずだ。
  突如として視界が歪み、その果てに放り出された世界は、見た事のない建物の立ち並ぶ風景だっ
 た。生える木々も知らぬ名のものばかりで、唯一名が分かるものと言えば、歪んでいながらも確か
 に存在する月と、止め処なく振り続ける雪くらいのものだった。
  それ以外の正確な名前は、おぼろ丸には分からない。
  だが、この世界に飛ばされた瞬間、途方もなく此処が自分の居場所なのだと心の底から思った。
 どれだけ光に照らされても、まるでそこだけに晴れぬ靄がかかったかのように澱みくすんだ風景と、
 そこから微かに、しかし確かに漂う腐臭と死臭が、明らかにおぼろ丸の生き様と良く似ていた。そ
 う長くはないおぼろ丸の人生の中の、それも特に、ここ数日間の標を失った後のおぼろ丸に。
  あまりにもこの世界の空気は自分の肌に馴染み過ぎて、もはや同化してしまいそうだ。それを良
 と捉えるおぼろ丸がいる時点で、既に取り込まれかけているのかもしれない。
  だが、そんなおぼろ丸の意識を、ルクレチアのくすんだ世界から切り離そうとするかのように、
 背後から凄まじい質量の凍えがおぼろ丸の身体を貫通した。激痛というものが形取られたかのよう
 なその塊は、何度も何度もおぼろ丸の背中を貫いて、そうしておぼろ丸が痛みのあまり白眼を剥い
 て、何も考えられなくなるまで容赦なく痛みを叩きつけるのだ。




  Pity-Self





  氷のような冷たい塊がようやく身体から抜け去って、おぼろ丸は支える者すら失って、本格的に
 地面に崩れ落ちた。
  しかし痛みに慣れた――この行為とて自分が元いた世界で何度も体験した事だから痛みで気絶す
 る事はない。どろどろと獣の唾液を口の端から地面に垂れ流されていくのを眼で追いながら、おぼ
 ろ丸は流れた唾液が喜んで地面に吸い込まれているような気がしてならなかった。
  その喜びを自分に置き換える暇さえ許されず、おぼろ丸は髪の毛をかさついた武骨な手で掴まれ、
 無理やり居心地の良い地面から引き剥がされた。引き剥がされる事への苦痛に声を上げれば、その
 行為は少しばかり優しくなったけれど、逆にその優しさがおぼろ丸にとっては苦痛だった。
  何故それが分からないのか、とおぼろ丸は自分を地面から引き剥がした男へとようやく視線を転
 じれば、能面を張りつけたような完全な無表情の蒼い眼とぶつかった。
  その眼を一番最初に見た時、自分と同じく標を亡くし、この阿鼻叫喚を呑み込んだ血色の大地に
 溶け込む事を望む存在だと思ったのだが。勃つ事もない欲望の証をおぼろ丸の身体に無理やりねじ
 込んできた時は、そのあまりの冷たさに、間違いなく自分と同じ、道を絶たれて絶望を飲み干した
 身体だと思ったのだが。
  こうして、おぼろ丸と既に同化しかかっている血糊のようなねっとりとした居心地の良い地面と
 おぼろ丸を引き剥がそうとする。
  それが、おぼろ丸にとっては疎わしいものにしか感じられない。

 「……何故。」

  おぼろ丸は地面から引き剥がされた宙ぶらりんの状態で、自分を先程まで犯して意識さえも地面
 から一時的に引き剥がした男、サンダウンを見上げて問うた。
  自分を地面から引き剥がして抱え上げた男の表情は、その問い掛けに無表情を消して、微かに眼
 を細めたようだった。微かな慈しみを感じさせる表情と、少しばかり優しい手つきでおぼろ丸を抱
 え上げている男は、ゆったりとした口調で囁いた。

 「お前が、この世界に呑まれようとしている事に、気付かないと思ったのか?」
 「……放っておいてくだされば良いものを。」

    先程までの乱暴さの鳴りを潜めたサンダウンから眼を逸らし、おぼろ丸は小さく呟いた。呟いた
 言葉は半分以上が本心であったが、同時にこの男が死地に呑み込まれようとしている自分を掬い上
 げてくれるのだろうかという、淡すぎる期待もあった。
  自分がみすみす死なせてしまった、日の本を背負うべき男の代わりになってくれるのか、と。も
 ちろん、あの、額から血を流して斃れた男の代わりになるべき存在など、何処にもいない事は、お
 ぼろ丸とて十分に理解しているのだが。

 「放っておくわけにはいかない。」

  低い声は、きっぱりとしていた。その揺らぎもない声音におぼろ丸は背筋を粟立てた。まるで、
 志半ばで斃れた男のような声だ。声そのものは似ても似つかないし、姿形人となりなど、完全に別
 物なのだが、すっと立ち上がった信念のようなものが、酷く似ているような気がした。

 「お前を、この地にくれてやるわけにはいかん。それを阻む為なら、私は幾らでもお前を穢すだろ
  うし、私自身が穢れるのも厭わない。」

  何もかもを決めてしまった声が、強烈に耳朶を打つ。鼓膜の隅々にまでこびりついて離れないく
 らい、それはおぼろ丸の中に浸透した。
  もしもこれが、中身の伴わない上っ面だけの言葉だったなら、おぼろ丸は言葉として認識すらし
 なかっただろう。だが、サンダウンは言葉通りおぼろ丸を穢しているし、それによりサンダウン自
 身も穢れている。
  だからこそ、問わずにはいられなかった。

 「何故?」

  あの時、確かに自分を求めたあの男のように、自分を惜しんでくれているのだろうか。もしもそ
 うだと言うのなら、おぼろ丸はこの自分に良く似た大地から身を引き剥がし、血を流してでもこの
 男の世界へと戻るのだが。
  そう思ってサンダウンの頬に手を伸ばしたおぼろ丸を、サンダウンが穏やかな眼で見下ろし、

 「……もしも此処にいたら、お前を止めるであろう人間を一人知っているからだ。」

  おぼろ丸の手の動きが、ひくりと止まった。サンダウンの言っている意味が、掛け値なしに、理
 解できなかったからだ。
  怪訝な空気が、しっかりと顔に刻まれてしまったのだろうか。サンダウンが少し考える素振りを
 見せ、やがて説明する為の言葉を吐き出し始める。

   「私には、私を諦めないでほしいと願う人間がいる。あれは、腑抜たお前を見ればきっと何とかし
  ようと思うだろう。だから、私もそうするだけだ。」

  諦めて欲しくないが為に。
  顔面に振り下ろされた言葉に、おぼろ丸は唇を歪な形に歪めた。サンダウンの頬に触れようとし
 た指も、今やまるで鉤爪のように捻じれている。

   「犯したのは済まない事だと思う。だが、私には他に手段が思い浮かばない。あれならば、もっと
  上手くやったのだろうが。」

     そう告げるサンダウンの蒼い眼は、まるでおぼろ丸を見ていなかった。おぼろ丸を通り越して、
 サンダウンの世界にいる、おぼろ丸には誰とも分からぬ存在に、これで良いのかと問いかけている
 のだ。
  サンダウンの行いの全ては、悉くがサンダウンの為でしかなかったのだ。サンダウンが、諦めて
 欲しくないと思っている人物に対して、取りつくろう為の。
  いや、そんな事、最初から気付いているべきだったのだ。何故ならば、おぼろ丸を犯す時のサン
 ダウンは欲望を膨らませていなかったではないか。おぼろ丸の身体を慣らす事もなければ、快感を
 与えようともしない。後片付けの時に微かに優しい手つきをするだけで、その行為自体はサンダウ
 ンが悦んでしている事ではないのだ。痛みしか与えないなど、おぼろ丸の身体など微塵も思い遣っ
 ていないではないか。

    「拙者は、かような人物の代わりではござらん。」

  精一杯の矜持を保って、鉤爪となりそうな手を握り締め吐き捨てると、瞬時にサンダウンの気配
 が変貌した。
  穏やかな空気は一変し、おぼろ丸を貫く冷たい欲望――いや、勃ってさえいないのだから、それ
 は欲望でさえない――のような気配に包まれる。それに伴い、青い眼も真冬の海のような凍えを孕
 んでいる。表情は、いつもの能面のような無表情だ。
  そして、まるで疫病の感染源であると言わんばかりに、おぼろ丸を地面に投げ捨てた。

   「お前が、あれの、代わり?」

  低い声は、せせら笑うような蔑みがあった。
  先程までの穏やかな空気は、もはやおぼろ丸に向けられていたものではない事は明白だった。サ
 ンダウンが何処かに視線を探している人物に向けられて、それは放たれていたのだ。
  
 「自分を憐れみ過ぎて、遂には身の程知らずの夢でも見たのか?お前はあれの代わりになどなれん。」
 「貴殿こそ、あの方の代わりになど。」

  なれはしないのだ。そんな事、端から分かっていた。
  だが、おぼろ丸の今更の諦観の声に、サンダウンはいっそう霜の降り立った刃のような声を出す。

 「当たり前だ。私が、お前の願掛けの相手になどなるわけがないだろう。むしろ、お前と私が、同
  じ側の人間なのだから。」

  サンダウンとおぼろ丸は、本来ならば、同じようにこの血塗られた地面に同化する存在だ。だか
 ら、サンダウンがおぼろ丸を救うなど、本来ならば起こり得ないのだ。サンダウンがおぼろ丸の同
 化を止めようとする理由はただ一つ。サンダウンの手元にある光に対して、自分の光の面を見せる
 為だ。おぼろ丸の為などでは、決して、ない。

 「お前は、まさか私がお前を憐れんだり、よりにもよって慈しんだりするとでも思ったのか?」

  性欲の対象にさえならないのに。
  その問い掛けに、おぼろ丸は頷かずに、溜め息を零した。

 「拙者は憐れみなど求めてはおらぬ。」

  既に全てを諦めている。おぼろ丸の中にあるのは諦観だけだ。しかしそれに対してサンダウンは
 頷いた。

 「そうだろうな。お前にはこれ以上憐れみは必要ない。既に十分に、自分で自分を憐れんで慰めて
  いるのだから。」

     サンダウンの言葉が斧となっておぼろ丸の顔に打ち降ろされるのは、これで二度目だった。いや、
 きっとこれからも何度も何度も振り下ろされては、おぼろ丸の顔に裂傷を刻み続けるのだろう。お
 ぼろ丸でさえ気付いていない事実を突き付ける事で。おぼろ丸が誤魔化している言葉を吐き捨てる
 事で。
  今も、また。
  
 「言っておくが、一人この地に残って同化する事など許さん。私はこの世界に来た人間全員を、元
  の世界に戻すつもりだ。あれも、それを望んでいる。それを潰す事は、許さん。」
  
  両手両足を切り落としてでも、生かして元の世界に戻してやる。
  サンダウンの声は揺ぎ無い。たった一人の人間の為だけに、サンダウンの心は鋼よりも硬化して
 動かないのだ。
  そしておぼろ丸は、顔も知らぬ誰かの為だけに、光の残っていない元の世界に戻るのだ。自分が
 全てを無くして、もはや進むべき道もない世界に。