それはまだ、マッドが本当に小さかった頃の話だ。
  父親も健在で、母親もまだ優しかった頃の話で、マッドも自分が親を見限って荒野の風を追い求
 めるだなんて、夢にも思い描かなかった頃の話。
  白亜の屋敷には黒焦げた跡など何処にもなく、玄関までの距離が馬鹿みたいに長い広大な前庭も
 綺麗に手入れされ、屋敷の中には召使や奴隷達が忙しなく歩いていた。
  その当時の事を振り返れば、果たしてあの奴隷達は本当に不幸だったのだろうかと思う。
  当時の父と母は、マッドの知る限り優しく、決して不当に奴隷を扱っているようには見えなかっ
 た。それは勿論、子供であったマッドの眼から見たものであって、実際は違っていたのかもしれな
 いし、その言葉自体、戦争に負けた南部貴族の言い訳や僻みにしか聞こえなかっただろう。だから、
 マッドはその疑問は口にしないでいるし、そもそもマッドの人生においてその疑問は大層な意味合
 いを持つものではなかった。単純に、稀に思い出す昔の事の中でも、ふとした瞬間に掠め去る思考
 の一端でしかない。
  いずれにせよ、今のマッドの思い出の中で、それは大きな思考ではなく、玄関に飾られた巨大な
 絵を思い出す時に行き交った召使の一人に過ぎなかった。
  玄関に飾られていた、先代の当主――所謂マッドの祖父に当たる男の肖像画は、子供の眼から見
 れば気持ちの良い絵ではなかったな、と。




  Fortuna vitrea est; tum cum splendet frangitur





  くわっと開かれた眼光と、幾つも刻み込まれた皺。尊大そうな髭。
  恐らく逢った事はあるのだろうが、マッドが思い出す祖父の顔は巨大な肖像画に描かれたそれだ
 った。それ以上の思い出は何処にもなく、どんな人柄だったのか、肖像画に描かれたそのままのよ
 うな厳格な性格だったのか、それともどちらかと言えば陽気な父のような性格だったのか、まるで
 覚えていなかった。 
  ただ、覚えているのは、その肖像画を描いたのは若い無名の画家であり、彼の絵を気に入った父
 が、彼を度々家に呼んでいた事だけだ。
  画家と聞けば、皆が皆、ひ弱な優男を想像するかもしれない。
  だが、その男はどちらかと言えばがっちりとした体格で、黒い髭の濃い、何処となく下町の生ま
 れを連想させる容貌だった。醜かったわけではないので、若い召使の中で多少なりとも噂になって
 いたし、口の悪い連中の中にはマッドの母親が目的で屋敷に入り込んだのではないかというふうに
 囁く者もいた。
  しかし実際のところ、マッドが知る限り男が母親に恋情めいたものを見せる事はなく、それどこ
 ろかそれとなく言い寄るメイドにも表情一つ変えずにあしらっていたから、あの男の興味は女より
 も只管に絵を描く事にあったのだろうと思う。
  いつも絵具で袖を汚している、どちらかと言えば無愛想な男。
  しかし別に笑わないわけではなかったし、陰鬱な男というわけでもなかった。父の膝の上に乗せ
 られたマッドは、男が父と快活に話をしているのを何度か見た事がある。
  そして男は、マッドに対しても優しく接してくれた。綺麗な黒い眼と髪、と。何処にでもある色
 合いの髪を恭しく褒められた事があった。確かにマッドの色合いは母親と同種であり、そういった
 意味では美しかったのかもしれないが、しかし幼いマッドには良く分からなかった。首を傾げてき
 ょとんとするだけに終わった。
  それ以降も、男は屋敷に出入りし、父と話をし、マッドを顔を見れば微かに顔を綻ばせていった。
 父が南北戦争で戦死した後は、男も従軍して何処かに骨を埋めたのか、逢う事はなかったのだが。
    戦争が始まる前に一度だけ、マッドは絵具やら何やらで汚れきった男のデッサンを、こっそりと
 見た事がある。
  父と男が何かを話している隙に、小さく垣間見て、泥棒めいた自分の行動はどう考えても咎めら
 れるものだったから、見たものは何一つとして誰かに話す事はなかったけれども、幼い中にも少し
 だけ引っ掛かるものがあった。
  別に、前衛的でわけが分からなかったわけでもなければ、陰惨たる様子を綴った絵でもなかった。
 何の事はない、ただの人物画と言ってしまえばそれまでだ。
  ただ、描かれている人物は、全て父親だっただけの事。
  何枚も何枚も、秀麗に描かれた父のそれは、父がモデルになった事は一度もなかった事を考えれ
 ば、男が隠れながら父を見て描いたか、或いは帰った後で父を思い出しながら描いたかのいずれか
 である事は明白だった。
  何故。
  幼い頃には分からなかったが、今ならそういう事か、と分かる。
  母にも若い召使にも反応しなかった男の目的は、おそらく父にあったのだろう。当時の父の容貌
 を完全に思い出せと言われると困難だが、覚えている父への賛辞には、父が秀麗であった事を示す
 ものもあったから、父に対してそういった欲望を持った人間も少なからずともいたのかもしれない。
 それを父が気付いていたかどうかはともかくとして。
  いずれにせよ、男が父に対する思いを口にしなかったのは確かだし、父を描いた絵も日の眼を見
 なかったようなので、それは依然として秘密として保たれている。
  一つ気になる事があるとすれば、それは顔が描かれていなかった肖像画があった事。
  あれも、描きかけの父の肖像であるのかもしれないと思っていたのだが、今思い出せばあれは父
 とは何か違うような気がする。
  その何かが分かったからといって、何が変わるわけでもないので、マッドはそれをずっと放置し
 てきたのだが。
  答えは意外な形で齎される事となった。

 「……これは、お前だろう。」

  茶色に変色した紙の中に、荒く描かれた鉛筆の線を見て、マッドはそれに対して懐かしさよりも
 まず最初に、なんでそれをお前が持っているんだと思った。
  それは確かにあの顔のない肖像画であり、鉛筆の線が残っている事が不思議なくらい紙も劣化し
 ていたが、問題はそれを賞金首サンダウン・キッドが持っていた事である。  
  あの画家の男が持っているはずのそれを、どうしてお前が。
  しかしそれを問うよりも、もっと聞き捨てならない事をサンダウンは口にしている。
  マッドは、記憶の中にある肖像を突き付けられて丸くなっていた眼を元の大きさに戻し、サンダ
 ウンを見上げる。

 「これが、俺だって?」
 「………お前以外に誰がいる。」  

  さも当然のように言い放ったサンダウンは、一体何処からその自信がこみ上げてくるのだろうか。
 そこに描かれた顔のない肖像がマッドであると疑いもしていない。
  ふん、といつもは無表情な顔に、何処か小馬鹿にしたような――と言うよりも苛立ったような色
 を、ごく僅かに浮かべている。

 「……薄汚れた男が悩ましげに持っていた。金を恵むつもりで描かれてやったのか。」
 「あんたも大概小汚いけどな……。」

  薄汚れた男という言葉に応酬しながらも、あの男も結局、戦争の波を乗り越えられなかったのか、
 と思う。

 「……どういうつもりで描かれてやったのかは知らんが、余計な事に巻き込まれても知らんぞ。」
 「あん?」
 「言っているだろう。悩ましげに持っていた、と。」

  その台詞に、マッドは片眉を上げた。そして、ようやく合点がいった。
  つまり、あの男は父親だけではなく、マッドもそういった対象で見ていたのか。しかし、何故顔
 を描かなかったのか。

    「顔を描けないほど思われてると、気づかなかったのか。」

  おもしろくなさそうなサンダウンの声に、そういうものなのか、と思う。そもそも何故サンダウ
 ンにそんな事が分かるのか。
  奇妙に思ってサンダウンを見上げれば、サンダウンはやはり無表情の中に微かに不満げな色を浮
 かべている。それもまた不思議だ。しかし、聞いたところで碌な返答が返ってくるとも思えなかっ
 た。これまでのサンダウンとの会話を思い出せば、サンダウンがまともな返事を返してくる事など
 なかった。

 「で、そのおっさんはなんか言ってたか?」
   「………気になるのか。」
 「あんた、さっき余計な事に巻き込まれるっつったばかりだろうが。だったら気にするのが普通じゃ
  ねぇのか。」
 「………お前には、何も。」
 「俺には?」

  では、他の誰かには何か言ったのか。
  しかしサンダウンはそれっきり口を噤んだ。これ以上は何も語る事はないと言わんばかりに。つ
 いでに、変色した紙もマッドに手渡さずに自分の懐に仕舞い込んでしまう。別にそれを欲しいとか
 そういう思いはないが、一体このおっさんは何しに来たんだとは思う。わざわざマッドに、その肖
 像がマッドである事を伝えに来ただけか。
  意味のない行動をしたサンダウンにマッドが呆れていると、サンダウンはふん、と鼻を鳴らし、
 何やら非常におもしろくなさそうな声で言った。

 「子供の頃のお前について、ぶつぶつと語っていたぞ、あの男は。」
 「へぇ。」

  子供の頃の事なんか語られても、別にマッドには痛くも痒くもない。まあ、好ましくはないが。
  興味なさそうに、気のない返事を返すと、サンダウンはやはりおもしろくなさそうな顔をしてい
 る。
  なんだ、と思って見ていると、サンダウンはいきなりマッドとの距離を縮め、マッドの耳朶を噛
 むようにして囁いた。

 「私の知らないお前を知っている、と言われた。」
 「は……?」

  間抜けな声を上げるマッドからサンダウンはすぐに身を離し、そのまますたすたと立ち去る。置
 いていかれたマッドは、サンダウンの声の苦々しさと、サンダウンから伝え聞いた男の台詞に、呆
 気に取られるだけだった。