アメリカ西部の気候は、基本的には乾いている。砂漠も所々に広がる事のある地域は、時折激し
 い雷雨が走る事はあるものの、概ね晴天が続き、荒野が広がっている。からりと乾いたその気候は、
 じめじめと湿気た気候よりも過ごしやすい。纏わりつく風が湿気を孕んで、じっとりと首筋を撫で
 る事もないし、部屋の中が湿気で水浸しになる事もない。 
  おそらく、アジアの極東の島国からしてみれば、限りなく過ごしやすく見えるだろう。

  が。

  いくら湿気という大敵がいないところで、夏というものは、古今東西、暑いものである。







  Pasta









  暑い。
  マッドは頭の中で、幾度となく繰り返してきた言葉を、もう一度改めて繰り返した。
  夏真っ盛りのこの季節、乾いた荒野にも当然の事ながら太陽光線はいつもより数割増しで降り注
 ぎ、その照り返しによってあちこちに拡散した熱波は、余す所なく――マッドのお気に入りの小屋
 の中にも、広がっていた。
  扉を開いた瞬間に、むわっとした熱気が出てきて、くらりとしたのは昨日の事。今日、マッドは
 籠った熱を外へ追いやる為、窓という窓を全開にして、隅々まで掃除を行った。そのおかげか、す
 っきりとした部屋の中は、空気も少しばかり軽く様な気がする。

  ある、一点を除いては。

  マッドは極力そちらを見るのを避けていたが、しかしどう考えても熱源――というか熱気と同じ
 くらい気分をげんなりさせる原因は、それにある。幸いにして、それはいつものようにマッドの動
 きを視線で追いかける事はないので、普通に考えれば普段よりも鬱陶しくないはずなのだが、しか
 し熱さの所為で、存在自体の鬱陶しさが割高になっている。
  だから、鬱陶しい視線がなくても存在だけで十分にマッドの気力を削ぐ。
  何よりも、鬱陶しい暑苦しい存在が、マッドが掃除している横で何もしない事が、更に腹立たし
 い。

  マッドは、嫌々ながら、しかし一言でも文句を言う為に、極力見る事を避けていた鬱陶しい場所
 をようやく振り返った。そして、その場所を見て、本当に後悔するくらいげんなりした。
  そこでは、ソファの上に寝そべっているサンダウンが、べったりと溶けていた。まるでソファに
 こびりついたように、べったりとしている男の姿は、見ているだけでも鬱陶しくて暑苦しい。踏ん
 づけてやりたいが、踏んづけた瞬間に脚がその身体にめり込みそうで、嫌だ。
  脚を引っ張ったら水飴のように伸びるんじゃないだろうかと思うくらいに、ソファの上で溶けて
 いるサンダウンは、動きたくないと言わんばかりだ――事実、マッドは今朝から今までの間で、こ
 の男が動いているのを見たのは食事の時だけだ。更に鬱陶しい事に、それでもこのおっさんはマッ
 ドの脱いだジャケットを、しっかりと抱きしめて、それに顔を押しつけている。  
  変態も、ここまでくると清々しい――いや、今は本当に鬱陶しい。

 「おい、キッド。」

  それでも、嫌々ながらも、マッドはサンダウンを呼ぶ。すると、ぴくりとサンダウンの耳が動い
 た。

 「飯だぜ。食うんだろ?」
 「…………。」

  この暑い中、それでもマッドは奮闘して夕飯を作った。料理というものは、火を使うため、嫌で
 もその場の気温を上げる。その影響を直に浴びるのは、料理を作っている人間――マッドだ。汗だ
 くになって作ったのだから、せいぜい崇め奉って食べれば良い。そうすれば、サンダウンのべった
 り感も許してやるのだが―――

 「てめぇ!残すたぁどういう了見だ、ええ?!」

  サンダウンは、せっかくマッドが作り上げた料理を残した。半分くらい。いつもなら皿まで舐め
 るように食べる男が、しっかりと残した。
  サンダウンがキノコが入っている料理を残す事は、よくある事である。キノコの入った料理の場
 合、キノコは大抵無傷で残る。しかし、それ以外の場合は、完食するのが常だ。
  が、今日の料理にはキノコは入っていない。
  にも拘わらず、サンダウンは残した。マッドが暑い中、必死になって作った料理を。

 「分かってんのか、俺がどんだけ苦労して作ったのか!このくそ暑い中、火を起こして熱いフライ
  パン振るって作ってやったのに、何考えてやがんだ!」

  料理を残されて怒り心頭のマッドは、晩酌用の酒を好き嫌いをしたサンダウンに渡すまいと握り
 締め、怒鳴る。そして、長らくの間眼を背けていた事実を、ようやく口にする。

 「最近、あんた俺の料理残す事が多いよな!なんでだよ!」

  実を言えば、キノコが入っていない料理をサンダウンが残すのは、今日が初めてではない。
  ここ数日、サンダウンはマッドの作った料理を残す事が多くなっている。最初のうちは具合が悪
 いのかと思っていたマッドだったが、立て続けに残されれば、そうではないと分かる。大体、サン
 ダウンに限って体調を崩すと言う事があるはずがない。

 「俺の料理に飽きたのなら、そう言えよ!」
 「……そういうわけではない。」

  詰るマッドに、ようやくサンダウンは口を開いた。べったりと身体を崩した男は、酷く面倒臭そ
 うだ。その態度がマッドの機嫌を損ねると言う事に、サンダウンは気付かない。

 「………飽きたのではなくて……食べる気にならないだけだ。」
 「………っ、同じ事だろうが、馬鹿ぁ!」

  サンダウンの言葉に大いに傷ついたマッドは、サンダウンに必殺一撃のビンタを喰らわせると、
 エプロンを身体から引っぺがし、足を床に叩きつけるようにして部屋から出て行ってしまった。

  ビンタを喰らったサンダウンはといえば、再びべったりとソファに沈み込む。 
  サンダウンも、マッドの怒りが理解できないわけではなかったし、何よりもせっかくマッドが自
 分の為に作ってくれた料理を残してしまう事は、非常に口惜しいと感じている。
  だが、どうしても食べる気になれないのだ。どれだけふわふわの卵焼きや、炒めた玉ねぎを絡め
 たドレッシングを掛けた鶏肉が、ほかほかと湯気を立てていても、食べる気にならない。まずい、
 とは思わないのだが、何故か味気なく感じる。
  そして、それはマッドに対しても同じことだった。
  此処最近、サンダウンはずっとマッドを抱いていない。
  むろん、マッドの事が嫌になったわけではない。他の男に抱かれていると考えればむかっ腹が立
 つし、マッドの肌の甘い匂いも出来る事ならずっと嗅いでいたい。しかし、それと、抱きたいと思
 う事はまた別だった。
  風呂上がりの上気したマッドの肌を見れば、確かにくらりとくるのだが、いざ事に及ぼうとする
 と何故か酷く面倒になる。ぴったりと抱き付いてみても、同じ事。結果抱き締めるだけで終わりに
 なる。
  これでは、マッドが怒るのも無理はない――別にマッド自身は夜の営みの回数が減った事につい
 ては特に何も思っていないのだが、生憎と、サンダウンの頭はどちらかといえばそちらのほうが重
 要である。
  これが、倦怠期というものだろうか、とマッドのジャケットを引き寄せて匂いを嗅いで、いやま
 だ覚めきっているわけではないと思いなおす。マッドの匂いを嗅いだだけで、こんなにも恍惚とし
 た気分になるのだから、倦怠期であるはずがない。倦怠期に突入してそのまま冷めきって終わって
 しまうなど、何が何でも避けなくてはならない。マッドに『お前じゃ満足できない』なんて事は、
 死んでも言われたくない。そんな事を言われたら、今まで我慢していたあれやこれやをマッドにし
 て、泣いて許しを請うまで虐めてやろう。縛って焦らして、限界まで責め立てて、マッドから求め
 させてやろうか。

  ……思考がずれた。

     とにかく、サンダウンはこのまま倦怠期に陥って、マッドを失うつもりはない。その為にも、今
 の状況を打開せねばならない。
  が、ジャケットに顔を埋めて、その匂いにうっとりしているおっさんに、良い考えが浮かぶはず
 もなく。
  そのまま、丸一日が経過した。

  





    「あのおっさん、また性懲りもなく俺の作った料理を残しやがったんだぜ!」

  だん、とジョッキをカウンターに叩きつけ、マッドは吠える。既に何百回となくそれを聞かされ
 続けているアニーは、やれやれ、と首を竦めた。何故マッドの言うおっさん――サンダウンがマッ
 ドの手料理を食する羽目になっているのか、聡い彼女は既に問い掛ける意思を失っている。代わり
 に、空になったジョッキにアルコールを注ぎながら、別の事を聞く。

 「また、キノコでも入れたんじゃないのかい?」
 「入れてねぇ!入れてねぇのに半分くらい残しやがった!」

  いつもは舐めるように食べる癖に、と怒鳴っていたマッドは、不意に、しゅんと項垂れる。

 「飽きたんなら、そう言えばいいじゃねぇか。」

  覇気のない声と傷ついたような眼に、アニーは再びやれやれと首を竦めた。
  この男とサンダウンが一体どういう関係なのか、そこまで深く追求するつもりはない。つもりは
 ない、が、まるで捌け口のように稀にこうして愚痴を聞かされるのこちらとしては、マッドがもう
 少し素直になれば良いんじゃないのか、と思う。サンダウンが自分の作った料理を食べない事くら
 いで項垂れるのなら、賞金稼ぎとして追いかけるのではなく、ちゃんと傍にいたいのだと告げれば
 良いのに。大体、ディオ戦の時にあれほど二人でいちゃついて、厩の裏側手で濃厚な口付けまでし
 ていたくせに――誰も見ていないと思っているのか――どうしてこうも遠回りな事をしているのか。

 「昼も夜もソファの上でゴロゴロして、このくそ暑い時に、見てるだけで鬱陶しい。」

  しょんぼりしていた口調が、再び険のあるものに戻る。もはやこれは、亭主への愚痴である。
  
 「挙句の果てには俺の作った料理が食えないだと!ふざけてんじゃねぇのか!だったら出ていけっ
  てんだ!」

     ああ一緒に暮らしているのか、という突っ込みはするだけ野暮である。『そんなわけねぇだろ!』
 と焦ったような声が返ってくるのが眼に見えているだけだ。
  だから、アニーは代わりに、べったりとソファに張り付くサンダウンの、その原因を教えてやる
 事にした。

 「あのさ……それって、あんたの料理に飽きたとかじゃなくてさ……。」







     しぶしぶと塒に帰ると、熱の籠った部屋の中で、相変わらずサンダウンがソファの上で溶けてい
 た。窓も開けていない部屋で転がっているものだから、熱中症でも起こしているんじゃないかと思
 って見ていると、もぞもぞと顔を上げてマッドを見た。その顔は普段と全く変わりなかったので、
 特に体調を崩しているわけではないと分かり、マッドは心配して損をしたような気分になる。
  が、病人ではないが調子が悪い事は事実だ、とマッドは思いなおした。
  普段よりもべったりとソファに転がるサンダウンを見て、確かにその差は、顔色に出ずともあっ
 たのだろうと思う。それに気付かずに、体調が悪いわけがないと決めつけてしまったのは完全にマ
 ッドの落ち度だ――別にサンダウンの体調の悪さにマッドは些かも関係していない為、マッドに落
 ち度があるとは思えない気もするのだが。

   「飯作るから、ちょっと待ってろよ。」

    ソファの上で蠢く男に声を掛けて、マッドは台所に立つ。そこに立っただけでうんざりするよう
 な暑さに見舞われたが、それを耐えてマッドは鍋にたっぷりの水を入れて火に掛ける。途端に、部
 屋の温度が一気に上昇する。
  それに構わず、沸騰した水にパスタの束を放り込み、茹であがる間にトマトと玉ねぎを細かく刻
 む。そして刻んだトマトと玉ねぎを絡め、塩とコショウと酢、それとほんの少しワインを垂らして
 味付けをする。そして、茹であがったパスタをしばらく冷水に付けておいて、十分に冷えた後で、
 刻んだトマトと玉ねぎを上に乗せ、更にバジルも塗して出来上がり。
  大したものではないが、今のサンダウンには下手に凝ったものよりも、あっさりとした味付けの
 ほうが良いに違いない。

 「おい、出来たぜ。」

    ソファにこびりついている男を、足先で突くと、蠢いていた男の動きが早くなって、のっそりと
 盛り上がる。むくりと身体を持ち上げた男は、胡乱な眼差しを冷製パスタに向ける。胡散臭そうな
 眼でパスタを見やる男に、マッドはもじもじしながら呟く。

 「こ、これならあんたにだって食えるだろ?いっつも作ってる料理みたいに、こってりしてないし。
  それに冷たいから、食べやすいと思うぜ。」

  食べるかなどうかな、ともじもじするマッドをサンダウンは一瞥すると、ぱかっと口を開いた。
 その様子に、今度はマッドが胡乱な表情を浮かべるが、雛鳥よろしく口を開いているサンダウンに、
 食わせろって事か、と呟く。ぱかりと口を開いて以降、自ら動こうとしない男に、マッドは仕方な
 くフォークにパスタを巻き付けると、その口の中に冷えたパスタを放り込む。パスタを口の中に入
 れた瞬間、サンダウンの口は閉じた。

 「う、うまいだろ?」

  もぐもぐと口を動かす男に、ひとまずはそれだけが問題だと思い、マッドは恐る恐る尋ねる。す
 るとサンダウンはマッドに視線を映すと、戻っていくフォークを握ったマッドの腕を掴んだ。そし
 てフォークの先を舐める。

 「おい!フォーク舐めるなんて意地汚い事しなくても、パスタはまだ残ってんだからそっち食えよ!」

  が、サンダウンは止めようとしない。それどころか、舐める舌をフォークからマッドの指へ移動
 させている。情事の最中のような、ねっとりとした舌使いに、マッドの背中が粟立つ。

 「何こんなとこでさかってんだ、てめぇは!」
 「マッド………。」
 「ふぎゃっ!」

  サンダウンに押し倒されて、マッドの口から変な悲鳴が零れた。まったく色気のない声に、しか
 しサンダウンは一向に退こうとしない。

 「マッド……すまなかった。」
 「な、何が!ってか、今の状況が一番すまねぇだろうが!」
 「こんな事で、私はお前を失いたくない。」
 「何の話だ何の!」

  深刻そうなサンダウンの口調に、マッドは怪訝な表情を作る。

 「確かに、長い間一緒にいるが、別にお前に飽きたわけではない……。」
 「はあ………。」
 「実際、お前がいないと堪らない……。お前の匂いに包まれていても、お前自身がいないと寂しく
  なる。」
 「寂しいって、あんた子供か。」
 「お前に他の誰かが触れる事など、考えたくもない……。」
 「散髪屋のおっさんにもかよ、それは。」
 「だから、決してお前に飽きたわけではない。私は、倦怠期なんてものに陥っただけの事で、お前
  を失うなんて事は嫌だ。」
 「……………。」 

  何か、このおっさんは血迷っているような気がする。いや、確実に血迷っている。多分、暑さの
 所為だ。サンダウンの食欲のなさややる気のなさが暑さの所為だと、アニーに教えて貰ったばかり
 ではないか。だから、なんか変な思考回路に陥っているのも、多分、暑さの所為だ。
  だが、そう考えてもマッドは自分の心が氷河期のように冷え込んでいくのを抑えられそうになか
 った。事実、先程まで暑苦しかった部屋の空気も、底冷えするような寒さに陥っている。それに気
 付いていないのは、暑さでおかしくなっているサンダウンだけである。 
  暑さの所為だ、とマッドはもう一度自分に言い聞かせ、先程のサンダウンの言葉を丸っとなかっ
 た事にする事にした。
  特に、倦怠期のあたりを。

 「キッド………。」

  眼の前の髭を全部毟り取ってやりたい気分に駆られながらも、マッドは殊更落ち着いた声でサン
 ダウンに告げてやる。

 「………あんた、自分が夏バテ起こしている事に、気付いてねぇな?」




  *夏バテの症状:全身の倦怠感
          食欲不振
          思考力の低下