喉元から競り上がったのは、悲鳴よりも血の味だった。頬が地面に何度も擦れ、傷を作ってはそ
 こを再び抉る。溢れ返った血の臭いで眼が眩みそうになるが、それ以上に冷ややかな痛みが、背後
 から身体を刺し貫いている。
  おぼろ丸が、血の色をした絶叫を上げるたびに、そこを更に貫いて悲鳴を上げさせる。しかしそ
 れはおぼろ丸がのた打ち回るのを見て喜ぶ為ではない。事実、背後で冷ややかに腰を打ちつけてく
 る男から、恐ろしく無機質な気配しかしない。まるで、氷を嵌めこまれているのではないのかと思
 うほどだ。
  氷に貫かれて些かの温情もなく中を抉られ揺さぶられるおぼろ丸は獣じみた喚き声を上げ、その
 声からは快の色がない事は明白だ。そして、それを深海に沈んだ白骨よりも尚冷たい眼差しで見下
 ろす男も、悦を感じてはいないのだろう。
  これは、快感を得る為の行為ではない。ただひたすらに、おぼろ丸を貶める為の行為だった。




  Phantom Pain






  おぼろ丸を突き飛ばすように、男の冷えた自身が抜け出る。おぼろ丸の中には、男が吐き出した
 欲望は一滴も流れていない。それどころか、男の熱の一分も残されてはいなかった。
  男がおぼろ丸を貫く時、男はおぼろ丸を貫く部分以外でおぼろ丸に触れる事はない。抱き締める
 事もなければ、呻き声を上げる唇を塞ぐ事もしない。むしろ、触れる事に嫌悪さえ感じているかの
 ような眼差しを浮かべる事の方が多い。或いは、限りなく軽蔑しきったような嘲りの笑みか。
  そう、この男が笑んだところを見るのは、この異世界に掻き寄せられた魂の中では自分だけだろ
 う。常に凍りついたような無表情を貫く男が、おぼろ丸を貫く時は、稀に微かな嘲笑を浮かべる事
 がある。
  しかし、それはむろん、おぼろ丸にとっては些かの喜びにはならない。だが、この男は自分と同
 じ世界の人間なのだと思うには十分だった。
 
  初めて間近で見た異国の人間は、郷里で聞いた異人についての噂通り、金の髪と青い眼をしてい
 た。だが、その髪は死んだ獣の毛皮のようにぼさぼさで、青い眼には言いようがないくらい暗い色
 を浮かべていた。
  そういう眼をした人間を、おぼろ丸は良く知っている。
  それは、闇に染まった人間の眼だ。そしてそれはおぼろ丸も含む、忍に多い眼差しだ。血を浴び
 る事に慣れ、闇の中を手探りで歩く者の眼だ。光に向かう道を知りながら、自分で閉ざした者の眼
 だ。
  おぼろ丸が、国を光の先へと進めようとした男を、途中で突き放して見殺しにしたように。
  この男もまた、光を伴う者を、断ち切ってしまったのだろうか。

  同じ匂いを感じたおぼろ丸を、男が地面に突き飛ばして中に抉り入ってきた時、おぼろ丸は驚か
 なかった。むしろ、ああやはり、と思った。
  男が、その薄暗い瞳で、己を冷ややかで侮蔑に満ちた眼差しで見ていた事におぼろ丸は気が付い
 ていた。そしてその眼差しは、丸ごとそのまま男に跳ね返っている事にも。
  男も、おぼろ丸が自分と同じ匂いをする存在である事に気付いたのだろう。おぼろ丸もまた、光
 を伴う者を見捨て、そしてそれによって光の先に進む道を閉ざし、それを後悔している。その、あ
 まりにも遅く身勝手な後悔をしているおぼろ丸に、男は自分を重ねているのだろう。
  男もまた、光を伴う者を己の選択肢で失い、あまりにも遅い後悔している。失うような行為をし
 た自分自身も、失って後悔している自分自身も、許せないのだろう。
  だからこそ、こうして、唾棄すべき存在だと言わんばかりの表情で、自分と同じ間違いを犯した
 おぼろ丸を地面に転がして、腰だけを掲げるという、男としては屈辱的この上ない姿を強要させ、
 刺し貫いている。
  それは、男にとっては、自らを凌辱しているのと同じ行為。
  自分と同じく醜く生きるしかないおぼろ丸を犯す事で、男は自らを罰しているのだ。
  そして、おぼろ丸にとってもそれは、己を罰する為の行為だ。二度と手に入らないであろう光を
 失った自分を罰する為に、おぼろ丸はこの行為を受け入れ、自らを貶めて罰している。

  どちらも達する事もないまま、突然突き飛ばされて地面に転がった身体は、刺し貫かれた時に強
 張ったままの状態で、少しも力が抜けない。だが、それに優しく手が触れる事も、ましてや声が掛
 かる事もない。行為の最中でさえ、崩れる腰を支えて貰った事さえないのだ。
  自分の血だけが溢れかえる秘所は、そのまま凍りつきそうなくらい冷たい。剥き出しのそこは、
 むろん、そのまま放置される。おそらくこの光景を、他の少年や少女達に見られても、男は顔色一
 つ変えないだろう。詰られても何一つ言わないに違いない。
  それほど、男の中ではおぼろ丸も男自身も、価値を持たぬ存在に成り下がっている。

  べったりと、体中から獣の臭いをさせて倒れていたおぼろ丸は、ふと気付く。
  まだ、そこに男がいる事に。

  何が。

  期待をしたわけではなかった。
  ただ、行為とさえ言えぬ行為の後、男が一瞥すらせずに立ち去るのは常だった。それが、今夜は
 倒れ伏したおぼろ丸の背後で、ずっと佇んでいる。それを、不審に思っただけだ。
  血の滲む頬を地面に擦りつけたまま、おぼろ丸は視線だけを動かして男の様子を窺う。
  背後に佇む男は、やはり、おぼろ丸の事など何一つとして見ていなかった。
  その青い双眸は、何か信じられないものを見たかのように、虚空を見つめている。微かに瞠目し
 たような男の表情は、おぼろ丸を睥睨する時の冷たい氷は何処にも浮かんでいない。その氷が溶け
 切ったかのように、不意に、ゆるゆると視線が緩んだ。薄暗く澱んでいた青い瞳が、晴れた空のよ
 うな色に変化する、その瞬間。

  はっとして、おぼろ丸は慌てて視線を逸らす。
  見てはならないものを見てしまったような気がしたからだ。それは、まるで、闇に呑み込まれて
 いた人間が、新たな光を見つけたような表情だった。
  おぼろ丸と同じ匂いを纏う男から、その一瞬、おぼろ丸とは全く別の、光に通じる世界への道を
 見つけたような気配が漂ってきた。
  何故、何が、と思い、男から逸らした視線を、男が向けた方向へと転じる。
  すると、そこには。

  奇妙に歪んだ風景。
  此処に呼び出された人間達は何処か歪んでいて、その心情を表わすかのように、この世界の景色
 は歪んでいる。昼とも夜ともつかぬ曇った空と、灰で覆われたようにくすんだ色。そこではまとも
 な光など望めず、ただひたすらに薄汚れていた。

  その、澱んだ空に、一つ浮かんでいるのは。
  上弦の月だった。
  この世界に来て初めて見る、懐かしい、しかし歪んで崩れた形。
  その崩れた光を見て凍りついている男は、しかし表情は今までにないくらい、強張りが解けてい
 た。そして、かさついた手を顔の前に翳したかと思うと、何かを望むようにゆっくりと閉じられた。
 その手つきは壊れそうなものを閉じ込めるかのように、繊細な手つきだ。まるで、愛しい者にはこ
 うして触れるのだと言うように。
  男から漂う気配は、いつのまにか、凍てついた氷柱から穏やかな日差しに変化している。
  おぼろ丸を置き去りにしてしまったかのようなその気配の変化に、おぼろ丸は今更ながら打ち捨
 てられたかのような気分になった。これまでもずっと、行為の後は後処理さえなく、ただ地面に転
 がされていたのに。
  今、男がはっきりと、失われたはずの光を一つ見出した事に、置いていかれたような気分になっ
 たのだ。
  だから、咄嗟に、男を引き止める為に、初めて声を上げた。

 「夜明けは、まだ、来ぬか………。」

  虚空に浮かぶのは月で、再生の炎であり新しき道を示す夜明けの光は何処にもない。それを告げ
 る事で、光はまだ見つかっていないと暗に告げたつもりだった。
  だが、ゆっくりと首を動かしておぼろ丸を見た男は、初めておぼろ丸をおぼろ丸自身であると認
 識し、そして冷たさはないが、しかし憐れむような光をその眼に浮かべた。

 「あれは、何も夜明けだけを背負うわけではない。」

  その口調は、夜明けが来なくては救いの訪れぬおぼろ丸に対してやはり憐れみを孕んでいたが、
 同時に何かを想い柔らかかった。
  夜明けである必要はないのだと、男は月に手を伸ばす。夜明け以外にも気配を残していたと呟き、
 愛しげに月をなぞる。ぼやけて歪んだ月であるのに、男は確かにそこに光を見つけたのだ。

 「…………マッド。」

  己を犯していた時の表情からは想像もつかぬ優しい声音で、何者かの名を囁く声を聞き、おぼろ
 丸は酷い諦めに襲われた。
  男はそれでも闇から抜け出せないだろうが、しかし光を探す為に足掻き続けるはずだ。闇の中で
 もがいて、人間として死ねる道を探すだろう。
  闇の中に溶け込んで外道として生きるおぼろ丸を置き去りにして。

  もはや、男はおぼろ丸を凌辱する事で己を罰する事はないだろう。
  男は、男の罪を裁く相手を、既に見つけている。
  
  凍えを取り除いた男は、その夜、初めて崩れ落ちたおぼろ丸の身体を労わった。謝罪を告げて、
 後始末をして。
  だが、その行為は、おぼろ丸にとってはひたすらに惨めなだけだった。
  それは、おぼろ丸が世界でただ一人きりになった事を意味するだけだった。




  男が立ち去った後、おぼろ丸は生まれて初めて、闇を恐ろしいと感じた。

  だが、もう、傍には誰もいない。